奈落の胎動
白い円形のテーブルに、五体のマネキンのような天使たちが載せられている。
それぞれがポーズを取ったまま、石膏に覆われ、微動だにしない。
よく見ると、ステージはエレベーターのように、
ゆっくりと、しかし確実に下へと下降していた。
周囲はすべて暗闇。
場所によって濃度が異なるのか、視界がぼやけたり、
逆に異様にクリアになったりするが、音は一切しない。
テーブルが下がる音さえ、まるで空間に吸い込まれているかのように消えていた。
視点を下に下げてみると、テーブルの下には一本の杭が伸びており、
まるで巨大なゴルフティーのような形状をしていることがわかる。
──そして、唐突に。
テーブルから「カシャン」と乾いた音が響き、
石膏が次々と崩れ落ちていく。
「ぷはっ」これじゃあ息できないじゃない。夏樹は悪態をついた。
「ちゃんと鼻にストロー差してました?」
「そういう問題じゃなくて、こんなこと意味がないでしょ!」
「演出だそうです」志津香があたりの様子を伺いながら答えた。
暗闇の中、五人の天使たちはようやく自由を取り戻したが、
その空間はあまりにも静かで、あまりにも不穏だった。
「動けるようになったってことは敵が出たってことよね」
夏樹は短い肉厚の翼をぴこぴこと動かした。
地中の所々に空いた洞窟からは蝙蝠に似た巨大な魔物が
大量に吹き出してきている。翼の部分に刃が付いていて、
見た目より殺傷力が高そうだ。
空気は重く、濃密な魔素が結界の外側にまとわりついている。
人間だったら一息で異常をきたす重苦しい空気が
結界に纏わりつくように包み込んできた。
「魔素が濃くなってきた。神聖結界強化、出せます?」夏樹が声を掛けた。
「……」
「なんで誰も返事してくれないのっ!?」
「なんか、偉そうだしー」
紗耶香が弓を構えながら、軽く言い放つ。
「ねー」
恵も同調しながら、鞭を手に持った。
「最初に天使になったのも、最初に天界に来たのもあなたじゃないでしょ」
「佐和子さんだって聞いてるよ」
「その佐和子さんから任されたのよ、わたし」
「“よろしくね”って」
「ただの挨拶じゃん、それって」
「やばっ」
「……神聖結界強化、完了です」
不毛なやり取りを聞き流していた志津香の手から、淡い光の輪が広がる。
その光が波紋のように周囲に広がり、
近づいていた魔物たちをまとめて押しのけた。
「私は御使いになるために、修行を積んできましたから」
「ちょっと余裕あるんなら私の方も手伝ってほしいな、
いきなり実戦なんて無茶振りでしょ」紗耶香が愚痴った。
「きついよねー、これ」恵は迫ってくる刃の付いた
蝙蝠に鞭を振るうが牽制程度にしかなっていない。
「できる限り支えるので、近くに来てください」
志津香はにこりと微笑みながら、仲間たちを呼び寄せた。
「私も結界強化に加わるわ」
漆黒の槍で結界を突破した蝙蝠を残らず殲滅した佐和子が、静かに会話に入ってくる。
(奈落型魔獣の姿が無い。魂喰い、あるいはあのガルガンチュアすら
出現してもおかしくなかったのにーー意図的に撤退したと見るべきね、
全員SSR天使であることはバレたかも…)
だが、佐和子の表情に焦りはなかった。
「まずは底まで辿り着かないと。戦闘以前の問題だからね」
暗闇に沈む空間は、まるで生き物の胎内のように粘ついた空気を孕み、
時折、遠くから脈動するような低い振動が響いてくる。
それは耳ではなく、皮膚の内側に直接響くような重さを持っていた。
蝙蝠型の魔物は、近づくたびに空気を切り裂く金属音を立て、
翼に刻まれた刃が結界の膜をかすめると、淡い火花が散る。
その火花が闇に溶け、すぐに飲み込まれていく様は、
まるでこの空間そのものが、異物を拒む意思を持っているかのようだ。
志津香の放った光輪が辺りを照らし出した瞬間、
闇の中に浮かび上がる無数の目玉のようなものが浮かび、
洞窟の壁面や天井に点在しているのが見えた。
それらは瞬きをせず、ただじっと、天使たちの動きを伺っている。
「……っ、ここの空間、底がないの?」
紗耶香が一瞬、視線を落とし、足元の暗闇に吸い込まれそうになって息を呑む。
周囲の目玉が一斉に紗耶香の方を向いた。
「紗耶香、動かないですぐに戻って!」佐和子が注意する。
(見られた、表層情報は抜かれたかーー
天界ガチャの創造までは見抜けないと思うけど…)
佐和子は槍を握り直しながら、低く囁いた。
「ここは奈落の淵。このまま降りると、本当に『底』に着くわ」
その言葉に、皆の背筋が凍る。
まるで闇の中の何かが、天使たちの心の動揺を見透かし、
嘲笑っているかのようだった。
真下から強烈な瘴気が吹き上がった瞬間、空間そのものが悲鳴を上げるように軋み、
音もなく視界が歪んだ。まるで奈落が意思を持ち、
訪れた異物を押し返そうとしているかのようだった。
蝙蝠型の魔物たちは狂ったように羽音を響かせ、
瘴気に飲まれる前に逃げ去っていく。
五人の脳裏に、まるで耳元で囁かれるように、ガウの声が甦る。
『大悪魔ラウムが今回のターゲットだ。神器を持つ君たちなら、
粛清可能な相手だ。いざとなったら佐和子が脱出させる』
その言葉が蘇るたび、胸の奥に重く沈むものを感じる。
誰も返事をする余裕などなく、ただ固唾を飲んで瘴気の波をやり過ごすしかなかった。
構想段階で浮かんだのが冒頭シーンからでした。本編が生まれた切っ掛けのエピソードと言えそうです。
看護師天使応援いただける方は”いいね”お願いいたします。