第1話「蚊帳の外と出逢い」
気分転換に中編小説を書いてみようと思います。
風が気持ち良い。
さぁさぁと、私の髪を連れ去ろうと、優しく吹き荒れる。
早く起きろよと。
覚醒しろと。
ずっと、風にそう囁かれた。
わかった。
もう直ぐ起きるから。
もうちょっと待ってくれ。
「ん、ん〜――――――――」
目を擦り、そのまま大きく開けた口からは欠伸が漏れる。
未だ眠たいのに。
「…………えっ?」
目を掻いていた手を退かした時、私は喫驚した。
「何処?」
目の前には、緑色に包まれた、見知らぬ世界が広がっていた。
その緑色に触れてみる。
少しザラザラしている。
よく見るととても細かい毛がビッシリと生えている。
破れそうだったのでそのまま破ってみた。
すると断面から少し汁が出てきた。
匂ってみるととても臭い。
初めは舐めてみようかと思っていたが、とても舐められたものじゃない。
千切った物を直様地面に投げつけた。
どうやらこの緑は、茶色の柱にいっぱいくっついている様だった。
その茶色を触ってみると、ゴツゴツしていて、少し手を怪我してしまった。
赤い血がつーっと垂れる。
それを認めた後、再度その茶色に目をやってみる。
よく見るとその茶色から、黄金色の粘性の高い液体が流れている。
指で掬って舐めてみた。
「んっ!」
とても甘かった。
美味しい。
また私はその黄金色を掬って舐めた。
美味しい。
美味しい。
甘い。
「何なの、これは?」
一人しかいない此処で、私は一人そう呟いてみた。
その茶色に手を当て乍ら、そう言った。
当然返事など無いので、私はその事実に鼻で笑って答えた。
「これは樹木ですね」
「ぎゃぁぁ!!!」
突然背後から話しかけられたので腰を抜かしてしまった。
あまりにも驚いたので、息切れが激しい。
汗も滝の様に噴き出て、目はこれでもかという程に開いている。
何秒かしてやっと落ち着いてきたので、その声の主を探す。
何度もキョロキョロと当たりを見回している時、それはあった。
「植物の一種で、これはその中でも喬木と呼ばれるものです」
小さな小さな。
鉄の塊。
「今舐めていたのは樹液と言って……」
「鉄が喋ってる…………」
鉄の言葉を遮って、思わず言ってしまった。
「鉄とは失礼な。これでも歴とした一つの生命体なのですよ」
「へぇー」
「興味ありませんか?」
「いや、そういう事じゃ無いけど…………」
どうも目の前の存在が奇怪だった。
人の様な形に象られた鉄が、人間みたいに歩き、喋っている。
ただ頭は縦に長い直方体で、目も二つの白いランプを点灯させているだけの様に見える。
口や鼻は無く、と言うか必要無いのだろう。
奇怪と言うより、機械だな。
「僕はクラヴィーと申します。貴女は?」
「私は、チェンバー」
「ほほう! これは珍しい事もあるものだ」
「どうしたの?」
「それはですね………いや、長くなりそうですし、歩きながら話しましょう」
そうして私は、私の腰程しか無い小さなロボット、クラヴィーと共に、樹木の間を歩いて行った。
方角も何もわからない。
どこを目指しているのかも、何もわからない。
「その昔。ある楽器がありましてね」
「ガッキ?」
「音楽を奏でるための物の事です」
「オン……ガク?」
「音楽を知らないのですか?」
「うん」
クラヴィーは頭を抱えた。
私にはわからない。
何故クラヴィーは頭を悩ませているのか。
私がそんな頭を悩ませる様な事を言ったかな……?
「それでは僭越ながら」
そう言うや否や、クラヴィーは突然手を叩きながら変なイントネーションで喋り始めた。
「どうしたの?! どうしたの?!」
心配してそう叫んで見た。
でも辞めない。
一体どうしちゃったんだ?
「どうしちゃったの?!」
そう言い乍らクラヴィーの肩を揺さぶると、やっとクラヴィーは元に戻ってくれた。
「何してるの?!」
「何してるのって……あれが音楽です」
「あの、変なのが?」
「変じゃありませんよ。一つの芸術です」
「あれが芸術なの?」
「はい、音の芸術です」
「ふーん」
私にはよく分からなかった。
あれの何処が素晴らしいのだろう。
芸術とは、素晴らしいものだ。
例えば絵画。
見ていると、幸せになったり、時に悲しくなったりする。
例えば文学。
素晴らしい作品に出会えば、泣いたり、笑ったりする。
それが芸術。
でもさっきのはとても芸術とは呼べない。
ただの奇行としか言いようが無い。
「まぁ、また何処かで理解してくれれば良いです」
「理解出来るかな…………」
「そしてその楽器の事ですけど」
急に話を戻してきた。
「その楽器の一種でですね、ピアノと呼ばれるものがあるのですよ」
「ピアノ…………」
「そうです、ピアノです。別名、楽器の王様なんて呼ばれたりもするんですよ」
「王様?!」
「そうです、王様です。それくらい凄い楽器なんです」
「へー」
「そのピアノですけどね、『ピアノ』って略称何ですよ」
「はぁ」
「正式名称だとですね、『クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ』って言うんです」
「…………え?」
「だから、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」
「分からん分からん」
頭がこんがらがってしまう。
「その昔クラヴィコードという楽器とチェンバロという楽器があってですね。その二つの楽器が合わさってできたのがクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテなんですけどね、抑もクラヴィコードというのは長方形の箱の中で滅茶苦茶強い力で張られた弦をタンジェントという金具で突き上げて音を出す楽器で、この楽器の特徴は何と言っても音の強弱を調整できるという点なんですよね。それとチェンバロですが、此方はバロックの時代に多用された楽器で、見た目はクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテの一つであるグランドピアノと瓜二つなんです。因みにチェンバロは英語でハープシコードとも呼ばれるのですけど、音を出す構造は、弦を突き上げるクラヴィコードとは違って、ピックまたはプレクトラムと呼ばれる部分でピンと張った弦を弾く事で音を出します。弦を弾く構造なので、どうしても音の強弱の調整が難しい楽器です。そしてその二つの楽器が合わさってできたのがクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテなんです。この名前の意味は、強い音も弱い音もどちらも出すことが出来るチェンバロという意味で、身は目はチェンバロを採用し、チェンバロの強弱をつけられないという欠点を、内部構造をハンマーで弦を突き上げるクラヴィコードの構造を採用した、正にクラヴィコードとチェンバロを合わせた楽器なんですよ。因みにこの楽器を発明したのは……」
「もう良いですもう良いです!!」
結局二、三分語られた。
どうしてもその界隈に居ない人からしたら、こういう話は辛い。
どう反応して良いかがわからず、結局あまり理解出来ない。
時間が無駄になる。
だが、語っている本人は楽しいのだろうな。
「失礼しました。結局私が言いたかったのは。クラヴィーでしょ? チェンバーでしょ? クラヴィコードとチェンバロにそっくりでしょう?」
「言われてみれば、確かに…………」
「これは運命なんじゃ無いかと思う訳ですよ。きっと僕と貴女は此処で出逢う運命だったんですよ」
「…………クラヴィーって意外とロマンチスト?」
「いえ、ちっともそんな事はありませんよ」
クラヴィーは、少し俯いていた。
「僕はただ、無くしたピアノを探しているだけですから」
その言葉に、私は何も言えなかった。
何て言えば良いのかわからず、硬直してしまった。
その時の雰囲気は、さっきまでのチェンバーとは違うものだった。
この日私は、知らぬ場所で、一人のロボットと出逢った。