プロローグ★彡
満天の星空の中、まるで星から垂れているようなキラキラ輝く糸を見つめ、私はその糸を掴む……。
…いつからだろう、私は何度も同じ夢を見ている。靄のかかったような気持ちを抱えたまま、ボーと時計を見る。
「ヤバい! 今日はお店のレセプションの日なのに!」
急いで準備を整えながら、飼い猫セイバーのフードボウルにキャットフードを入れ、家を出る。
私は独身35歳の星乃桃菓、パティシエをしている。
2年前にフランスで行われた有名なパティシエのコンクールで日本チームとして参加し、優勝した。その際、コンクールを見に来ていた実業家に声をかけられ、念願だった自分のお店を持つことになった。
今日は1週間後にオープンするお店のレセプションの日だ。家族、友人、関係者を呼んで、これまでの感謝とお店のアピールをしなくてはいけない。
私は店に駆け込み、真っ白なコックコートに着替え、スーシェフの湊にみんなを集めてもらう。広いカフェスペースに全員集まったところで、私は朝礼を始めた。
「今日はパティスリー un bijouにとって、とても大切な日です。1週間後のオープン同様の気持ちで、お客さまに喜んでいただけるよう準備を整えていきましょう!」
「「「はい!」」」
朝礼が終わると慌ただしく全員が持ち場に戻っていく。
「パティスリー un bijou」は、カフェ併設のケーキ屋である。外観は紺と白を基調として、ケースの中には果物をふんだんに使ったケーキが並び、宝石箱をイメージしたお店になっている。ちなみに、焼きたてのフィナンシェは私の一押しだ。
レセプション開始時間が近づくにつれ、どんどん人が集まってきた。私は招待状を送っていた面々と話をしながら、滞りなくお店が回っているかに気を配っていた。
「よう! 久しぶり、元気してたか?」
突然、軽い口調で声をかけられ、振り返る。笑顔で近寄ってくる黒髪で長身の男は、フランスで修行をしていた時に知り合った武だった。
武は高校卒業してすぐ製菓学校に通い、日本の有名パティスリーで経験を積んだ後、海外で修行し、私より先に日本に戻って店を出している。有名な賞をいくつも獲り、今ではテレビや雑誌でも引っ張りだこだ。
同い年ではあるが、私は就職してから製菓学校に通っている為、彼の方がパティシエとして先輩だ。慣れないフランスで、心細かった私を支えてくれた武には本当に感謝している。
昔のことを懐かしく思いながら、隣の小柄で可愛らしい女性に目を向けると、それを察した武がサラッと紹介してくる。
「俺の奥さんになる人」
—『俺の奥さん』!! クハッ!!
頭の中で大音量でリピートされ、毒をくらった状態になる。
平静を装うが、確実に私のHPがジワジワと減っていく。
「そ、そうなんですね! おめでとうございます!」
「ありがとうございます! 素敵なお店ですね!」
武ではなく隣の女性から満面の笑みで返事が返ってくる。
そうよ、武とは何でもないんだから…気にしちゃダメよ!
気力でカバーした私は、最後に一言。
「今日は是非楽しんでいってくださいね」
と全力の笑顔で伝え、HPが完全に削られる前に、足早に立ち去った。
あっという間に時間が過ぎ、無事にレセプションが終わった。それから片づけや反省会を終え、今やっと一息付けたところだ。
「ふぅ~終わった~」
「桃菓さん、お疲れ様です。無事に終わって良かったですね!」
私が座り込むと湊が笑顔で声をかけくる。湊は私にも他のスタッフにも気を配って、まとめてくれる…この店にとっても、私にとっても必要な存在だ。それから湊と1週間後のオープンのことを話しながら、店を出た。
「帰ってきたよー、セイバー」
私が玄関先から呼ぶと、スタスタと寄ってきて足にスリスリしながら、ごはんを催促してくる。セイバーにご飯をあげながら、武の言葉が脳裏をよぎる。
そうだ…私は…!
—仕事に生きるって決めたんだ!
両手で顔をパシっと叩き、立ち上がる。
お風呂から上がり、ベッドで横になると、すぐにセイバーが寄ってくる。
「私にはセイバーがいるもんね…」
艶のある小麦色の背中をなでながら、セイバーがうちの子になった時のことを思い出す。
それはちょうど1年前、新作ケーキのアイデアに行き詰まっていた時、たまたま見た登山番組に影響を受け、登山を始めた頃だった。簡単そうな山から制覇していこうと活き込んで登ったところ、遭難してしまった。このままでは行き倒れてしまうというところをセイバーが登山道の入口まで案内してくれた。
だから、私にとってセイバーは救世主なのだ。
首輪もしておらず、私が帰る時に一緒についてきてしまい、それからセイバーはうちの子になった。ちなみに、セイバーはものすごく賢い。あまり他人にはなつかないけど、私が忘れ物をしそうになった時は、鳴いて教えてくれたり、雨が降りそうな時は洗濯物を取り込むようなしぐさをしたりする。
急に眠気に襲われた私は、セイバーのピンクの鼻をツンと触って、電気を消した。
オープン前日。
「今日も遅くなっちゃったな…」
準備が終わり、湊に施錠をお願いして、足早に帰宅する。なぜなら、3日前に逃亡したセイバーが帰ってこないのだ。1日帰ってこないことはあっても3日も帰ってこないなんて一度もなかった。
私は朝から同じマンションの子供が『商店街の近くで寝てる姿をみた』という話を聞いて、猫用の餌を持って商店街まで探しに行く。ウロウロしながら、猫が居そうなところを探してみたが、見つからず少し離れた公園まで来てしまった。
「さすがにここまでは来てないよね」
そう思い、再度商店街に向かって歩き始めると、信号を挟んだ向かい側に武の姿があった。
—直接、レセプションに来てくれたお礼と改めて結婚のお祝いが言いたい!
急いで追いかけた私は、やっと追いつき。
「武、待って!」
と声をかけた次の瞬間。
大きな衝突音と共に私の身体は動かなくなった。
「人が跳ねられたぞ!」
「救急車呼んで!」
周囲がざわめきだち、視線の先には潰れた高級猫缶が見えた。
大量の血が流れているのかどんどん体が冷たくなっていく。意識が薄れる中、私に気づいた武が何かを言っている。
ちゃんと聞き取れないけど、最後に顔が見られて良かった。
その時、どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がした。
—セイバーごめんね……。