07.岐路
梅雨の前の暴行事件は、繁華街に近いとは言え、地方の郊外で「山田さんの家に警察が来て、何かあったそうだ」とご近所中の噂の種となった。
「いきなり殴られたそうだよ」
「私は襲われたって聞いてるよ」
「怖いねぇ」
皆口々に、勝手な憶測を並べた。
引越して来てから、穏やかに挨拶を交わしていた隣やお迎えさんも、警察車両が家に来てからやけに、よそよそしくなった。
事件の一週間後、私はもう過ぎたこととして、いつもと変わらず朝練に出かけようと玄関を出た。
丁度、お隣さんのお父さんも出勤らしく、車に乗車しようと出て来たので、「おはようございます」と声を掛けたが、やけに落ち着きなく「あぁー。どうも」と、そそくさと出勤して行った。お隣さんだけじゃなく、向かいも斜向かいも、やがて区画一帯。町内一帯までつれない態度を取るようになった。篠田が、隣の校区のマンションに住んでいたことも、これに輪をかけた。
このように我が家は、近隣から針の筵にされた。
そしてこのあることないことの噂が、これまで何とか持ち堪えてきた葵ちゃんと加奈子との関係に、決定打となる溝を作ることとなった。
加奈子ちゃんは学校ですれ違っても完全に無視を決めて、葵ちゃんはバドミントンのペア練習で、私と組むのを明らかに避けていた。
そしてこれを機に、意外なことが起こった。
薫ちゃんと梨花ちゃんが、これまで絶縁していたことを、何もなかったかのように、
「歩ちゃん、何か大変だったみたいだね」
と声を掛けてきた。こうして、葵ちゃんと加奈子ちゃんは退き、薫ちゃんと梨花ちゃんがまた現れた。
この経緯を私はまた小学校吹奏楽部、パートリーダー問題に於けるお父さんの、
「興奮しないで落ち着いて」
を思い出し、客観的に洞察することが出来た。
……加奈子ちゃんは私を、課外授業の引率の列からはみ出した問題児、として手元を離れたものとした。そして葵ちゃんも加奈子ちゃんと同様に、異端児として、関わり合いを持ちたくないと思うようになった。
本当の親友だと思ってくれていたなら、こういう時こそ、親身になって助けてくれるはずだ。
……私は周りからしてみたら傷物、腫れ物、と識別されるようになったんだ。葵ちゃん達は由緒ある土地柄の、こちら側の種族ではなく。薫ちゃん達に思い描いている差別的な偏見の、あちら側の部類に返ったとして、私の元を去って行った、のだと。
私はお父さん譲りで、偏見や差別は嫌っていたので、これまで何とか持ち堪えて来た関係が断ち切れたことに納得し、踏ん切りを付けた。そうして昔馴染みの、薫ちゃんと梨花ちゃんの復縁を喜んだ。
その日の放課後、担任の女の先生から「山田さん。ちょっと話いい?」と、教職員室に呼び出された。
私は労いの言葉でも掛けられるのか、と思い、みんながみんな気を使っているなと、据わりが悪い感じに違和感を覚えた。ところが先生は第一声、私に、
「山田さん。高橋さんのことどう思う?」
と聞いてきた。脈絡がなく意図が掴めないので、「どういう意味ですか?」と聞くと、先生は、
「周りくどかったわね。はっきり言うわ。女子の学級委員長、山田さんから高橋さんに変わってもらおうと思っているの」
それはもう担任の先生の、宣告とも取れる、決定事項して伝えられた。
「あの一件。別に山田さんが何か悪かったわけじゃないし、運よく実害もなかった。でもね。……やっぱり山田さんは被害者なのよ。そういうことから、いたたまれない。見てられない。可哀想って声があがっているのよ。山田さんはこれまで頑張ってきたから、勉強は出来るし、これまで二年以上学級委員長を勤めてくれたから、内申書も問題なく私から推薦出来る。だから、ここはゆっくり静養のつもりで、高橋さんに学級委員長譲りましょう。いいわね?」
あれ以来、皆が皆、哀れんで接する。その気遣いの方が逆に私の心を逆撫でし、抉ることに気付いていない。
私を灯していた日の光は、高杉君との追い掛けっこの思い出を最後として、地平線に沈み、暗がりとなっていった。
「分かりました」
と応答したが「月一の下校の楽しみ」だけは、承伏出来なかった。けれど、もう担任はそんな思いなど知るよしもなく、用件を済ませて機嫌よく私を部活へ送り出した。
お父さんは、本当に弁護士を辞める準備を始めた。今抱えている案件や顧問先の企業、自治体を、お父さんの勤めている県央弁護士事務所の、パートナー弁護士やアソシエイトに、均等に負担にならないよう割り当てた。そして、担当者が変わる旨を、お詫びと共に通達した。
その内の一つの半導体機械工場だけ、直接会って報告した。法務部に通された。
「そうですか。転職なさるんですか。山田さんは細やかな仕事をされて、評判も良かったので残念です」
お父さんは返す言葉がなかった。
「そこで、次の勤め先はどちらに?」
半導体機械工場の法務部の担当は、社交辞令のつもりで聞いた。
「実は、そのことでお願いしたくて」
お父さんは余計なことを考えず、直球で聞いた。
「私を雇って頂けませんか?」
法務部の担当者は予想だにしない返答に困惑した。そして暫く考え、言い出した。
「それは……? うちの会社で企業内弁護士として、勤めたいと言うことですか?」
【企業内弁護士】とは、ある企業に専属するその会社専門の弁護士だ。
お父さんは言った。
「いえ。違います」
法務部の担当者はお父さんの返答を先回りして、続けた。
「法務部は今、人材には困っていないんですけどね」
困惑気味に伝えた。
「いえ、違います。法曹業務じゃないんです。労務員。工員として働きたいんです」
法務部の担当者は、お父さんの意図する所が全く見えず、困り果てているようだった。
しかし、これ以上突っ込んだ話は、個人情報にあたる。
お父さんは、据わりが悪い担当者の様子から悟って、「どうせ不採用なら金輪際関わりのない会社だ」と割り切って、思い切って話始めた。
「実は私の娘が、暴行事件の被害者になったのです。しかし、加害者が心神喪失で立件できず……」と、細部まで話始めた。
「……こう言ったことで、事件が起こっているのに、起訴出来ない。制裁を加えられない今の司法とは関わりを断とうと、全く司法とは関わりのない、御社の工員として採用して頂けないかと思い、挨拶も兼ねて今日足を運んだわけです」
と詳らかに話した。内情を知った法務部の担当者は、お父さんの鎮痛な思いを、何と返していいか分からなかった。変わりに、
「うちは工員の中途採用は、派遣会社を通しての採用しか受け付けておらず、年中無休二十四時間稼働。日勤、夜勤の二交代制。十二時間労働の四勤二休のシフト制ですが、出来ますか?」
と工員の労働条件を教えてくれた。法務部の担当者はこちらから人事に口利きすると、内情が明るみになるからとして、契約している派遣会社を教えてくれ、登録するよう勧めてくれた。
お父さんはそうして派遣会社に所属して、工員としてまた一から職務に就くことになった。
お父さんの所属する、県央弁護士事務所のパートナーやアソシエイト達は、
「山田さん、いつでも帰って来て下さい」
と、所属の弁護士の籍だけの登録は残して、送り出してくれた。
顧問の先生との面談を終え教室へ戻ると、みんな下校してクラスは高杉君一人だった。
さしずめ今日日直だったので、学級日誌でも書いていたのだろう。女子の当番の娘は、先に帰したみたいだった。
私は「あの一件」、について高杉君がどの程度知っているのか、知りたかった。
憶測が囁かれていたので、間違いならば訂正して、ちゃんと私を見て欲しかった。
高杉君と接点を持つ機会は、これからガクンと減る。その前に私の想いを伝えておきたかった。実は好きだったと言うこと、を。
こんなタイミングは、もう二度とないかも知れない。唐突過ぎるのは分かっていたが、私は机に向かっていて集中している所を、背中越しに立って精一杯呼びかけた。声になっていなかった。
「た、高杉君。あのね……」
すると廊下から、
「高杉、急げよ」
とサッカー部の仲間がよく通る声が聞こえた。すると高杉君が、
「今、丁度終わった。すぐ行く」
と大声で返事した。そして椅子を引いて立ち上がると、高杉君は振り返り、
「あぁー、びっくりした。山田いたの?」
と、気配すら気付いていなかった。当然、私の声など届いていない。私は再度、
「高杉君。あのね……」
と言ったが次の言葉が出てこない。
……しばらく沈黙が続いたが、高杉君は、
「山田。要件て、急ぎ?」
と聞いてきた。私は、
「え?」
と、咄嗟に声が出た。高杉君は続けた。
「俺、もう部活行かなきゃなんだ。試合近いし。急ぎじゃなかったら。また今度でいいかな?」
と帰り支度を始めた。前触れなく告白をしようとした私は、引き止める手立てもなかった。彼は「じゃあな」、と言って出て行った。
その後、私は考えた。高杉君は私を避けていたのか? 嫌、そんなことを感じさせる態度じゃなかった。本当に急いでたのだ。
多分、高杉君は私が学級委員長を辞めさせられたことは、まだ知らない。彼の「また今度」、は来月の学年集会を意味していたのだろう。でもその機会はもう、訪れない。
リーダーシップと細かいことを気にしない懐の深さを持っていて、それでいて礼儀正しさを備えた高杉君。同時に大雑把で忘れっぽい所が、弱点だ。
私は約束したと解釈した「また今度」の返事は忘れ去られ、高杉君が私に声をかけることは二度となかった。