5.泉
「…?」
次の日、目覚めたアスールは自分の傍らに人の気配を感じて、思わず飛び起きた。
隣には健やかな寝息を立てるセリオンが眠っている。その腕はしっかりとアスールの腰辺りに回されていてた。
はっとして着衣を確認する。何も身に着けていない。慌ててかけられていたシーツを掻きよせた。
何が──あった?
急いで記憶の糸を辿ったが、思いだせるのは湯船につかった辺りまでだ。
「…アスール?」
アスールの起きた気配に、セリオンも目覚めた様だ。
「セ、リオン…。昨晩は…?」
すると、セリオンはにっと笑んで、隠しきれていないアスールの背に指を滑らせると。
「──覚えていないのか? 君は俺にとうとう告白して、互いに思いを確認しあったんだ。…ほら、ここにその跡が残っている…」
腕が伸ばされ、ツンと、白い指先がアスールの胸を突いた。
「?!」
ガバリとシーツを引き下げ、自身の身体を確認する。確かにあちらこちらに赤い跡が散っていた。
「こ、これは─…なんだ?」
「愛し合った証だろ? まったく。覚えていないのかい? ひどいな…」
そう言うと、アスールの腕を掴みベッドへ引き倒し、そのまま覆いかぶさってきた。
「うそだ…。でまかせを…」
顔を青くすると、見下ろすセリオンが笑った。
「でまかせじゃないさ。君は確かに俺に告白した。好きだと。もちろん、俺も好きだと、愛してると答えた。それで──」
セリオンの手が頬に添えられる。
「──君を手に入れた」
と、部屋の壁を叩く者がいた。驚いてそちらに顔を向ければ。開いた戸口近くにカリマが立っていた。
「俺は隣の部屋だったが、艶っぽい声は一つも漏れてこなかったぞ。──アスール、お前は揶揄われているんだ」
「セリオン…」
恨めしく睨みつければ。
「あーあ。カリマ、それは黙っててよ。せっかく、アスールをだませる所だったのに…」
「アスールに経験がないからと、騙すのはどうかと思うぞ。本当にことに及んでいれば、覚えていないはずがない。記憶になくとも、身体には残る。──アスール、立てるか?」
「え? …あ、うん」
アスールは言われて、セリオンの腕の中から抜け出すと、ベッドサイドからそっと床に足をつけその場へ立った。いつもと同じだ。
それを見てカリマはため息をつく。
「──事に及んでいたら、立つこともままならないはずだ。セリオンはお前に夢中だからそれくらいにはなったはず…。そうならないと言う事は──そう言うことだ。どうせその身体に散らばっている跡も、調子に乗ってつけただけだろう。嘘をついて手に入れようとするとはな」
「カリマ…。別にいいだろ? アスールが俺を思っていてくれるのは事実だ。後はもっと確かな事実を作るだけ──」
セリオンはアスールの腕を取り、そのままキスをしようとしてくるが、
「ふざけるな!」
胸元を突き飛ばし、距離をとる。
「俺をなんだと思ってる? お前のおもちゃじゃないんだ。からかうのもたいがいにしろ!」
そのまま隣接している浴室へと向かった。
アスールが去った後、セリオンはため息をつき、ベッドに横になったままカリマを見やる。
「カリマ…。どうして邪魔をする?」
「正しい手順を踏め。ちゃんと正気のアスールをものにしろと言っているんだ」
「正しい手順、ね。そうしたら、一向にアスールは手に入らない。アスールは本人が思う以上に魅力的だ。それが分かってない。まごまごしていれば、誰か他の奴に持っていかれる。女だろうと男だろうと…」
セリオンはカリマをじとりと見やる。
「…アスールは浮気者じゃない。お前が心から真剣に向き合えば、否とは言わないだろう」
「まったく。敵なのか味方なのか…。わかった。アスールはきちんと手順を踏んで手に入れるさ」
「…わかればいい」
腕組みしたカリマはそっけなくそう口にした。
セリオンの奴。
熱い湯を頭からかぶる。
ふと、傍らの壁にはめ込まれた鏡に目を向けた。湯煙に浮かぶ肌には赤い跡があちこちに散らばっている。それは首筋や胸元に収まらず。下腹部にそれを見つけた時は、一気に体温が上昇した。
人が寝ているのをいいことに…。
いくら好きだと言っても、無理やりは好かない。それはそう言う雰囲気になったのかもしれないが。だとしても、勝手につけられるのはいい気がしなかった。
が、セリオンの思いを受け入れれば、これも当たり前になるのだろう。
『アスール、好きだ…』
昨晩のセリオンの告白が蘇ってきた。確かにそう言われ、キスをした。
すべて酒の所為だ。
赤くなった頬に、鏡から視線を逸らす。
俺には、セリオンを受け入れることはできない。──そのはずなのに。
どうやっても、心も身体もセリオンへと傾いていくのを無視できない。
もし、自分がカリマの様に貴族だったなら、もう少しまともな身の上だったなら、一も二もなく、セリオンの申し出を受け入れたに違いない。
けれど、俺は──。
セリオンの傍らに並ぶことなど許される身分ではない。剣の腕こそ認められはしたが、それだけだ。どこの生まれともわからない、野獣の血にまみれ立つ自分が王族に迎えられるわけがない。
アスールは唇に手をあてた。
どうしたら、セリオンは俺を──諦めるんだろう。
いつかも思ったことだ。胸の内に甘い疼きと、切ない痛みとを覚える。
どうしたら、俺はセリオンを意識せずにいられるのだろうか。
✢✢✢
名残惜し気な領主に別れを告げ、再び放浪の旅に出る。
今回はこのまま南下する予定だった。大体の行き先は決めていて、その道中、立ち寄った街や村で依頼を受ける。
次の街までは一日ほどかかった。馬に乗り街道を進む。街は谷あいの奥にあり湧き水で有名な土地だった。そこはセリオンたっての希望で行き先に入れた場所で。
水が湧く場所には、水をたたえるため美しい白亜の神殿が建つという。
「アスール。そこで告白して成就すると、生涯幸せに過ごせるって話しらしいよ。泉の精霊の祝福を受けるって話しさ」
「若い娘じゃないんだ。そんな話し、真に受けるな」
アスールは手綱を握り、前を見たままセリオンの言葉にぴしゃりと冷たく返す。セリオンはめげずにアスールの傍らに馬を進めると、
「本当さ。その街周辺に住むものたちは、縁が結ばれたお礼にそこで婚儀を行うって。…俺も告白しようかな?」
「俺は行かない」
「アスール…。付き合ってくれよ。信じてないなら、尚更いいだろ? 泉の見学だと思えばさ」
「俺たちに用があるのは、野獣や夜盗だけだ。そんな甘ったるい話し、関係ない」
「アスールは冷たいなぁ。…あの夜の君はすごくかわいかったのに」
その言葉に、アスールはカッと頬を染めようやく傍らのセリオンを振り返った。
「あの晩の事は忘れろ! あれは酒のせいで可笑しくなってただけだ!」
「嘘だね。君は確かに認めたよ? 俺を好きだって…」
「──!」
何も言えなくなってただ、セリオンを睨みつけていれば。後ろで聞いていたカリマがため息交じりに。
「お前たち、その辺にしろ。街道とは言え、ここの所、得体の知れない魔獣も増えている。今のお前らなら、一瞬でやられるぞ。油断は禁物だ」
カリマの言葉にアスールは冷静さを取り戻すと。
「…分かってる。セリオンは俺の後ろにつけ」
「えー、並んでもいいだろう? こんなに明るいんだ。野獣、魔獣が活発なのは夜が多い。何もやっては来ないよ」
「セリオンは王子だ。従者の俺と並んで歩くべきじゃない」
「なんだよ。今更…」
「俺にはセリオンを守る義務がある。大人しく守られていろ」
「もー、カリマみたいだよ。それ」
ぶつくさ言いながら、セリオンは仕方なくアスールの後方についた。
そうして進むうち夕方前には街へ到着することができた。泉の所為もあるのか、街は賑やかだった。旅人目当てのみやげ物屋や食事処が至るところあり、人でごった返している。
建物は神殿と同じ白い石造りで、傾く日の中にそれは朱く輝いて見えた。
「綺麗な街だね…」
セリオンがため息をつくようにそう口にした。
確かに美しい街だった。あちこちに生える木々の緑と白い建物のコントラストが目を惹く。
近くに寄ってみても、ただの民家だというのに、凝った意匠の彫り物が柱や壁に施されていた。草木が絡んでいたり、動物が彫り込まれていたり。泉の存在が繁栄をもたらしているのだろう。
「ああ、あれが噂の神殿だ。──思っていたより大きいな…」
馬から降りたセリオンが指さす。谷の一番奥、小高くなる丘の手前に、それは他の建物よりさらに大きく、ひと際輝いて見えた。
周囲を歩く人々が小さく見える。遠目でも大きいのが良くわかった。太い柱が屋根を支え、アーチ状の出入口からは人々がひっきりなしに出入りしている。直に日も暮れるというのに、訪れる人は減る様子がない。
「なかなかの盛況ぶりだ。先に泉へあいさつに行かないか? アスール、カリマ」
カリマは自身の馬から降りると、
「俺は先に宿に行って手続きを済ませて置く。アスール、セリオンと行ってこい」
「カリマ…!」
アスールはふたりきりにするのかと、責めるようにカリマを睨みつけるが、
「いい加減、お前らの痴話げんかは見飽きた。そろそろ年貢を納めろ。アスール」
「……!」
カリマの言葉に顔を赤くする。すると、馬を降りたアスールの肩にセリオンは手を置き、
「ありがとう。カリマ──ほら、行こう。ただ、挨拶するだけだって。この街に来て、泉に挨拶無しなんて失礼だろ? ここは泉が作った街だ」
カリマの奴。
アスールの思いは知っているはずだ。セリオンと並ぶことはできないと。なのにまるで背を押すようなカリマの態度が納得できなかった。
「アスール、見て。日が沈む──」
建物の横から山間に沈む日が差しこみ、一層、神殿を輝かせていた。朱に燃える。怒りを忘れ思わず見惚れていれば、
「アスール、行こう。あっちの方が空いている」
「あ──うん…」
カリマに馬の手綱を任せると、渋々セリオンの後に続いた。
✢✢✢
神殿も端へ向かえば人影はまばらだっ
た。天井が高く取られた神殿の中央から泉は湧き、左右にめぐらされた水路に流れ、谷へと流れ落ちていた。
中央に人は多いが、端に行けば行くほど人は減る。白い大理石に縁どられた水路は浅く、手や足を浸けてもいいようにできていた。中には全身を水に浸し、沐浴する者もいた。病や傷などの治りが早くなるとも言われているらしい。
「アスール、足を浸さない? 疲れたろ?」
泉を囲む水路に着くと、さっそくセリオンがくるぶしまで足を浸し振り返った。周囲に人影はない。
「いいのか? 汚れているし…、神聖な水だろう?」
「旅の穢れを落とすために作られた水路だよ。そのためにあるんだ。そんなに深くない。──ああ、階段状になっている…。最後まで降りれば首まで浸かるけど、今日はそこまでしなくても。──アスール」
セリオンが手を伸ばしてくる。
ここまで来て拒否はできない。仕方なくその手を取ると、セリオンに倣って泉の水に足を浸した。履物は神殿の入り口で預けてある。中は履物は禁止となっていた。
ひんやりとした水は心地よかった。ただ、冷たいだけでなく、じわりと染みこむような温かさも感じた。これが神聖な泉と言われる所以なのかもしれない。何かしらの効能があるのも頷けた。
「気持ちのいい場所だね。水もいい。昔、母に聞いたことがあったんだ。この地方に泉を祀る街があるって。いつか来てみたかったんだ。──君とね」
「セリオン…」
アスールは上目遣いにセリオンを睨みつける。しかし、セリオンは気にせずに続けた。
「俺はずっと君しか見ていなかった。幼い頃は単なる友情としてか思っていなかったけれど…。アスールが俺の所為で蜘蛛に襲われた事があっただろう? あの時気付いたんだ。俺の大切な人はアスールだって。──君をなくしなくない」
ひたとこちらに青い透き通った瞳で見つめてくるが。アスールは更に睨むようにして。
「…お前が遊びまわっているのは耳に入ってる。俺一筋だなんて嘘つくな」
唯一の対抗手段だ。
セリオンがまだこの旅に出る前、遊ぶ相手に困ることがなかったことを知っている。なんせ従者として傍にいたのだ。いついなくなって誰の所にいるのか、逐一理解していた。それが終わるまで外で待ったことさえある。それが仕事だったからだ。
セリオンは帰れと言ったが、まさか王子をひとりにすることなどできない。それを分かってか、セリオンも一晩相手の元で過ごすことはなかった。でなければ一晩中、外でアスールを待たせることになるからだ。
事が終わり、外へ出来てたセリオンは、アスールの姿を見つけると、いつも気まずそうに、でもどこか寂しそうな顔をして共に帰途についた。当時はその理由は分からなかったのだが、今なら推測はできる。
「はは。それは──遊び。だって、君に早々手は出せないだろ? 無理やり自分のものにはできないし。それに、君の気持ちも知らなかった。嫌われてはいないと思ったけど…。これは俺の一方的な思いだと思っていたから。でも──違った」
セリオンはアスールの顎に手を添え、自分の方へ向かせる。
「アスール。俺を好いているだろ?」
「……」
顔を背けることができず、視線だけを逸らすが。
「覚悟を決めてくれ。俺は生涯をかけて君を愛すると誓う。必ず幸せにする。信じて欲しい。──君が地位や身分を気にしているのは分かっている…。けれど、きっとそれを乗り越えてみせる。君と一緒ならそれもできる。もう、兄たちの了解は得ているんだ。父上にも文句は言わせない。あとは君が答えるだけだ。──君の答えが聞きたい」
「俺は……」
「アスール。お願いだから、否とは言わないでくれ」
セリオンの懇願する様に心が動かされた。
ここまで自分を思ってくれる相手がいるだろうか。セリオンの言葉に嘘はない。セリオンとなら、全てを乗り越えられるのでは──そう思えた。
カリマも、それを望んでいる──。
先ほど自分たちを送り出したのは、そう言うことなのだ。自分を強く思ってくれるカリマの期待にも、応えるべきなのだろう。
一瞬、カリマの熱い眼差しを思い出し、胸の内が詰まる思いもしたが──気の所為だと打ち消した。
熱心なセリオンの思いに、応と答えようと唇を動かそうとしたとき。
「セリオン! アスール!」
カリマの声で現実に引き戻された。
「どうしたんだ? カリマ。そんなに慌てて──」
神殿の入り口に、大柄なカリマの影が立った。神殿内の明かりに照らされ、表情がかなりこわばっているのが見て取れた。
「王都が──城が襲われた」
「なんだって…?」
セリオンはそこへ腰を浮かせた。甘い空気など一気に吹き飛んだ。