それぞれの出発
ユキとラウルはすでに出発の準備を整えていた。
フォルクスワーゲン・シロッコの脇に立ち、ドアを開ける寸前だ。
ドリップは運転席に乗り込むと、
バックミラー越しに武雄を見やりながら声をかけた。
「お前みたいな大男を乗せるスペースなんてないんだよ。悪いな」
そう言って、にやりと笑いながらアクセルをふかす。
「──お前が本当に志津香を取り戻したいなら、勝手についてくればいい。
……そういえば、うっかり触媒の一部を忘れてきちまったかも知れないなぁ」
「かわいそう」
ユキがぼそりと呟いた。
「あいつ、ちゃんと戸締りしてくれるんだろうな?」
ラウルが後方を気にしながら言う。
「ここで人数を増やしたら、ガウの奴に難癖つけられるからな」
ドリップはバックミラー越しに、
店内へと戻っていく武雄の背中を見つめながら答えた。
「……ただの人間に、そこまで目くじら立てるかしら?」
「ただの人間じゃないだろ。あいつ、並の悪魔よりよっぽど強いぞ」
アクセルをさらに踏み込み、フォルクスワーゲン・シロッコは
低く唸りながら、富士樹海への道を駆け抜けていった。
しばしの時が経ち、静まり返った店内に、わずかに光る通信端末が現れる。
そこに映ったのは──監査官・仁の顔だった。
「……富士樹海、か」
仁は目を細め、カウンター越しに置かれたドリップのカップを見つめる。
「ラウ厶様の読み通りだな。
看護師天使五体、その中に佐和子がいたのか…」
仁の顔が暗く沈む。
「──ならば、俺も天界の内情、探らせてもらうぞ」
ふっと通信端末が霧散し、誰もいなくなった店内には、
微かな潮の匂いと鉄の香りだけが残されていた。
***
富士樹海の風穴の奥、アイムの居城。
ラウムはかつての盟友に、最後の忠告を伝えに訪れていた。
「これはこれは、ラウム殿。もう怪我の具合はよろしいので?」
「……アイムよ。すぐにでもここを引き払うのだ」
「ギョギョギョ。せっかくお越しいただきましたが、
おっしゃる意味がわかりません」
「危険が迫っていると言っている」
「ギョギョギョ」
アイムは巨体を震わせた。背中についた白い触覚が、びくびくと揺れる。
「負け犬のあなたと一緒にしないでくださいな」
「昔、戦場を共にしたよしみで忠告に来ただけだ。
──配下の蛇共はどこにいった?」
「ギョ? そう言えば……見当たりませんね」
「呼びつけてみるがいい。邪魔したな。私はこれで帰る」
ラウムは冷たく言い残し、すっと闇の中へと姿を消した。
アイムはしばらくその場に立ち尽くしていた。
地下に引きこもって、どれほどの時が経っただろう。
かつての自分なら、新米天使が何人来ようと物の数ではなかった。
──本当に、そうだろうか?
ふと胸の内に、不安がよぎる。
ラウムの忠告が頭から離れず、アイムは唸るように声を漏らした。
「ギョ……ギョギョギョ。まあ、一応確認くらいはしてやろう」
久しぶりに立ち上がった体は、重く、鈍い。
ずっしりと肉がついた巨体が、わずかに軋む。
それでも、アイムはゆっくりと腕を上げ、蛇たちを呼び寄せる。
「クアーラ、ネヴィス、サドビア…は死んだんだったか…」
だが、その声に応じる者はいない。
配下の蛇たちは上空を旋回しているはずなのに、
何かを探しているように彷徨っていた。
「腹でも減ったのか、そう言えばしばらく給金を出していなかった。
まあ、クアーラがうまくやっているだろう。なにも言ってこないからな」
そのとき、アイムの腹が大きな音を立てた。
「俺も腹が減ってきた。反抗的で呼びたくないが、
猿たちはどこにいった。イム、ジョウジョウ!」
声は洞窟の奥へと響いたが、誰も応じない。
「先の大戦で手柄を立てたから傍に置いたが、所詮は猿か……」
忌々しげに唸りながら、アイムは自ら外に出ようとはせず、
ずるりと巨体を引きずるようにして、再び洞窟の奥にある王座へと戻っていく。
王座の周囲には、大量の魂が保存されていた。
わずかに血のような甘い匂いと、焦げた脂の臭いが漂い、
空気は重く粘りついている。
アイムはその中からいくつかを手に取ると、乱暴に口に含み、
一息でずるりと啜った。
腹の奥でぐう、と音が鳴り、血のような香りが洞窟中に満ちる。
同時に、魂の残骸がかすかに呻くような声を上げた。
「役立たず共め……もっと優秀な配下を増やさないとな」
誰もいない洞窟に、独り言が虚しく響き渡る。
──ただ、洞窟の奥の闇は、静かに蠢いていた。
まるで生き物のように波打ち、ゆっくりと王座の方へ滲み寄ってくる。
それに気づかぬまま、アイムは大きな鼾をかきながら、
王座に沈み込んでいった。
***
一方、闇の中を進むラウムは足を止めず、静かに呟いた。
「愚かな……時の流れを読めぬ者から、先に消えるものだ」
六つの目が、遠く天の裂け目を見据える。
その視線の先には、まだ見ぬ天使達の気配と、
迫りくる崩壊の兆しが確かにあった。