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1 伯爵家、激震する

約1年ぶりの投稿です。目標に突き進むパワフル美少女のお話です。

 オードラン伯爵家は極度の緊張状態にあった。


 リーリオニア皇国の首都シーニュにある邸宅のホールに居並ぶ使用人たちは主の帰りを待ちかねている。その中、忠実な乳母や家令、家政婦に守られるようにして伯爵家の長女ペネロープもまた父親の帰宅を待っていた。


「大丈夫ですよ、お嬢様。私がついてますからね」

 ほとんど戦闘状態にある乳母がそっとペネロープに言った。

「大げさね、お父様が再婚相手を連れてくるだけなのに」

 他の者があまりに身構えるせいで当事者はかえって冷静になっている。


 乳母より平静な家令と家政婦は、伯爵令嬢の落ち着きに賞賛の目を向けた。明るい栗色の髪と金緑色の瞳を持つペネロープはまだ十二歳。それでも、長く病床にあった母親の代わりに伯爵邸を取り仕切ることを学んできた。彼らにとっては仕える対象であり優秀な生徒だ。


 オードラン伯爵フレデリクはシーニュの社交界では愛妻家で知られていた。三年前に妻を病で失った嘆きは大きく、降るような再婚話すべてを断ってきた。

 それが突然の再婚宣言と同時に相手を連れてくるという。伯爵家の人々は当然大いに困惑した。


「旦那様もあんまりです、あれほど奥様の思い出を大切になさっていたのに」

 乳母の嘆き節は続いた。ペネロープは困ったように首をかしげた。

「喪の期間は過ぎているのよ。フォンタニエ侯爵様にも再婚を勧められていたし」

「おめでたい話でしょうよ、相手が場末の劇場のコブ付き女優でなければ」

「コブだなんて、九歳の女の子よ。正式に結婚した相手との子供だし」

「はいはい、劇場の裏方が父親でしたね」


 パトロンを得るために枕営業をするような女優ではないと令嬢が訂正したが、乳母の嫌悪感は収まらなかった。伯爵の再婚相手は貴族ですらなかったのだ。当然界隈で醜聞を引き起こしそうなものだが、幸か不幸か社交界はそれ以上のスキャンダルが吹き荒れておりオードラン伯爵の再婚話はやたらと迅速に進めることができた。


 一同が諦めの吐息を漏らした時、屋敷の外から物音がした。今や西方大陸から馬車を駆逐しかけている自動車のエンジン音だ。伯爵邸の人々は一斉に扉を注視した。

 従僕が重厚な扉を開けて主を迎え入れる。フレデリク・オードラン伯爵が帰宅した。

「みんな、揃っているな。さあ、入って」

 紳士然とした伯爵は満足げに頷き、連れを促した。彼の背後からおずおずと屋敷に足を踏み入れる者があった。家族や使用人は固唾をのみながら迎えた。


「……あの、申し訳ございません!」

 伯爵に連れられてきた女性はペネロープを見るなり頭を下げた。使用人たちは戸惑った顔を見合わせた。

 貴族を誘惑した女優というイメージから肉体派の派手で下品な女を予想していたのだが、目の前の女性が先入観からかけ離れていたためだった。

 よく見れば顔立ちは整っているが、質素な衣服と緊張で蒼白になった様子は気の毒になってくるほどだ。


「このたびは、大変ご迷惑をおかけして……」

 頭を上げられない彼女に伯爵は苦笑し、ペネロープは宥めようとした。混乱する状況の中、明るく大きな声が響いた。

「お姫様だ!」

 見れば、再婚相手の陰から小さな女の子が顔をのぞかせていた。金色の巻き毛を揺らし、夏空色の大きな瞳を輝かせてペネロープを見つめ、母親の服を引っ張る。

「見て、母さん、お姫様! 舞台照明なくてもキラキラツヤツヤしてる! 凄い!」

「ミミ!」


 女の子を叱りつけ、慌てて新伯爵夫人は説明した。

「娘のミシェールです。躾が行き届いておらず……」

 一連の騒動にペネロープは無意識に微笑んでいた。前に進み出て父親に隣の立ち、途方に暮れる母親と感嘆の目を向けてくる娘に名乗る。

「ペネロープ・オードランです。よろしく、アリーヌさん、ミシェール」


 優雅に淑女の礼をすると、母親より娘が元気に答えた。

「お姫様の挨拶、ミミもできるよ!」

 彼女は母親が止める前にスカートをつまむと深々と膝を折った。それは淑女の礼のようではあったが、明らかに舞台用に誇張された大げさな所作だった。

 伯爵家の人々は戸惑った。正式の礼とは違うと指摘し嘲笑するのは簡単だが、頭をもたげて得意げに笑うミミの姿は愛らしすぎた。


 微笑を浮かべてペネロープが少女に歩み寄った。

「素敵ね。正式な作法と少し違うけど、習えばすぐにできるようになるわ」

「お姫様になれる?」

 目をキラキラさせての質問に伯爵令嬢は頷いた。

「そうね。なりたいの?」

「うん、なりたい!」


 無邪気な答えが人々の顔をほころばせた。しかし、続く少女の言葉は彼らに混乱をもたらした。

「あと、メイドさんも家政婦さんも料理人もなってみたい!」

「……どうして使用人になりたいの?」

 尋ねるペネロープに、ミミは両手を腰に当てて胸を張った。

「演技の幅が広がるから」

 そして言葉を失う一同の前で少女は片手をあげて宣言した。

「ミミ・シュベールは、ギデオン座の看板女優になるの!」

 呑気に笑う伯爵と頭を抱える伯爵夫人を除く人々は、ひたすら反応に困りきっていた。



 オードラン伯爵家の静謐な書斎にお茶の芳香が漂った。

 伯爵親子と新たに家族となるアリーヌとミミ、そして壁際に控えるペネロープの乳母ゾーイと執事エクトル、家政婦マダム・バルラ。

 彼らは改めて伯爵家に加わる親子を観察した。


 アリーヌはまだ緊張が解けておらず、蔵書の多さと豪華な内装に圧倒されているようだ。隣の一人娘は遙かに気楽そうに大きな椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせている。少女の服は新品ではなかったが、体に合うようにきちんと仕立て直してある。すぐに大きくなる年齢であることを考えると母親の心づくしが感じられるものだった。


 屋敷の中心人物が揃う中、一息ついた伯爵がペネロープに詫びた。

「急なことで驚かせてしまったね」

 聡明な長女は頷きつつも説明を求めた。

「何かありましたの? お父様」

 ため息をつくと、伯爵は不安げなアリーヌに微笑みかけた。


「この人とは半年前にギデオン座で出会ったのだよ。最初、舞台にシュザンヌが甦ったのかと思った」

「お母様が?」

 萎縮した様子のアリーヌに目をやったペネロープは首をかしげた。彼女と亡き母との類似点があまり見つけられなかったためだ。


「演目がシュザンヌの好きだった『パイドーラ』で、声がそっくりだった」

 生前の伯爵夫人がよく朗読していたことを覚えていたペネロープは納得した様子だった。伯爵は懐かしげに目を細めた。

「楽屋に花束を持って行って、ミミにも会えたよ。アリーヌが未亡人で女手一つで育てていることも知った。それから個人的に朗読を頼むようになって、彼女に求婚したが身分が違うと断られ続けだった」


 控えていた乳母と家政婦が視線を交わし、どうやら女優から誘惑したのではなさそうだと認識を改めた。伯爵の声が憂慮するものに変わった。

「長期戦を覚悟していたが事情が変わってね。ミミの周囲にギヴァルシュ侯爵家の者が出没するようになったのだよ」

 その名への反応は使用人たちの方が大きかった。表情を険しくする家令たちに伯爵は頷いた。

「幼い少女に執着すると悪名高い御仁だよ。子役として舞台に立っていたミミに目をつけたようだ」


 震える手でアリーヌが娘を抱き寄せ、ミミが慰めるように母親に言った。

「ごめんね、母さん。あたしが可愛すぎるせいで心配かけて。でも、あの手の変態は大人になったら興味なくなるっておっぱい(ニション)マルジーが言ってたから」

 ペネロープは数度瞬いた。乳母はぽかんと口を開け、鉄面皮と呼ばれる家令の表情筋が微妙にひきつり、冷静沈着な家政婦の片眼鏡がわずかに揺らいだ。


 身の置き所がない様子のアリーヌに伯爵は苦笑交じりの笑顔を向けた。

「そういうわけで再婚を急いだのだよ。あの侯爵から養女に出せと脅迫めいた要求が来るようになったからね。さすがにオードラン家の正式な令嬢となれば強硬手段は取れないだろう。弱みにつけ込むような形になってしまったが」

「そんな……、伯爵様には感謝しています」


 慌ててアリーヌが礼を述べた。こんなことがなければ伯爵とは女優と贔屓客の関係を崩さなかったのだろうと伯爵家の人々は理解した。家令が気がかりなことを発言した。

「フォンタニエ侯爵家からの了承はいただけたのでしょうか」

 本家筋に当たる侯爵家は必ず根回しをしておかねばならない存在だ。伯爵は笑いをこらえる顔で答えた。

「あちらは我が家以上の大騒動を抱えているからな。訪問して御曹司に報告したら『そっちは女優か』と疲れた声で言われて終わりだったよ」


 フォンタニエ侯爵家の問題とは、老境に入った侯爵の電撃結婚だった。相手は息子より若く、しかもミュージックホールのコーラスガールだったことが社交界を震撼させた。

 さもありなんという顔で家令は小さく頷いた。どさくさ紛れで承認をもぎ取った形だが、これで伯爵の再婚に障害はなくなったのだ。


 彼は愛娘に言った。

「そういうわけなんだ、ペネロープ。どうかアリーヌとミミを受け入れてやってくれないか」

 令嬢は微笑んだ。

「はい、お父様。ゆっくりとここに慣れてくださいね、お継母様。ミミ」

「よろしくお願いします」

 新伯爵夫人は深々と頭を下げ、その娘も母親を真似た。ペネロープは父親に尋ねた。

「急なことですのでお部屋の準備ができておりませんが、しばらくは客室を使っていただきましょうか?」

「そうだな」


 伯爵が頷くと家政婦が確認した。

「伯爵夫人の私室は改装されますか?」

 その言葉にアリーヌが跳び上がるようにして首を振った。

「そんな、あの……亡くなった奥様の思い出があるのでは」

 人々の視線を集めてしまい、新伯爵夫人は必死に続けた。

「私、前の主人が奈落の事故で死んだとき、しばらくは服も捨てられなくて……」


 愛する者を失う嘆きは身分に関係ないのだと、飾らない言葉が実感させた。伯爵がそっとアリーヌの手を握った。

「別の部屋を改装するよ。君たちには罪悪感を持ってほしくない」

「ありがとうございます。……すみません、我が儘を」

 気恥ずかしそうに書棚に目をやったアリーヌは一角を埋めるものに驚いた。

「あれは台本ですか?」

「ああ、そうだよ。シュザンヌが朗読が好きで、台本の台詞もよく読んでいた」


 中の一冊を伯爵は取り出し妻に差し出した。

「これは『パイドーラ』初演時のものだ。嘆きの場を読んでくれないか」

 目を瞠り、アリーヌは緊張しながらそれを受け取った。そして台本をめくり、王妃パイドーラが嫉妬に狂う有名な場面の台詞を朗読し始めた。

『ああ、あの方の幸福そうな姿がこの胸を切り刻む――』


 神の呪いのために禁断の恋に落ち破滅していく王妃の苦悩の台詞は、最初の一語から書斎の人々の心を奪った。

 そこにいるのは地味な平民女性でなく、神話の中の悲劇の王妃だった。驚いたペネロープはミミに囁いた。

「お母様は主演女優なの?」

 金髪の少女は首を振った。

「あの時は主役の人が急病で母さんが代役で出たの」


 朗々とした美声に聞き惚れながらペネロープは頷いた。そして呆れたような声を出した。

「お父様ったら。お母様は確かに朗読がお好きだったけど、これほど美しい声ではなかったわ」

「旦那様には、これが思い出の奥様の声なのですよ」


 乳母の言葉にため息をついたペネロープは、ミミが熱心に母親を見つめるのに気づいた。その小さな唇は声に出さずに何かを呟いていた。

 それがパイドーラの台詞であり、一言も違えることなく暗誦しているのだとペネロープは悟った。看板女優になるというミミの宣言は子供の夢で終わらないかもしれない。伯爵家の長女は漠然と予想した。


次回からは7年後の話になります。

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