第5話「夜空の海と星々」
「クラヴィー、あれ…………」
そう言いながら、私はその黒を指差した。
クラヴィーはゆっくりと、視線を私の指の先に向け。
その奥の黒を凝視した。
「あ、あれは………………!!!」
そう叫びながら、クラヴィーは走り出した。
決して速くない。
それにとても整った走り方じゃなかった。
取り乱し、錯乱している者の走り方。
だがクラヴィーは、そんな事が気にならない程に興奮し、感動している。
そこにあったのは、間違い無くピアノだった。
黒い塗装の施された、しかし年月の所為か、所々の塗装が剥げている。
だがそれでも、この高級感までは剥げていない。
寧ろ神聖性まで感じられる。
鍵盤の塗装も剥げている。
黒鍵が黒鍵じゃ無くなり、木材本来の色が剥き出しだ。
それであれ、この楽器の荘厳さは増幅される。
嗚呼、容姿だけでもなんて美しいのだろう。
響板の曲線美。
精細に整列された88鍵盤は、まるで波紋の如く。
何とも端正なデザインだ。
クラヴィーは、さっきの無様な走りからは考えられない様に、優美な動きで、そのピアノに向かった。
そしてピアノの蓋を、ゆっくり開けた。
その際埃が舞ったが、それはまるでこれからこの世界を白銀に染める真珠の様に眩く、ひらひらと舞い降りた。
その蓋を突き上げ棒で支えると、そのままゆっくりと手を離した。
天を仰ぎ見ると、綺麗な満月が輝っていた。
との突き上げ棒は、まるであの大きな月を支えている様だ。
ただ私は初めに見た形が完成だと思い込んでいたが。
今の姿の方が何倍も美しい。
何ともバランスの取れた造形だ。
思わずため息が漏れる。
そんな事を思っていると、クラヴィーは突然自分の指を引っこ抜いた。
「えっ?! 何してるの?!!!」
「何って、調律ですよ。どんな楽器も、ちゃんとチューニングしなけりゃ、出る音はただの噪音ですから」
よく見ると引っこ抜いた指の付け根は、筒状になっている。
その筒をピアノのチューニングピンに嵌め込み、少し回した。
そしてそのチューニングピンに対応した鍵盤を鳴らした。
「うわっ、何この汚い音」
「だから調律するんですよ」
クラヴィーはその鍵盤を連打しながら、ピンを回した。
その度に、その音が掃除されて行く。
「綺麗な音…………」
「こんなもんじゃありません、ピアノは」
そうしてクラヴィーは、全ての鍵盤を調律した。
もう月は頭上に昇っていた。
クラヴィーは両腕を引っこ抜き、初めに持って来ていた大きな手に差し替えた。
「成る程、この為の…………」
「あの手じゃ小さいですし、鍵盤と当たってかちゃかちゃ鳴って五月蝿いでしょう」
クラヴィーは鍵盤の前に座り、手首をグルグルと回した。
そのまま肩も回し、首も回した。
ため息をほぅと吐いた。
私は今の内に唾を呑み込んでおく。
あまりの静寂に、此処で息音を立てようものなら殺されると錯覚してしまう。
錯覚であれ、此処で少しでも物音を立てるのは憚られた。
此処で響いて良いのは、ピアノの音と、夜凪の音。
それ以外は許さない。
この静寂が、許さない。
クラヴィーの手が、鍵盤に置かれた。
クラヴィーは天を仰ぎ見て、その視線を月に向けた。
とても静かに、繊細に、その鍵盤は押された。
初めに出した音は、たったの2音。
FとA♭。
その直後に、それと同じ音が、1オクターヴ上で鳴らされる。
嗚呼、何て綺麗なんだ。
月から流れて来た歓喜の涙が1滴ずつとても大きな夜空の海に波紋を及ぼして。
時間と共にその波紋は衰えを知らず、余計重なり、重なり、重圧になって行く。
ただ初めは煌めく星々。
その星々が、鍵盤の上で跳ねている。
優しく、時には足踏みをしながら。
そしてその星々と波紋は交わり、余計厚い、大きな夜となる。
軈て波紋は大きな渦となり、波となる。
低音の潮汐力に身を任せ、ただずっと流れ続ける。
だが刻一刻と変化をし続け。
そして終わりを迎え行く。
再び海は穏やかさを取り戻し、星々が涙を零す。
畝り、煌めき、溢れ、零れる。
嗚呼、潮汐力に惹かれていたのは、私かもしれない。
クラヴィーの指が、そっと鍵盤から離れた。
そして余韻が完全に消え去った時、肩の力を一気に抜き、ぶらぶらと揺らした。
「クロード・アシル・ドビュッシー作曲。ベルガマスク組曲より第三番『月の光』」
静かに、クラヴィーは私と夜の帷に囁いた。
「正に、この世界にピッタリだ」
明らかに異類な大きな手をぶら下げて、クラヴィーは月の光に、思慕を募らせ、ピアノに想いを馳せた。