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06.事件

 五月も末になった。

 もう日中は梅雨を前に、長袖では暑苦しい位まで、気温が上昇した。

 部活で流す汗は爽やかだが、この湿った空気は毎年のことだが、辟易(へきえき)していた。

 そのくせ、登下校で体操着は、不可。制服の着用が校則で義務付けられており、バドミントンで掻いた汗と蒸した外気で、下校は二重苦だった。

 私が生徒会役員だったら、「下校時は体操着でもよしっ」、とするよう規約を変えるのに。と、帰りのためだけにわざわざ着替える(わずら)わしさから愚痴をこぼし、一人家路についていた。汗でブラウスが肌に張り付くのが、不快でしかたない。

 通学路の森林公園を、「○✖️△□※◎」と、呪文のように譫言(うわごと)をボソボソ呟きながら、落ち着きなく歩く人影が近づいて来た。

 変わった人がいるな、と私は思いつつ、当たらず障らずで無視してすれ違うところだった。

 ところが、狭い遊歩道は私のラケットケースがぶつかってしまい、私は即座に「あっ、ごめんなさい」と謝った。そうして、やり過ごそうと思った瞬間!

 人影は反転して私の方に振り返り、「お前。それだけか?」と肩を鷲掴みにした。そして強く引っ張って私を反転させ、「故意じゃなくてもぶつかったら、過失傷害。故意だったら暴行罪。……姉ちゃん服が濡れてるなぁ。さては、誘惑して()めようって魂胆か? どいつもこいつも、俺を見くびりやがって!」

 と言って、人影は顔を寄せガンを飛ばし、掴んだ手の指先にグッと力を入れた。

 襲われる! と瞬時に思い、背負っていたラケットケースを手に持ち、「イヤ!」とむやみやたらと振り回し、抵抗した。

 人影は、私に抵抗されたことに(おのの)いて、

「ウォー!」

 と叫び、脱兎(だっと)の如く早足で逃げ去った。

 私も一目散で家へ向かった。


 玄関を開けると、母さんの靴があった。お母さんを探した。息が上がっていたが、それどころじゃない。「お母さん、お母さん」と呼びかけ、リビングもキッチンも脱衣所も回ったがお母さんはいない。そして一階をぐるりと一周して、廊下に出て、

「お母さんっ!」

 とあらんかぎりの声を張り上げた。声は反響して、家中に響いた。

 その声を聞き付けお母さんは、二階から駆け降りて来た。

 お母さんの姿を見て、涙が(こぼ)れそうになり、

「襲われそうになったの。私、襲われる所だったの!」

 と、もう一度、精一杯の声を出した。お母さんは、二階から持ってきた衣替えの夏服を放り投げ、すぐさま一一〇番通報した。


 お母さんの一一〇番通報後、県警は直ちに家に到着して、私から犯人の特徴の、聞き込みを始めた。

 上下セットアップのジャージ。身長は百八十㎝前後。細身。切れ長の刺すような目。挙動不審で譫言を述べていた、と、覚えている限りを述べた。服の色、髪型や顔の造りなども、聞かれたが、暗がりでよく覚えていない、と伝えた。しかし警察は食い下がり、不確かでもいいので、分かる限りのこと全部お願いします。と懇願され、(おぼろ)げな部分も余す事なく伝えた。

 この情報の元、警察は即座に捜査を行い、近隣住民の目撃証言も併せて、人影は目星を付けられ重要参考人として、任意で警察に連行されることになった。そして、取り調べであっさりと自供して暴行罪で逮捕された。

 被疑者の名前は篠田(しのだ)裕司(ゆうじ)。二十四歳。現在無職。実家で両親。弟、妹がそれぞれ一人ずつ。五人で分譲マンションに暮らしている。

 篠田は、警察の取り調べで容疑を(おおむ)ね認め、暴行に及んだことは認めているが、危害を与えるつもりはなかったとした。

 私も警察の事情聴取で、「肩を掴まれた」と証言した。

 しかし県警は、物珍しい刑事案件として手柄を立てようと、息巻いていた。

 県警は暴行罪を元手に、牽連(けんれん)(はん)(犯罪の手段または結果である行為が他の罪名に触れること)の関係で罪名を切り替えて、強制わいせつ罪の容疑で送検しようという腹積りだった。

 そのため一罪一逮捕一勾留の原則に基づいて、まずは確実に逮捕状が取れる暴行罪で逮捕。併せて強制わいせつ罪へ移行の目論見で、暴行罪の逮捕期間中である四十八時間以内に裏付け捜査を行なって、罪名を上書きしようと勾留期間を延ばし延ばしにしていた。 

 お父さんはお母さんが通報した後、すぐに連絡を受けて帰宅し、直ちに動いた。司法研修所で一緒だった坂崎(さかざき)綾子(あやこ)弁護士を、私の担当として選任した。彼女は刑事事件を主戦場として、取り分けDVやストーカー被害、性的虐待など女性の人権係争に強い。

 弁護士は、身内でも弁護可能だ。私はお父さんに助けて欲しかったが、お父さんは、

「専門でない」

 と言うことと、

「身内だと私的な感情が入り過ぎて、冷静な判断が出来ない」

 として、彼女に託した。坂崎弁護士は当初、

「女性を軽んじた、暴行は許し難いです。任せて下さい」

 と息巻いていた。しかし篠田の勾留の翌日、我が家のリビングで私達家族を前にして、「正直、厳しい案件です」

 と本音を漏らした。

 坂崎弁護士の調べによると、篠田は長子であるが、母の元夫との間に生まれた子供で、弟、妹とは種違いの連れ子だと言う。

 その事から異父には冷遇され、軽微ではあるが、時折小突かれ虐待されていたそうだ。お尻を蹴るや頬を張られるなどと一緒に、テニスラケットで打たれることも、あったそうだ。この恵まれない異父との関係。それと、大学在学時の就職活動において相次いで不採用になったことが輪を掛け自暴自棄になり、就職浪人となった篠田は適応障害で、一年前から精神科に掛かっている。

「正直、このままいっても、刑事の案件は心神喪失が認められ、刑事責任能力はないとされ、不起訴になる可能性が高いと思われます」

 と坂崎弁護士は、力なく答えた。

 お父さんも坂崎弁護士に同意して、一致した意見だった。私にとって、最善で唯一の選択肢は、示談に応じるだけだとはっきり言われた。

 私は聞き覚えのない法曹用語が行き交って、よく解らなかったので、お父さんから噛み砕いてもらって説明を受けた。私は言葉の内容は理解したが、

「身体を無理矢理掴まれたのは、事実だよ。それでも、何とかならないの?」

 と訴えた。しかし、お父さんは落ち着いていて、

「【刑法第四十三条ただし書きの中止犯】と言うのがあって、自発的に犯行を中止した際には、犯罪が減免されるんだ。それに『疑わしきは罰しない』と言って、憶測だけじゃ有罪に出来ないのが、今の司法の限界なんだ」

 と、お父さんは眉間に皺を寄せて言った。

「この一件は示談が限界だ。歩。すまない」

 と言って、お父さんはソファから立ち上がって、私に生まれて初めて頭を下げた。

 そして警察は篠田を暴行罪の勾留期間一杯まで拘束した後、強制わいせつ罪に切り替える青写真だった。しかしこちらは全く裏付けが取れず送検を諦め、暴行罪のみで検察に引き渡された。

 検察に送致され、篠田には漸く国選弁護人が就いたが、警察で暴行罪を自供していること。そして、被害者から示談を申し入れられたことで、あっさりと決着が付いた。

 即日、篠田の代理人弁護人と坂崎弁護士の間で、民事で示談が成立して、それを受けて刑事責任は、起訴猶予で篠田裕司は勾留を解かれ、釈放された。


 私達家族は、この一件から岐路に立たされた。

 私は実体に事件と言う事実があっても示談、起訴猶予となれば、加害者も被害者も、何もなかったこととされる。しかし、現実には事件は起きたわけだし、逮捕もされ勾留もされた。

 それなのに全く真っ白で真っ(さら)なものして、日常に返れる。この今の司法の在り方に疑念を抱くと共に、弁護士の存在って何? と、得も言われぬ、複雑な関心や意識が向くようになった。

 反対にお父さんは、被害者家族の報われない実情を憂いて、力が及ばなかったことで、弁護士の第一線から退く決断をした。

 これを期に、山田家の円満な家庭は影を落とすこととなった。

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