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揺れる馬車の中で

 宿屋『アガパンサス』に向かう頃には、すでに二つ目の月が稜線の上に顔を出していた。先に昇った細く青白い月と、それを追う赤銅色の細い月。


「今にも折れてしまいそうな月ですね」


 リアーナ様は呟いて馬車に乗り込んだ。馬車に施された紋章は、タミア様が手紙の封に使ったのと同じ月桂樹の輪と牙を剥く獅子。アルヘンソ家の紋章だ。


 おれがリアーナ様の斜向かいに座り、御者に扮したアルヘンソの兵士が扉を閉めるとじきに馬車は動き出した。


「邸内は招待客がうろついています。中にはリアーナ様のお顔をご存知の方もいるかもしれませんので目隠しを」


 リアーナ様は小窓に顔を寄せて月を眺めていたが、「そうね」と大人しくカーテンを下ろして膝の上でこぶしを握りしめた。


「リアーナ様、あまり力を入れると爪が食い込んでしまいます。クラリッサとソフィアさんが先に宿で待機していますし、わたしもついておりますのでどうかご安心下さい」


「いえ、兄と会うのが怖いわけではなくて、……あの夜以来馬車に乗るのは初めてで、……手が、勝手に」


 今夜は南から生暖かい風が吹いて汗ばむほどだというのに、リアーナ様の手はおれが見ている前でガタガタと震えはじめた。


「リアーナ様、今夜は遅くなってしまいましたし、無理に会いに行く必要はありません。引き返しましょう」


 夕刻には宿に着く予定だったのが、こんな夜更けの出発になってしまったのはフェルディーナ卿が外出したと連絡があったからだ。不意打ちの訪問を狙ったのが裏目に出てしまった。


「あの、デ・マン卿。手を……握ってはもらえないでしょうか」


 密室で皇太子妃殿下の手を握るなど――と断りの言葉を口にすべきだが、目をギュッと閉じて恐怖に耐えるリアーナ様を見たら何も言えなくなった。


 おれは揺れる馬車の中で身を乗り出し、固く握りしめた華奢な手をそっと両手で包み込む。彼女の手から少しずつ力が抜けていった。


「デ・マン卿がいなくなる前にもっと強くならないといけません。離婚が成立したらデ・マン卿は帝都に戻ってしまうのに」


「それは……」


 離婚後もおれが引き続きリアーナ様の護衛に就くことはほぼ間違いないが、それはおれが勝手に伝えていいことではない。


「リアーナ様にはアルヘンソ姉妹がついております。帝国中探してもあれほど心強い味方はなかなか見つかりません」


 リアーナ様からの反応がなく、視線をあげると思いのほか間近に顔があった。リアーナ様は「あっ」と慌てて顔を真横に向ける。


「すいません。デ・マン卿はいつもわたしの後ろにいらっしゃるから正面からのお顔を見る機会がなくて、つい」


「そう、……ですか? 正面から顔を合わせると目をそらされているように感じていたのですが。今もそうではありませんか?」


「それはっ、……その、人の顔を見るのはよくても、自分の顔はジロジロと見られたくないのです」


 リアーナ様は手で顔を隠そうとしたようだが、その手はおれの両手に押さえつけられている。恥ずかしそうに顔をそらされてはこちらまで顔が赤くなりそうだ。


「わたしの不躾な視線がリアーナ様を不愉快にさせてしまったのでしたら申し訳ありません。顔を伏せておりますからどうぞ楽になさってください」


「いえ、……別に、不快なわけでは」


 おれの視界でリアーナ様の髪が揺れている。どんな顔で首を振っているのか気になっても確認するわけにはいかない。


「麻薬で痩せてしまっていたせいか、自分の美醜がよくわからないのです。スサンナはわたしを美しいと言ってくれるけれど自分ではそう思えません。タミア様やソニア様が外見を褒めて下さっても気を遣わせているだけのような気がして」


「リアーナ様はお美しいです。見惚れて不躾な視線を向けてしまうくらい」


 誰かに聞かれたら皇太子妃を口説いているのかと問い詰められそうだが、リアーナ様が美しいのは事実。おれは事実を口にしているだけだ。


「でも、わたしはデ・マン卿に顔を見られると無性に恥ずかしくなるのです」


「でしたら、わたしのことはカボチャだと思ってください。カボチャの中身をくり抜いて作る、人の顔をしたランタンをご覧になったことはありませんか?」


「カボチャのランタン? 初めて聞きました。デ・マン卿が育った土地ではそのようなことを?」


「はい。カボチャだけでなくパプリカやトマトやカブ、オレンジの皮などでも」


 フフッと軽やかな笑い声がしておれは思わず視線をあげた。彼女はビクッと肩をすくめたけれど、目をそらさまいとしているのかおれを見つめ返して「カボチャ……」とつぶやく。


「はい、カボチャです」


 リアーナ様はクスッと声を漏らしたあと、なぜか悲しげに目を伏せた。


「デ・マン卿、もうじきわたしの護衛も終わりだというのに面倒事に巻き込んでごめんなさい。わたしではなく別の皇太子妃についていたらこんなことにはならなかったのに」


「わたしはリアーナ様の護衛騎士に任命されて良かったと思っています。許されるなら今後もリアーナ様をおそばでお守りしたいと」


「ありがとう、デ・マン卿」


 リアーナ様から返ってきた微笑みは、明らかにおれの言葉を上辺だけのものと考えている顔だった。おれがいくら本音を口にしても、彼女自身が自分を否定し続けているから心の奥まで届かない。


「リアーナ様をお慕いしています」


 魔が差した。どうせ受け流されるなら口にしても問題ないのではと、そんな誘惑に駆られてしまった。リアーナ様は困惑した顔で何か言おうと口を開くけれど、その愛らしい唇はかすかに震えるだけ。


「リアーナ様、どうか無礼をお許しください。ですが、例えわが主君でもリアーナ様を害することがあればその喉元に剣を突きつける覚悟ができております。もちろん、リアーナ様の実の兄君に対しても」


「……デ・マン卿、何をおっしゃっているのか」


「先ほどお伝えした通りです。わたしはリアーナ様のおそばにいられて幸せです」


 両手で包み込んでいたリアーナ様の手の甲に口づけたとき、ガタンと馬車が揺れた。互いに身を乗り出していたおれとリアーナ様の肩がぶつかり、倒れそうになった彼女を咄嗟に抱きかかえる。


「平気ですか?」


 おれの頭の中には――離婚が成立するまでは手を出すなよ――というランド殿の言葉が過る。


「あの、デ・マン卿」


「なんでしょう」


「デ・マン卿はソニア様に求婚されたのですよね?」


「えっ?」


「先日、ランド様がいらした日にラナ園でそのような話を……」


「違います! あれはリアーナ様へのプロポーズの話で」


「わたしへのプロポー……」


 馬車が停まり、リアーナ様は消え入るように口を噤んだ。小窓のカーテンをめくって確認すると、道の先に『アガパンサス』の看板が見える。扉を開けると急に現実に引き戻され、馬車の中での会話が夢の中のできごとのように思えてきた。リアーナ様の顔にも緊張が戻っている。


「必ずお守りします」


 先に降りて手を差し出すと、「はい」とリアーナ様はおれの手を握り返した。


 南部貴族のあいだで最近流行り始めたという締め付けのないシンプルなドレスを選んだようだが、風にあおられると体のラインが浮き彫りになり目のやり場に困る。通りすがりの男二人がこっちを指さしてニヤニヤしていた。マントで隠したいところだが、この暑さでは逆に悪目立ちしてしまう。


「リア様こっちです」


 おれはあらかじめ聞いていたとおり細い路地に入り、『アガパンサス』の裏手に回って裏口の横にあるひと回り小さな木戸を三回、二回、五回、と短く叩く。すぐに内側から扉が開き、顔を出した男にタミア様から預かったネックレスを見せると問題なく中に通された。


 通路には所々に扉があり、従業員たちの声が漏れ聞こえてくる。突きあたりの部屋に案内され、そこで待っていたのはクラリッサとソフィアさん、それからひょろっと背の高い三十代くらいの男性だった。彼は皇太子妃殿下に向かって「お待ちしておりました」と恭しく頭を下げる。


「アガパンサスの支配人をしておりますリックと申します。オリヴァー・フェルディーナ様は一時間ほど前に部屋に戻られました」


 リックの説明によると、フェルディーナ卿の外出はアガパンサスの宿泊客二人と一緒だったらしい。少し離れた場所にある地元民向けのパブに入り、その後一人で宿に戻って来た。同行者ニ名の身元は確認済みで、フェルディーナ卿と同じ西部騎士団に所属する男爵家の長男と伯爵家の次男。両家とも特筆すべきこともない平凡な貴族だが、反オーラ派と繋がりがあるかは現在調査中だということだ。


「パブでは舞踏会のことと騎士団のことを話されたようです。皇太子妃殿下の舞踏会への出席も話題になったようですが、フェルディーナ卿は何も聞いていないと答えたと。特に怪しいところはなく、たまたま宿で顔を合わせ食事に誘われたのではないかと思われます」


 リアーナ様はリックの説明を聞き終わると、おもむろに「兄の部屋に案内して下さい」と口にした。


「リアーナ様、わたしはタミア様から面会を別室で行うよう指示されております。ご用意した部屋でしたら扉を閉めても構造上密室とならないため、結界魔法具は発動しません。部屋での会話はこちらで聞けるようにしてありますので、何かあれば待機している者がすぐに踏み込みます」


「それは困ります。兄との会話はフェルディーナ家の内情に関わることです。兄は防音結界魔法具を持っていると聞きましたので、どうぞ兄の部屋に連れて行ってください」


 リックとクラリッサは顔を見合わせ、観念したようにため息を吐いた。


「そのように言われるだろうとタミア様もおっしゃっていました。もうひとつ別の部屋をご用意してあります」


「その部屋には防音結界が?」


「はい。商談などに使う部屋で、常時防音結界が張ってありますが、その代わり犯罪防止用の監視窓がついております。低い位置にあり利用者様の顔はわかりませんが、中で異変があればすぐ宿の者が駆けつけます。扉に鍵はついておりません」


「その部屋で構いません。リアーナ・エルフルーレ・グブリアがその部屋で待っているとオリヴァー・フェルディーナ様にお伝えください」


 承知しました、とリックは一旦通路の方に姿を消した。残った顔ぶれでそれぞれの持ち場を話し合い、クラリッサは監視窓を確認するための監視部屋へ、ソフィアさんはフェルディーナ卿が部屋に入ったあとに扉の外で待機することになった。おれは当然ながらリアーナ様に同行する。


「デ・マン卿」


 ソフィアさんが真剣な顔でおれの腕をつかんだ。思いのほか強い力と眼差しに怯むと、「しっかりしてくださいね」と叱咤される。


「フェルディーナ卿が持っている魔法具が結界魔法具だけとは限りません。何か起きそうだったらこっそり扉を開けてください。密室でなくなれば防音結界は解除されます。フェルディーナ家の内情よりもリアーナ様の命が大事ですから」


 話を聞いていたリアーナ様は苦笑を浮かべ、「頼りにしてます」とソフィアさんに頭を下げた。手配を終えたリックが部屋に戻って来ると、クラリッサとソフィアさんはそれぞれ持ち場に散って行く。


「では、リアーナ様とデ・マン卿はこちらへ」


 リックについて階段を上がり、扉を開けるとロビーに出た。人けはなく、照明は歩ける程度に暗くしてある。


「ここは商談用のフロアです。普段はこの時間でもいくらか利用があるのですが、今夜この宿に泊まっているのは舞踏会に招待された若いお客様ばかり。他の利用者はおりません」


 リックはロビーを突っ切って、通路に並んだ扉のうち一番手前の扉を開けた。パッとマナ石ランプが灯り、向かい合わせのソファとテーブルが目に入る。部屋にあるのはそれだけだが、高級宿らしくソファの座りごこちは良さそうだ。


「あちらの窓が監視用の窓です。向こうに見えている明かりが監視部屋のもの」


 リックは身をかがめて窓の向こうを指さした。監視部屋の窓ガラスは特殊加工がされているのか、ぼんやりと霞がかかって中の様子はよく見えない。


「合図を決めておきましょう」


 リックが言った。


「こちらのソファにリアーナ様が、向かいのソファにオリヴァー様がお座りになると思います。デ・マン卿はリアーナ様の後ろ。デ・マン卿の足の動きはオリヴァー様から死角になりますから、緊急時には左足のつま先をこのように床につけて踵を上げてください」


 こうですね、とおれがリックのまねをすると、リアーナさまもおれの横で同じようにつま先を立てた。その可愛らしさに見惚れていたら「デ・マン卿」と責めるようなリアーナ様の眼差し。


「……申し訳ありません」


「いえ、そうではなくて。わたしは兄と穏便に話を進めるつもりですので、ギリギリまで合図は我慢してください。デ・マン卿は過保護なのですぐ合図を送りそうな気がして」


「……努力します」


 リックが部屋を出て行ってしばらくすると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。防音結界が作動しているはずだが、タミア様の執務室にあった結界魔法具と同じで外の音は結界を通過するらしい。


 コンコンとノックの音がする。


「オリヴァー・フェルディーナ様をお連れ致しました」


 おれとリアーナ様はうなずき合い、彼女は皇太子妃らしくソファにゆったりと腰をかける。おれが扉を開けると、宿の制服を着た男の後ろにリアーナ様と同じ淡い茶色の髪をした男が立っていた。



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