香り立つ前哨戦
ドリップは鼻歌を口ずさみながら、一つ目の砂時計をひっくり返した。
お湯を注ぎ終えると、もう一つの砂時計もくるりと回す。
「ドリップ、私にも頂戴」
ユキが手を伸ばす。
「ほらよ」
ドリップは湯気の立つカップを滑らせた。
そのとき、ラウルが不機嫌さを隠さずに近づいてくる。
「エレベーターは大悪魔の罠だった。俺たちはこれで一敗だ」
「お前も飲むか? 特製の豆を使っているぞ」
ドリップはコーヒーを一口啜り、香りを楽しむように目を細めた。
「仁という管理者は、ラウムと行動を共にしているはずじゃなかったのか?」
「迷える魂を解放できたんだ。それで良しとしよう」
軽くかわすように言うドリップ。
ラウルも無言で出されたカップを手に取り、渋々啜る。
「……うまいな」
だが、カップを置く手には無意識に力が入っていた。
もう2戦目が始まっているかもしれないというのに、
弛緩していく空気が我慢ならない。
「大気中の魔素が広範囲で乱れている。高高度から、
何かとんでもないものが降ってくるぞ」
「そんなことはわかっていますよ」
ユキもコーヒーを啜りながら、
顎をテーブルにつけるという器用な姿勢をとっていた。
「大気圏外で引力が捻じ曲げられた。48時間以内に、隕石が落下してくる」
「だったら早く防がないと」
「落下位置が特定できていないんだ。もう少し引き付けないと」
ドリップは静かに言葉を継ぐ。
「これをガウが仕掛けたとすれば、地上のどこかに明確な目標があるはずだ。
軌道修正を行うため、そのポイントから隕石に対して誘導を行うだろう」
ラウルはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「……そこまでわかっているなら、いい」
そう言って、ようやく大人しく席に着いた。
コーヒーの香りが、戦場の前の静けさのように、静かに漂っていた。
喫茶店の扉が、鈴の音もなく静かに開かれた。
「お客さん。開店前ですけどー」
ドリップがカウンター越しに声をかけると、
入ってきたのは筋骨隆々とした男だった。
その背筋はまっすぐで、目には切実な光が宿っている。
「俺は客じゃない。頼みがあって来た」
「悪いけど、これから外出予定なんだ」
ドリップはコーヒーを注ぎながら、軽くあしらう。
「俺も連れて行ってくれ」
男は深く頭を下げた。
「……隕石の落下場所を知りたいんじゃないのか?」
ドリップの手が止まり、片目を細める。
「知っているのか?」
「あー、俺じゃなくて──こいつが知ってるんだ」
男の肩にとまっていたのは、一羽の水鶏だった。
その鳥は、まるでタイミングを見計らったかのように、けたたましく鳴き始める。
「けきょきょきょきょきょ!」
「こいつは精霊だ。先ほどから、大気の揺れを感知している」
ドリップは水鶏をじっと睨んだ。
「日本じゃ変わった精霊も生まれるもんだな……」
「俺は平島武雄。こいつはクイナだ」
「目的はなんだ? 危険なミッションになるぞ」
武雄は一瞬、言葉を選ぶように黙った。
だが、やがて静かに、しかしはっきりと答えた。
「──俺の婚約者の魂魄を、取り戻したい」
その瞬間、店内の空気がわずかに張り詰めた。
ドリップが口を開こうとした、そのとき。
突然、目の前に淡く光るモニタが出現する。
「お久しぶりです、ドリップさん」
モニタ越しに佐和子の姿が現れた。
表情は穏やかだが、どこか急いでいる様子だ。
「お互いミッション中なので、双方向の通信は控えさせていただきますが、
人の好いあなたにひとつお願いがあります」
ドリップは言え、と手をひらひらさせて合図する。
「次の作戦で富士樹海一帯に被害が出る恐れがあります。
一般住民の立ち入りを、明日正午から夕刻まで禁止してください」
ドリップはさらに指先をくいくいと曲げ、続きを促した。
「詳しい内容は申し上げられませんが──
作戦名は『メテオ・フォール 悪魔なんてまとめて殲滅よ』です」
「……概要だだ洩れじゃねーか。ありがたいけどな!」
「作業中なので、これで失礼します。初戦は手加減、ありがとうございます」
佐和子はにこりと微笑んだまま、モニタは消滅した。
しばしの沈黙のあと、ドリップは静かに言った。
「富士の樹海一帯に広域結界だ。──ユキ、いけるか?」
「無理。少なくとも触媒を六か所には打ち込まないと」
ユキは即答し、顎をテーブルに乗せたまま目だけを動かす。
ドリップは懐から古びた木の杭を取り出し、テーブルの上に転がした。
「禁足地を形成していた霊木だ。これで足りるか?」
「十分よ。ただし──敵地でこんなの仕込んだら、絶対気づかれるわよ」
「相手の悪魔が間抜けであることを期待しよう」
軽口を叩きつつも、ドリップの表情には僅かな緊張が滲んでいた。
ユキとの打ち合わせを慌ただしく終えると、
ドリップは今度は武雄の方へ向き直った。
「悪いが──せっかく持ってきた情報は、もう不要になった」
淡々とした口調だったが、そこにはどこか申し訳なさも滲んでいた。
だが、武雄は一歩も引かず、静かに言った。
「……いや。あのモニタの左後ろに座っていた少女が、俺の許婚だった。
志津香というんだ」
その言葉に、ユキとラウルの動きが一瞬止まった。
空気が、わずかに張り詰める。
「……あー、事情はわかった」
ドリップは額に手を当て、深く息を吐いた。
「だが、こっちも手一杯だ。今は──」
言いかけた言葉を飲み込むように、ドリップは視線を逸らした。