決壊の門
ミリアムに戦況の概要を知らされると、
天界の王座の前で、佐和子と志津香が跪く。
背後では夏樹が、重症の紗耶香と恵の治療を必死に行っていた。
白銀の仮面の奥で、ガウの瞳は冷たく揺れる。
「次元連結に失敗し、次元断裂が起きておりました」
佐和子の声は静かだが、その背筋は決して折れていない。
「お前らしくない失敗だな。佐和子」
ガウの声にわずかな苛立ちが滲む。
「それは私がっ――」
ミリアムが声を上げかけた瞬間、佐和子が軽く首を振り、目で制した。
「申し訳ございません」
短く、それだけ告げて頭を下げる。
「ならば、エンジェルリングで侵入した敵をすべて弾き出せ」
佐和子は顔を上げ、淡々と告げる。
「紗耶香と恵が負傷しております。エンジェルリングは発動できません」
「敵が迫っているぞ」
ガウの声が鋭くなる。だがその奥に、焦燥と苛立ちがにじみ始めていた。
「首魁の大悪魔を打ち取れば、ゲームの勝利です。お任せください」
佐和子の掌にはすでに微かな術式の紋が浮かび、
志津香の視線は空間の歪みに釘付けだった。
**
その瞬間、天界の門に巨大な雷光が落ちた。
門の守護天使が最後まで槍を構えたまま、炭のように焼け焦げ崩れ落ちる。
「俺が一番乗りだ!」ラウルの豪快な声が響き、一目散に門をくぐっていく。
(やったぁぁぁぁ!)
リズも思わずポケットから飛び出し、ラウルの頭の周囲をくるくると回った。
暴れ者の雷の精霊として天界を追放されたラウル。
以降、幾度も天界に近づいては地に叩きつけられてきた。
体を引き裂かれるような痛みの中、
見えない天界の門をこじ開けることに己を賭けた。
この日、ついに自力で天界の門を潜り雪辱を晴らしたのだ。
「先行しすぎだ、馬鹿め」
舌打ちと共に、ドリップもその後を追う。
**
ほんの一部――針の先ほどの侵略。
だが、問題はそこではなかった。
ガウの心が、過去の呪縛に囚われていたことだ。
本来なら、この場面で即座に天界の門を封鎖し、侵入者を強制排除すべきだった。
大悪魔も眷属も摩耗しきっている。長くは留まれない。
天界の奥に少し撤退するだけでいい。
それはミリアムも、志津香も、佐和子も理解していた。
だが、ガウの眼前には“あのドリップ”がいた。
かつて自らの権威を踏みにじり、信仰を奪われ、床に尻餅をつかせた男。
いまや悪魔の首魁として、天界の門に踏み入ろうとしている。
ガウは、どうしてもそれを許せなかった。
仮面の奥、ガウの唇が微かに歪む。
「今度こそ、貴様を跪かせる……」
天界の門を砕いた雷光――
それは、ただの物理的破壊ではなかった。
「神域がゆらいでいる」
その一撃は、世界を支える理の座標そのものに、歪みを刻む因果の砲声。
燃え落ちる守護天使の影に、
高位の天使たちですら、かすかな恐怖と動揺を隠しきれない。
“決壊”――
これまで伝承の中にしかなかったその言葉が、
ついに天界に実体を持った瞬間だった。
鐘の音。
澄んだはずの空が、微かに血の色を帯び始める。
**
その頃、大悪魔ラウムは配下をすべて失い、唯一仁を伴って、
権天使十体に包囲されていた。
その顔は血にまみれ、だがなお狂気の笑みを浮かべている。
「看護師天使たちはまだか!貴様らが代わりになるならそれでも構わぬ!!」
ラウムの腹部が膨れ上がり、裂けた肉の中から現れたのは巨大な口。
次の瞬間、目の前に迫る権天使を丸ごと飲み込んだ。
「ぐ……ぎゃあああッ!」
響き渡る断末魔。
動揺した天使たちの陣形に、追い付いてきたセーレが躍り込む。
「へっ、隙だらけよ!」
背後から冷酷に三体の権天使を蜘蛛の巣に引き込み、黒翼を大きく広げる。
その瞳はもはや復讐と血の饗宴を求める獣のものだった。
仁もボロボロになりながら、背中合わせにラウムと立つ。
「すでに我々は軍として機能しておりません。
ドリップを囮にして撤退を進言いたします」
「ここが死線だ。撤退などないわぁ」
ラウムの意思の固さを見て、仁も覚悟を固めた。
(佐和子、すまん。お前を取り戻すことは出来そうにない)
そこへ、戦場の空間をかき分けるように看護師天使たちが到着する。
地上戦でかすかに乱れた羽ばたきの音さえ、いまは異様に澄んで響いた。
「ずいぶん遅かったな。待ちくたびれたぞ。天界の門は燃えている」
ラウムが歓喜の声を上げ天界門を指さした。
その声音には、かつて味わった屈辱と地を這った記憶すらも飲み込んだ
歓喜の毒が宿っていた。
「こちらにも事情はあるのです」
志津香が静かに前のめりに構えを取る。
だが、体の揺らぎは微かに不安定だった。
座標の乱れ!?志津香はちらりとセーレを覗き見る。
天界の空間そのものが、すでに正しい座標を保っていない。
「他の三人はどうした?」
「いえ、あなたの相手は私一人です」
「大した自信だ」
ラウムは喉からごろごろと血の混じる唸り声を上げた。
**
戦場はすでに、天界軍の掃討戦に移行していた。
権天使たちの結界陣は寸分の狂いもなく張り巡らされ、
光撃は悪魔軍の戦列を次々と貫き、セーレの残存眷属も光に巻き込まれて蒸発していた。
そのときだった。
天界座標の一角が、わずかに揺らぐ。
それは最初、誰も気づかぬほど微細な違和感だった。
だが、その波紋は瞬く間に広がり、因果律の固定座標を狂わせ始める。
「……ッ!?座標の異常反応!」
結界管制の報告が響く。
「前方、ガルガンチュア群に異常!魂密度五百を突破個体が誕生したようです!」
ミリアムが蒼ざめた顔で振り返る。
咆哮とともに、それは現れた。
瘴気を纏い、天界の光を食むかのように滲み出す漆黒の影。
15メートルを超える異形の魔獣――ユルカト級ガルガンチュア。
親衛隊権天使フィンブリオルが血の気を引かせる。
腐肉と金属片のような瘤に覆われ、眼窩のない頭部から触手がのたうち、
口腔のない顔面からは、魂の断末魔が渦を巻き漏れ出す。
「ユルカト級……!」
ガルガンチュアの咆哮に、天界結界の座標点が食われ始めた。
「座標点が侵食されてる!」ミリアムの声が上ずる。
「権天使部隊、あの個体を最優先で叩け!」
ユルカト級は唸り声を上げ、天界の結界網へ空間歪みの楔を打ち込むように突撃する。




