01.新居
延床面積三十四坪。天窓から日が差し込む、吹き抜けのリビングダイニング。そこに繋がる、オール電化のオープンキッチン。居間が三室。駐車スペースが一台。芝生と木々が生い茂る、幾許かの庭が売りの注文住宅は、新年度を間近に迎えた頃に完成した。
小学四年生の時、アパートから今の注文住宅に転居した私は、自室が出来たことより、転居しても校区が変わらない事をまず喜んだ。
アパートから徒歩で十分。
郊外の住宅が軒を連ねる高台の一区画に、大地主が長らく道楽で遊ばせておいた、広大な家庭菜園があった。その土地が分譲で売りに出て程なく、お父さんは土地を買い、家を建てたため、転居して二年程は隣に家がなく、毎日夕焼けで西の空は眩しかった。
アパートの近所にある公営団地の同学年の薫ちゃんと梨花ちゃんは私に、「歩ちゃん、新しいおうちいいなぁ。毎日遊びに行ってもいい?」と尋ね、私も「いいよ。来て来て」と歓迎した。
次の週末、新築披露に親友として、一番最初に招いた。
私が先導して、「ここがリビングダイニング」、「ここが私のお部屋」と見せて回って行ったが、二人は緊張して落ち着きがなかった。おやつに出したショートケーキも美味しくないのか、二人とも残した。
一通り見終えて、「私のお部屋で遊ぼう」と誘っても、「もういい」と揃って首を振りそそくさと帰って行った。毎日遊びにくるって約束だったが、その後何の音沙汰もない。
翌週末の学校の休み時間、薫ちゃんに、
「何で来てくれないの? 遊びに来るって言ってたじゃん」
と問うと、
「……もう歩ちゃん違う町内の娘だもん。私達と違うもん。もう知らない。梨花ちゃん、行こう」
と物別れになり席を立たれた。
帰ってお母さんにこのことを話したら、
「この町内に同じ学年の娘達いないの? その娘達とお友達になったら?」
と思いもよらない答えが帰ってきた。
小学校への通学路の一番早道もまだ分かってないのに、同じ町内の同級生が誰か何て分かりっこない。
他の学校は、集団登校や集団下校というのがあるらしいが、私の学校にはない。新学年と共に引っ越して来てからゴールデンウィークが明けるまで、仕方なく、一人で登下校していた。
ゴールデンウィークが明けてすぐ、見知らぬ六年生に、
「山田さん? ……だよね。ごめん、ちょっといい?」
とお昼休憩の時間に呼び付けられた。
渡り廊下の先に、同級生の女子が二人して待ち構え、並んでいて声を揃え、
「山田さん、明日から学校一緒に行かない?」
と誘われた。
毎日一人きりで登下校していたのを同じ町内の六年生が分かって、町内の取り分け家が近い同級生の娘に、一緒に登下校に誘うよう言われたみたいだった。
「それでね。うちから公園に向かって二つ角を登った先にある、大きな庭のある家があるの。それが葵ちゃんのおうち」
私は次の日の朝食で、昨日六年生から紹介された二人の事を、早速お父さんに伝えた。お父さんは新聞を毎日、二つも読んでいる。
「公園前の大きな庭のおうちが葵ちゃん、か」
お父さんは両手を大きく広げて新聞を見開いて、バサッと音を立てて裏返しにした。
「それでね。うちより学校に近い、玄関にセキセイインコを飼っているのが、加奈子ちゃんのおうち」
「セキセイインコが加奈子ちゃん、と」
興味深い記事があったのかお父さんは新聞を四つ折りにして、空いてる右手で眼鏡の縁を掴んで、ピントを合わせている。
「お父さん。ちゃんと聞いてる?」
新聞から目を離すことなく、適当に相槌を打っているように見えた私は、お父さんに確認した。
「聞いてるよ。大きな庭の葵ちゃんに、セキセイインコの加奈子ちゃんだろう?」
正確な回答で間違えではないのだが、オウム返しだけで、ダイニングテーブルに向かい合わせに座っていても、一向に目を合わさないお父さん。このいい加減な態度に、私は納得がいかず不貞腐れた。
「歩。女の子が変な顔しないの。お皿下ろして頂戴」
オープンキッチンとダイニングテーブルを隔てたカウンターには、お母さんが調理したトーストやハムエッグ。スープがいつの間にか次々と置かれていた。
続々と送られて来るお皿を、私は慌ててテーブルに並べていった。
お父さんはマーガリンを塗ったトーストと、チーズトーストを一枚ずつ。お母さんは食パンに、マーマレードを塗ったのを一枚。私はトーストにハムエッグを乗せて、オープンサンドにして一枚食べる。スープは日によって違っていて、今日はセロリとじゃがいものコンソメスープだ。一頻り食べ終えると、お父さんはレギュラーのブラックコーヒー。お母さんは、そこにミルクと砂糖を加えたもの。私は牛乳を仕上げの一服とする。アパートの頃と変わらない、朝の定番メニューだ。
「何にしても、近所に友達が出来たことは、いい事じゃないかな」
とテーブルにお皿が揃った所で、漸くお父さんは新聞を片付けて、
「では、手を合わせて。頂きます」
と家族三人合掌して食べ始めた。
食べ始めてすぐ、お父さんのいつもの癖が出た。
ハムエッグの白身の部分だけ最初に食べ切ってしまって、黄身とハムの部分を残しておく。そして他のトーストやスープを全部食べ進め、最後に残しておいた黄身とハムを、歌舞伎の大向うのごとく、「待ってました」とばかりに口にして、完食する。
お母さんと私が食事を終えた皿を流し台に持って行き、片付けると、お父さんはそれはそれは幸せそうな微笑みを浮かべ、ブラックコーヒーを飲んで余韻に浸っているのであった。
後で汚れが簡単に落ちるように、前もってお皿をお湯に浸しながら、お母さんにひそひそ声で聴いてみた。
──お父さんの卵の食べ方、お母さんは気にならないの?
お母さんも小声で、
──そりゃ気になるわよ。歩が生まれる前からよ。何度言ってみた所で、「僕の食べたいように食べていいじゃないか」って、全く聴く耳持たないのよ。
と返してきた。
──お母さん、嫌じゃないの?
と問うと、
──嫌よ。けど、よそ様の前では絶対しない、って約束だから我慢してるの。
とお母さんも同意した。
「お母さん。洗い物何か後にして……。コーヒーが冷めるよ」
と、お父さんが声を掛けてきて、二人してドキッとした。
テーブルに戻りがてら、お母さんは言い訳のように、お父さんに述べた。
「嫌、歩とね。薫ちゃんと梨花ちゃん。あれ以来トンとご無沙汰ねって、話してたんですよ」
と咄嗟にうまい言い訳をした。お父さんは、
「『足元から鳥が立つ』と言った、具合だったんだろうね」
私とお母さんは意味が分からず、お互い顔を見合わせお父さんを見返した。
「『足元から鳥が立つ』って言うのは、『身近で思いもよらなかったことが起こること』、を意味するんだ。薫ちゃんも梨花ちゃんも、もっと地味地味とした、瑣末なもんだと思ってたんだろう。けど、いざ来てみたら、『天窓がある』『リビングダイニングだ』、『歩の個室もある』などなど。正直羨ましく、妬み、嫉みを、いかばかりか覚えただろうね」
と相手の思いを汲み取って呟いた。
「けど、歩。悪く言っちゃいけないよ。人間誰しも表の顔、裏の顔は必ずある。どんな相手に対しても相手の立場を汲み取って、表の顔。つまり良い面に着目する。『性善説は偽善だ』、何て、物事を何でもネガティブに言う人はいるけど、お父さんはそうは思わない。相手の表の顔、良い面に光を当てる。必ず良い面があるはずだから、そう言う部分に着目する。歩がそんな風に捉えて育ってくれると、お父さん嬉しいな」
と職業柄なのか、元々の資質なのか、お父さんは私にそう言い聞かせた。
「現にお父さんは持ち家を持ったが、住宅ローンと言う課題も抱えたじゃないか。表があれば裏もある。世の中そう言うものだよ」
最後、お父さんは自分に戒めるように私に告げた。
「そのことですけど、前の話を持ち返すようですが……。朝食は出来合いの簡単な品に変えて、私も勤めに出るって話、再度検討しませんか?」
と、お母さんはお父さんに持ち掛けた。
「その話はまた帰ってからにしよう。もう時間だ。歩も急ぎなさい」
私は飲み掛けの牛乳を空にして、学校へ行く支度をした。