ミリアムの報告と結界起動
天界の高座にて──
精霊たちの動きについて、大天使ガウへの緊急報告が行われていた。
「……水鶏と、ウサギと……鯖が? 私に歯向かってくるというのか?」
ガウは静かに尋ねた。
その声は抑制されていたが、奥底に滲む苛立ちは隠しきれない。
天界の柱に刻まれた紋章が淡く光を帯び、空気がかすかに震えた。
報告に立っていた女天使・ミリアムは、息を呑んだ。
「精霊としては、いずれも上位に分類される存在です。
一応……警戒されたほうが、よろしいかと」
言葉を慎重に選びながらも、彼女の声には明らかな緊張があった。
「──鯖の、何に警戒するというのだ!!!」
ガウの怒声が高座に轟いた。
その一喝で、天の柱が一瞬ぐらりと揺れたかのようだった。
「食中毒にでも注意しろというのか? 生き腐れと言うからな!」
あまりにも理不尽な叱責に、ミリアムは思わず眉をひそめかけた。
だが、それをぐっと堪える。
怒られ慣れていないのだ──というより、怒鳴られる立場に慣れていない。
ミリアムもまた神格上位に属する存在であり、
あと一階級昇格すれば、惑星の統治権を持つ候補に並ぶ。
だが今この場では、ただの報告係でしかなかった。
「……水鶏は、平島家に憑く精霊。
ウサギは、志津香の背後にいる存在と思われます。
鯖については……いまだ詳細が掴めておりません」
本来なら佐和子が行くはずの任務だった。
だが小惑星改造に掛かり切りの為、代わりに立ったのがミリアムだった。
そのせいで──最初の報告からこの有様である。
(……ぜんっぜん割に合わない!)
そう思いながらも、震える喉を押さえつけるようにして声を張る。
「それと……ウサギの精霊は、看護師天使である志津恵の実家とも所縁が深く
……ガウ様を、そのぅ“魂魄泥棒”と、批判しております」
「……ああ?」
ガウの目が細くなった瞬間、ミリアムの背筋に冷たいものが走った。
──ガウ様にお近づきになれたら昇格間違いなしでしょ。
──ミリアム様、羨ましいな。あやかりたいヨ。
同期のアバ、そして後輩ケイトの軽口が脳裏をよぎる。
瞼がぴくぴくと痙攣した。
(あれ……私、まさか……はめられた?)
ミリアムは知らなかったのだ。
天界随一の温厚さで知られるガウが、
「ドリップ」に関する話題になると途端に感情的になることを──
完全に機嫌を損ねたと悟ったが、ここまで来たからには報告をやりきるしかない。
ミリアムは、もはややけっぱちで言い切った。
「……あと、ウサギの仲間に“カメ”もいるかもしれません」
沈黙。
天界の大広間に、重苦しい気配が降り立った。
──報告を終えたミリアムは、しょんぼりと肩を落としながら、
天界の渡り廊下を歩いていた。
白い柱の陰で丸くなった背中に、後輩ケイトが声をかける。
「まあまあ、こんな日もあるヨ」
ミリアムがむっとして顔を上げると、今度はアバが笑顔で近づいてきた。
「バッカス様が新しい酒を仕込んだんだって。微炭酸のテキーラだって!」
「……は? なにそれ」
「興味出てきたでしょ? 酒好きのミリアム先輩ならさ〜」
「……ちょっと、気になるかも」
「今日はもう飲んじゃお。こんな日はさ、酒がうまいよ」
ミリアムは目元をごしごしと擦った。
「……あんたたちぃ、私が惑星任されたら、死ぬほどこき使ってやるから」
「先輩、意識高いヨ〜」
「にょほほほ」とケイトが気味の悪い笑いを浮かべる。
三人の足音が、渡り廊下に軽やかに響いていった。
***
「こんなところに風穴があるとはね」
ドリップは最後の起点となる風穴の中へと、軽やかに降りていった。
足元には霊脈の気配が脈打ち、空気がわずかに震えている。
「中、かなり広いわ」
ユキが杭の打ち込み場所を探っていたその時──
奥の闇から黒紫の鱗が闇に浮かび上がり、巨大な蛇が姿を現した。
「結界の発動だけは、このネヴィスが阻止させてもらおう」
その背後には、無数の蛇たち。
ネヴィスはすべての配下を引き連れてきていた。
ドリップは薄く笑った。
「あの焦りようだと、武雄は上手くやったらしいな」
「ええ。霊脈、動き始めてる」
ユキは最後の杭を握りしめながら応えた。
翼の生えた蛇たちが、一斉に距離を詰めてくる。
だが、ドリップは結界も張らず、避ける気配すら見せない。
その前に──ラウルが無言で一歩、踏み出した。
両手に淡い閃光が走る。
「全員にターゲット設置完了。アーク放電」
雷光が咆哮と共に炸裂し、蛇たちを焼き尽くした。
激しい炸裂音と、肉の焼け焦げる匂いが一面に立ち込める。
(正直、あれは俺でも躱せん)
ドリップは飛び散る焼け爛れた肉片を眺めながら、心の中で呟いた。
蛇に同情する性分ではないが──それにしても、ひどい匂いだ。
瞬時に無数の目標に印をつけ、そこへ雷撃を誘導する。
印は無制限、消すこともできない。
普通の人間には到底不可能な芸当。
補助脳か、人に近いAIか──それに類する何か。
(ねえ、光の君。私たちのこと、ばれてるんじゃない?)
ポケットが僅かに光り、リズの声がラウルの頭に響く。
(ばれてはいない。勘ぐっているだけだ。
だが、元は俺たちもひとつだったのだから、ばれようがどうということはない)
ドリップはニヤニヤと笑っている。
だが、それ以上詮索する気配はない。
そして、静まり返った焼け跡に、ドリップの声が響いた。
「お前はもっと、人の痛みを分かった方がいい」
「痛みなんて知らない」
ラウルは淡々と応える。
「昔は、人だったろう。少しは思い出してみるんだな」
「なんで敵を倒して説教されなきゃならないんだ」
「そりゃそうだ」
ドリップが両手を上げて、おどけてみせた。
「ちっ」
ラウルは舌打ちし、砂を蹴り上げた。
次の瞬間、地中から光の線が走り出す。
光の線は大地を這う霊獣のように螺旋を描き、
岩肌に古代語の紋章を浮かび上がらせながら、風穴全体を呑み込んでいった。
空気が震え、魔素が逆流する。
結界が、完全に起動をし始めた。
「これで約束は果たしたぜ」
ドリップが砂埃の中から姿を現し、肩を軽く回しながら言った。
その顔には、どこか満足げな笑みが浮かんでいる。
「後は──どちらがアイムを倒すかの競争となるわけだが…」