後編
彼女は、鞄を探っていた。なにか、探しているのだろう。
「……………。」
少し躊躇った後、僕は思い切って声をかけてみた。
「…………ねぇ、これ使う?」
僕は、彼女の机に見当たらなかった数学の参考書を指して言った。
「……………っ! あ、ありがとうございます」
瑞香は少し驚いたように僕を見て、それを受け取った。はじめてみたその子の驚いた顔に、少し緊張がほぐれる。
「君、いつも勉強してるね。凄いや」
「貴方も、いつも上位にいるじゃない」
ぽつりと、会話を交わす。どうやら名前は知られていたようだ。
だが、特に続けることも無く、勉強を再開した。
終わる頃に、そっと差し出された参考書を受け取り、また、いつものクラスに帰って行った。
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その日は、突然だった。
放課後、少し先生に頼まれた雑用をこなしていると雨風がきつくなり、嵐のようになっていた。両親からは迎えに行くから、という伝言を貰った僕は、暇つぶしにぶらぶらと校舎内を歩いていた。
『おーーさー!』
「………………。」
こんな日には、余計な事まで思い出してしまう。もう、何もかもを忘れてしまった記憶。幼い頃の出来事なので、何も思い出さなくても支障はなかった。
………気にならない、と言ったら嘘になる。だが、思い出してしまえば、何か決定的な物が変わってしまう気がした。
『ーー! おいーいかーーで!』
そう、僕は、きっと何か、
『なんー! どーーー!』
大切な何かを、忘れている。
「う……………」
「………………!」
ちがう、幻聴じゃない。なにか、声が聞こえた。どの教室にも、電気は付いていないのに。
だが、廊下は暗い。どこから聞こえてきたのか、分からない。それでも、僕の足は勝手に端の教室に向かい始めた。
ーーーーそうだ、あの子も、確か、誰にもバレたくない時に端の部屋に行く癖があったんだ。
ふと、そんな考えが頭を過ぎる。あの子が誰かは、分からない。でも、なんだかずっとその子に会いたかった気がするし、会いたくなかった気もする。
奥の教室。暗く、扉は閉ざされている。でも、中からは確かに声が聞こえた。
「…………ぅ、ぁ…………ぅ…」
何かを押し潰すような、聞いていて、苦しくなるような、そんな声。
ーーーーそうだ、僕は知ってる。本当に気持ちを押し殺して、それでも押し殺しきれない。そんな、泣き方を。
『………ぁぁ………ぅ………』
そう、誰かが、ずっとそうやって泣いていた。
「………………。」
思い切って扉を開ける。中の人物は、ビクッとなりこちらを見る。
「………………香山、様」
瑞香は、端の方で自分を守るように抱え込み、うずくまっていた。顔は見えない。だって、光がないから。
「………。」
そのまま、瑞香は諦めたように脱力し、視線を逸らしてしまった。
すると、一瞬教室が明るく照らされ、遅れてけたたましい音が鳴り響く。
その時に見えた瑞香の顔は、疲れ切っていた。隈だとか、涙だとかは分からない。でも、その顔に何故か見覚えがあった。
『おにいさま!』
そうだ、あの子に、とてもよく似ている。
なんでも出来るのに、手を抜くのが下手な、あの子に。
『いや! おいーいかなーで!』
無性に会いたい、あの子に。
「…………っ!」
頭が痛い。思い出しすぎたのだろうか。
「………どうして、ここに?」
瑞香が呟いた。
「………声が、したから。」
「………そう。」
瑞香の声は、酷く重々しかった。
僕は、香山瑞香とはほとんど関係がない。分家ではあるが、家の仕事はまだ継いでいない。
だから、放っておけばいいのに。1人にさせればいいのに。
でも僕は、
『その潰れてしまいそうな危うさを』
ーーーどうしても、放っておけなかった。
「…………それは?」
僕が差し出した林檎のお菓子。それを見て、瑞香は一瞬顔を強ばらせた。
「………香山様は…」
「……っ!瑞香でいいわ」
「………瑞香さんは、頑張りすぎですよ。
ずっと勉強してるし、人前ではずっと微笑んでるし……」
それを聞いた瑞香の目が、一瞬光った気がした。
「………貴方には、関係ない。言われる筋合いなんてないわ」
「………分からないんです。でも、僕は貴方みたいな人を知ってる気がするんです。だから、少し気になって。」
「………随分と、曖昧ね」
「………僕、昔の記憶がないんです。でも、知ってる気がする。なんでも出来るのに、手を抜くのが下手で、ずっと、気を張っている、あの子。
分からない、本当に………もう、何も覚えていないんです」
そう言いながら、僕は頭に響く声を聞く。ずっとずっと、誰かが僕を呼んでいる。
同時に響く嫌な声の中にいるその子が誰かは、知らない。
「だから、」
せめて、伝えたい。
「もう、休んでもいいんじゃないですか?」
「………………っ!」
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途端、瑞香は立ち上がった。林檎のお菓子を思わず隼人は落としてしまう。それを見て、瑞香は顔が歪むのを感じた。
「貴方がーーーー!」
それを、言うのね
そう絶叫するようにいいかけ、言葉を止める。
そんな事を言っても無駄なことは分かっていた。だが、瑞香の意思に反して言葉が口をつく。
「……………優しい人ね。本当に、馬鹿みたいに。」
そう、そうだ。兄は本当に優しい人だった。
「…色んな人が、貴方に救われる。」
その優しさに、何度救われただろうか。
「でも、貴方の優しさは」
昔とは違う、何も知らないからこその、その優しさは
「…………人を、絶望させるのね」
私には、届かない。
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私には、双子の兄がいる。でも、勉強も要領も、私の方が上だった。その事を周りはよく揶揄するし、両親は私に期待した。
それでも、兄は私を愛してくれた。嫌なことも、あるだろうに。私が邪魔だと思うこともあるだろうに。
私の心が限界を迎える前に、いつも気づいてくれるのは兄だった。
寒い蔵に閉じ込められて、こっそり毛布を差し入れてくれたのは兄だった。
課題が終わらなくて、ご飯抜きの時にお菓子を置いてくれるのも、兄だった。
体調が悪い時、粗相をしでかす前に兄は自分から両親の気を引いておいてくれた。
誕生日、どんなに豪華な物を誰から貰っても、兄がくれるお菓子や花には敵わなかった。
私が好きそうな本を、お菓子を、置いておいてくれる。
そう、優しい人なのだ。誰よりも、本当に優しい、自慢の兄。だから、私も兄を慕った。兄がくれた分、私も返してきた。それでも返しきれないほど、私は何度も兄に救われて来たのだ。
兄は自分には何も無いと思っているけれど、私は知ってる。
優しいこと
割とロマンチストなこと
本当は、勝負は好きではないこと
抹茶が好きな事
両親に、見てもらいたいこと
認めてほしくて、ずっと努力してること
そして、何よりも………
私を、妹を、愛してくれること。
両親は、私にも兄にも家族の無償の愛を与えない。それでも私があの温もりを、優しさを、支え合うことを知っているのは、兄のおかげだ。ずっとずっと、私の知らないところでも、私を守ってくれている。私にない欠けたものを、埋めてくれる。
ある日、私も兄もフリーの日があった。
ずっと読もうと思っていた本が、兄と同じだった。
『まちがって、失って』
昔の史実を物語にしたもの。みんな間違えた話。読み終わって、私は感想を口にする。
「この話では、姉は、ロゼットは妹が全てだったのね」
「……全てが、すれ違った結果なんだね。もしかしたら、記録に残っている物ではなくこれが本物の話なのかな?」
この話に、私は1つ疑問を持った。どうして妹、リゼットは、姉を追わなかったのだろう? 何よりも大切な人を失って、どうして生きていられたのだろう?
狂ったから? いいや、狂うことが救いだとは思えない。ロゼットは、リゼットを置いていった。その事実さえも、私には理解できなかった。
どうして、こんな結末になったのか?
ーーーー考えても、答えは出ない。
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最近、兄の様子がおかしくなった。失敗ばかり続いているそうだ。私は、本人も気付いていない好物の抹茶菓子を兄のもとへ置いておいた。
次の日、朝の朝食の場につく。私は兄を見て心臓が跳ねた。兄は、笑っている。微笑んでる。だが、本当の笑顔を知っている私からすれば偽りだとすぐにわかった。なにか、無理をしている。
案の定、兄はカップを落としてしまった。小さく響くそれ。私は、そっと兄を見る。そこで、兄が固まったのが見えた。
「…………?」
その視線を追う。そして、私も見てしまった。
両親の、出来の悪い子を、どうしようもない子を見るような、そんな目を。
「…………………っ!」
鋭く息を飲んでしまった。怒ることも、諭すこともしない両親を見て、自分に向けられたものでは無くても心臓が激しく鳴っている。
嫌だ。
そう思った。きっと、直で向けられた兄はどんなに絶望しただろう。
今の一瞬で、暖かく心に満ちる “ソレ” を、与えられることは無いと証明されたようなものだからだ。
「………瑞香」
不意に母に呼ばれる。必死に笑顔を作り、それに答える。
「なんですか、お母様」
嫌な予感がする。朝から、何かがおかしい。ガンガンと鳴り響く警鐘。少しでも気を抜けば、恐怖に身体中が引きつってしまいそうだった。
「来週、お見合い、してみないかしら?」
話を、ほとんど聞いていなかった。次々に話される情報なんて、ほとんど覚えていない。
満足気な父と母を片目に、私の意識は違う方向に飛んでいた。
ずっとなかった、跡取りに関する話題。きっとそれは、私と兄で迷っていたから。
さっきの父と母の態度、そして、私へのお見合い。それは、嫌でもその事実を確定させる。
(………………! お兄様!)
きっと跡取りが、決まったのだ。
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だめ、ダメだ。忙しく、兄が捕まらない。
よりによって、このタイミング。
だめ、兄は優しいけど繊細な人なの。追い詰められたタイミングで、トドメなんてさしてはダメ。
知ってるの。いくら優しい人でも、人間はそこまで優しくなれない。
兄は両親からの愛を切望していた。両親に、認めて貰いたがっていた。それは、悔しいけど他の人では、私では埋められない大きな欠陥。
あの物語でリゼットが失って壊れたみたいに、兄も、きっと壊れてしまう。
いっそ、全てを放棄して私が逃げてしまえば、両親は兄を見るだろうか?
いや、ダメ。兄は私を失くす事になるし、簡単に人間の認識は変えられない。兄はきっと、もう両親を信じられない。
どうして、こうなってしまったのだろう?
あんなに優しい人を、私は他に知らないのに。
……………話したい。兄と。
夜、私は部屋を出た。課題を終わらせるのに時間がかかり、深夜を超えてしまった。
廊下は暗く、冷たいのが嫌に現実めいている。
「…………………?」
玄関近くから、カチャリと音が聞こえた気がした。
私は、窓から外を見た。
「…………………ぇ?」
フラフラと、歩いていく小さな影。私が、世界で1番大好きな姿。
兄、隼人が、門の方へと歩いていた。
「………………っ!」
私も、玄関へと駆け出す。これを逃せば、もう兄は遠くに行ってしまう気がした。もう、会えない気がした。
「…………っ!はぁ、はぁ、はぁ…」
門に着いた時には、兄は少し遠くまで歩いていた。私は、飛び出そうとする。でも、そこで、躊躇ってしまった。
ーーー本当に、いいの?
私が、ひきとめて
…………あぁ、知っていた。自分が重荷である事くらい。他ならない私が、兄を追い詰めていた事くらい。
知っていた。でも、気付かないふりをした。気づきたく無かった。
そう考えると、どうしても出られなかった。その時、兄が少しずつ走り始めた。
兄が行ってしまうのをただ見ていることなんて出来ずに、兄に向かって叫んだ。
「お兄様!」
初めてだす大声は、思うように届いてくれない。
「お兄様! いや、置いていかないで!
なんで……どうして………!」
違う、そうじゃない。本当に伝えたいのは、そうじゃないはずなのに。
なのに、出てくる言葉は、“置いていかないで” という言葉だけだった。
伝わらないのならば、言葉なんて意味が無いのに
届かないのならば、声なんて意味が無いのに
きっと、リゼットもひたすらにこんな思いだったのだろう。理由を知りたい、話して欲しい、頼って欲しい。いくら願っても、本当の願いに塗り潰されて、結局は伝わらないのだ。
『置いていかないで』
結局は、これだけなのだ。




