激戦の残り香 ―奈落と祠―
ラウムは曲刀を静かに鞘に収め、指先をひと振りした。
その動きに呼応するように、空間がわずかに歪む。
黒い霧の中から、一人の男が静かに姿を現す。
──監査官、仁。
男は無言のままラウムの前に進み出ると、膝をつき、深く頭を垂れた。
「仁よ、どうだった?」
ラウムの声は低く、しかし刃のように鋭く響く。
「まずは、戦闘形態をお解きになった方がよろしいかと。
奈落とはいえ、その身への負担が大きすぎます」
「ふん、久しぶりの直接闘争で忘れておったわ」
ラウムの身体から黒い瘴気が引き、蛇のように這い戻る。
六つの瞳がひとつずつ閉じていき、牙のように尖った顎が収束し、
ようやく人の顔を模した面が現れた。
「直接戦闘など…奈落型魔獣種はお使いにならなかったのですか?」
「SSR神器実装型天使が一度に5体だぞ。
本来一軍を率いる指揮官クラスがこれだけまとまって、
神界からのゲートはすべて閉じたはずの奈落上層部から突如降臨したのだ。
警戒するのも当然だろう。無駄に眷属を消耗するわけにはいかん」
ラウムは唸った。
「……ガルガンチュアを一体、生み出すのに
──幼体ですら、変質した魂が五十は必要なのだ」
その声音は怒りというより、焦燥に近かった。
「しかも、奴らに浄化されれば、その魂はそのまま天界に回収されてしまう
ーー目玉からの報告では天界でも希少なはずの浄化スキルをどういうわけか
奴ら全員が保有していた。まさに規格外よ」
ライムは大きく息を付いた。
「“ドリップ”と名乗る邪魔者は、消せたのか?
固定空間に集めた魂は、すべて変異したのか?」
問いに、仁は慎重に言葉を選びながら答える。
「はい。早い者は下降開始から二時間ほどで変質を始めました。
魔素濃度に応じて変異速度は加速しましたが、
深部に到達できた者はおりません。回収は完了しておりますが……」
仁は一拍置き、わずかに顔を伏せた。
「──これを繰り返しても、大天使に対抗する戦力を整えるには到底及びません」
沈黙。
ラウムは渋面を作り、静かに頭上を仰ぐ。
「集まった魂だけでもここに出せ」
「はっ。鯖助」
仁の背後から淡く発光する鯖の精霊が現れると、空中でぴしゃりと跳ねた。
鯖の無機質な瞳の横で赤い箱が開くと、
収納された魂がラウムに吸い込まれていく。
「たったこれだけか、先の戦闘の傷も癒えんな」
「私の直轄地以外の魂はすべてドリップに取り戻されてしまいました」
闇の中、ラウムの細められた目がわずかに淀む。
「つまり……失敗だった、ということだな」
「はい。エレベーター式の誘導では、個体ごとの変異にばらつきが大きく、
効率が悪すぎます。むしろ、スタジアムなどでもっとまとめて収集する
方法を探した方がよろしいかと」
「……ここまで天界の干渉が強まってはな。
小細工は、もう通じぬ」
「それほどの精鋭でしたか…私も情報を集めてみましょう」
「ああーーだが、何かちぐはぐだったのだ。今ならつけ入る隙も十分ありそうだった」
ラウムの声が奈落の深奥へと染み込み、空間そのものがわずかに軋んだ。
「奴らの狙いは読めた。戦力集中し、大悪魔を順に殲滅していくことだ。
だとすると次に狙う拠点も、敵の戦力も、転移術式も把握した我々が圧倒的に有利だ」
ラウムは静かに頭上を仰ぐ。
「――策を練ってはめ殺すぞ」
奈落の闇に、ラウムの低い呟きが溶けていった。
その深紅の瞳が、はるか遠く──天の裂け目を見据えていた。
***
天界の祠の転移陣に五人の姿が現れる。
夏樹は膝から崩れ落ち、盾を支えに肩で荒く息をついた。
紗耶香は意識を朦朧とさせながらも、血に染まった自らの腕を見下ろし
恵は目を開けるのもままならず壁にもたれかかる。
志津香は小太刀を鞘に納めると、必死に平静を装いながら、
仲間たちを確認した。
天界独特の澄んだ空気が、荒れた呼吸音と、
瘴気混じりの血の匂いを際立たせていた。
結界で守られたこの地にも、奈落の気配が微かに染み込んでいるような錯覚すら覚える。
それほどまでに、今回の戦闘は異質で、深かった。
「くっ……!」
夏樹が盾を杖代わりに立ち上がり、すぐさま紗耶香と恵のもとに駆け寄る。
紗耶香の白い羽根は血に濡れ、恵の腕は触手の痕で裂け、薄く痙攣していた。
「志津香、もう一度外部干渉がないか確認!」
佐和子が即座に指示を飛ばす。
「はいっ!」
志津香は簡易結界を展開し。周囲の空間から、奈落の瘴気を浄化。
「夏樹、恵ちゃんの止血! 紗耶香は……この程度なら神力回復でいける」
佐和子は淡く紫の光を宿した掌を紗耶香の胸元にかざす。
聖域の力が満ち、傷口がみるみる塞がっていく。
「……っ、佐和子さん……ごめん、わたし上手く動けなくて……」
紗耶香が微かに声を絞り出すと、佐和子はかすかに微笑んだ。
「無理しないで。今はそれでいい。もう安全よ」
一方、夏樹は恵の傷口に手を当て、
恵の顔色も徐々に戻り、浅く開いた目が夏樹を捉えた。
そのとき、志津香が結界の異常なしを確認し、深く息をつく。
「残留瘴気を浄化、空間も安定。転移先への追跡は……ありません」
「よし、みんな初の実戦でよく動けていたわ。
大広間で休んでいてちょうだい。私はヒジリ様に報告をしてくるから」
佐和子は四人を励ましたが、その傷だらけの姿をみると。
瞳はわずかに翳った。
あのーー……次回のミッションはもう少し考えていただけると
……幸いです……」
志津香はそっと佐和子を見る。
その背は仲間を守り続けた戦士のもので、
それでも、彼女自身もまた、深く傷ついていることに気づいていた。