黒砂繭と呪猿の森
残酷描写があります。苦手な方は飛ばしてください。
ドリップたちはフォルクスワーゲンのボンネットに霊脈地図を広げ、
その上を指先でなぞりながら、
霊木を打ち込むべき六つの結界点を慎重に見定めていた。
地図には、地中を走る霊脈の流れと魔素の濃度が細かく記されている。
一本でも欠ければ、結界は成立しない。
「……ここだな」
ドリップが一つ目のポイントに足を運び、
苔むした地面に古びた霊木の杭を打ち込む。
乾いた音が森に響く。しかし、何の反応もない。
「……静かすぎる」
ユキが細く息を呑み、辺りを見渡した。
木々は揺れず、鳥の声も、虫の気配もない。まるで森そのものが、
息を殺して何かを待っているようだった。
二箇所目の杭が地にめり込んだ瞬間、空に異変が走る。
上空を漂っていた細長い蛇影が、まるで磁力に引かれたように収束し、
黒い渦を描いて回転を始めた。
空が唸り声を上げ、黒雲が泡立つように蠢く。
「気づかれたな。次で来るぞ」
ドリップの声に、三人はすぐさま車へと駆け戻った。
エンジンをかけると、フォルクスワーゲン・シロッコが唸りを上げ、
タイヤを軋ませて樹海を走り出す。
三箇所目──
樹海のさらに奥。霧が漂い、木々に陽が届かぬ岩場の根元。
ユキが杭を構えたその瞬間、空間が歪んだ。
「……来た!」
空気が裂けるような破裂音とともに、巨大な蛇が虚空から出現する。
その鱗には、赤黒く焼き付けられたような古代文字がびっしりと刻まれていた。
呪詛そのものが肉体を持って現れたような、圧倒的な存在感だった。
蛇の目が、静かにドリップたちを捉える。
「……アイムの眷属か」
ラウルが低く唸る。声には嫌悪と、わずかな殺意がにじんでいた。
「ノロマめ。ようやくお出ましか」
ドリップの口元がわずかに歪む。
「ユキ、こいつは俺が引きつける。お前はさっさと杭を打ち終えろ!」
その瞳は、獲物を見据える狩人のように冷たく澄んでいた。
「神界滅法・黒砂の刻」
その声と同時に、ドリップの身体から音もなく黒砂がこぼれ落ちる。
それは重力を持たぬ塵のように宙を漂い、
やがて意志を持った獣のようにうねりながら、蛇の巨体へとまとわりついていく。
黒砂は鱗の隙間に入り込み、刻まれた古代文字を這うようになぞっていく。
蛇は怒りの咆哮を上げ、巨体をのたうたわせたが、
塵はそれすら意に介さぬ様子で全身を覆い、繭のように包み込んだ。
「グゥゥゥアァァアッ……!」
空が震えるほどの叫びをあげ、蛇は激しくのたうち回る。
だがやがて、苦悶の痙攣へと変わり──
ついには、重力に引かれるようにその巨体を地に横たえた。
「……終わったよ」
ユキの声が静かに響いた。
三本目の杭を地に打ち終え、振り返ったところだった。
「こっちもだ」
ドリップの身体へ、黒砂が音もなく吸い込まれていく。
まるで最初から存在しなかったかのように、元の姿へと戻っていった。
「これで武雄が動いてくれてりゃ、次で終わるんだがな……」
彼の視線が向いたのは、遥か上空。
今もなお、黒い渦がゆっくりと空を蝕んでいる。
その中心からは、かすかながらも大気の揺らぎが広がり始めていた──
***
武雄は無言のまま、樹海の奥へと静かに踏み入った。
手には霊木の杭を握り、足元には湿った苔が静かに沈む。
一本目の杭を打ち終えたとき、彼の肩口にとまっていた一羽の水鶏が、
ふわりと志津香の姿をかたどった。
──志津香の姿を借りたクイナ。
目元を呪印の付いた布で覆い、白装束を身にまとったままだ。
その口元には、次の杭がしっかりと咥えられている。
志津香が死んだと知らされた夜。
武雄は迷わず古河家へ駆けつけた。
だが、白布に包まれた遺体に触れた瞬間、彼はすぐに悟った。
──これは、魂魄の抜け殻だ。
古河の者たちは何も知らぬふりを装いながら、
異例の措置として、遺体の平島家への引き渡しを申し出てきた。
その裏で何かが進行していることなど、察するまでもなかった。
(そんなに悲しむことないのに。私が慰めてあげるわ)
そのとき、武雄の足元で甘く囁いたのは、
代々平島家に憑いてきた水鶏の精霊──クイナ。
彼が十五で家督を継ぐことになったのも、この精霊に選ばれたがゆえだった。
(この身体も、私が上手に使ってあげる)
志津香の肉体は魂を失ったまま封印されていたが、
クイナがその体に憑依することで腐敗は止まり、
魂の帰還を待つ"器"として、この世にとどめ置かれていた。
武雄は黙して語らず、次の杭を構えて膝をついた──その瞬間。
樹海の奥から、地を這うような呻き声が響いてくる。
「……来たか」
霧の間を縫うように、猿の怪物たちが姿を現した。
目は濁り、牙を剥き、四肢を使って地を這うように迫ってくる。
その肌には瘡蓋が浮き、腐った毛皮の下からは黒い煙のような呪気が滲んでいた。
かつて人であった者たちの、理性を失った成れの果て。
本能と呪詛だけで動く、呪猿の群れ。
「クイナ様、右手は任せます」
短く告げると、武雄は正面の猿たちへと突進した。
その身が膨れ上がり、筋肉が弾け、血管が浮き上がる。
大地が彼の歩みで軋み、空気が圧に震えた。
「おおおおりゃりゃりゃりゃああッ!」
正拳が猿の群れをかすめた刹那──
爆音のような風圧と衝撃波が炸裂し、数体の猿がまとめて吹き飛ぶ。
背後の岩壁が粉砕し、猿たちの骨が無残に砕け、血と煙が舞った。
「ぁあん♡」
クイナはそれをうっとりと眺めながら、
志津香の姿のまま、右から迫る猿どもへと手を差し伸べた。
その指先が一体に触れた瞬間──
猿の目がぐるりと回転し、白目を剥いたまま、その場に崩れ落ちる。
「きょーきょきょきょ」
次の瞬間、クイナは水鶏の本性を露わにした。
無数の羽がざわめき、音もなく地を滑るように移動すると、
最後の猿の胸元を指で突いた。
ぐしゃ、と粘りついた音が響く。
猿は痙攣しながら崩れ落ち、口から濁った吐瀉物を垂れ流した。
異臭が辺りに立ち込める中、クイナはその場に静かに胡坐をかき、
志津香の美しい顔のまま、瞼を閉じた。
──素手で敵を葬り、ただ触れるだけで命を断つ。
退魔刀を継ぐはずの平島家の戦い方とはかけ離れた戦術。
だがそれも、異質な精霊・クイナを従える武雄だからこそ成せる芸当だった。