第9話 4【晴天の霹靂】
エリスさんは困ったように笑った。
「気を落とさないでちょうだいね。アナタは確かに禁忌と呼ばれる存在だけれど、生まれてきてはいけない存在では決してないのよ。子はお母さんのお腹に宿った時から、皆平等に愛される権利を持っているの。禁忌なんてものは、後付の理由に過ぎないんだから」
「……はい」
「その時カミヤはこの世界で大きな業績を上げていたから、情状酌量っていうのかしらね。本当なら殺されてしまうはずだったアナタと海は元の世界に戻り、代わりにカミヤがこちらに残ることになった。一生をこちらで中立の立場として過ごす約束をしてね」
僕はベッドの脇にあるテーブル上の本を見つめながら深い溜息をついた。結局、僕がこちらの世界に来たのはただの偶然ではなく、必然だったのだろう。遅かれ早かれ、僕は二つの世界の間の子として「鏡の国」に来る運命だったのだ。こちらの世界で、僕が生まれるまで力になってくれた、もう一人の母親を助けるために。
自分の役割を自覚した僕は、その後、久しぶりに再会したもう一人の母親と同じ布団で眠りについた。僕が目を覚ましたのは彼女より先だった。ふかふかの寝具で目を覚ました僕は、大きな欠伸をしながら上半身を起こし、隣で眠る少女に気が付く。
「ん、んん……」
彼女は唸り声を上げて目を覚ました。
「おはよう、ミドナちゃん。よく眠れた?」
目が覚めた時、体の主導権はエリスさんではなく、ミドナちゃんに戻っている。それはエリスさんから聞いた。寝ぼけ眼を擦りながら僕の顔と自分の小さな手の平を何度か交互に見つめた彼女は首を傾げながら、
「おは、よう?」
難しい顔で返答した。
「ミドナちゃん?」
「おかしいわね……普通なら、朝はミドナが目を覚ますはずなんだけれど……どうしちゃったのかしら」
「その話し方は、エリスさんですか?」
「ああ、ヒカル、おはよう。そうなのよ……ミドナったら、起きる気配がまるでなくて……こんなこと、初めて」
エリスさんは困惑した様子で体の隅々をまさぐり、異常がないか確かめている。
「ミドナちゃんは、眠っているだけなんですよね?」
エリスさんは戸惑いながら、
「ええ、ミドナは眠ってる。それは確かなのよ」
取り乱す僕に説明してくれた。
「そうですか……」
僕はこれ以上彼女の心配ごとを増やさせまいと気丈に振る舞うことを決め、彼女に笑顔を見せた。彼女が寝巻から普段着に着替えると、一緒に朝食をとった。
「そういえばエリスさん、初対面の時は僕のこと、全く知らないって感じでしたよね」
「ああ、それはね」
エリスさんは紅茶を飲みながら答える。
「アナタが海の息子だってバレると、私の存在も露呈してしまう危険性があったからね。あの子がアナタを生んで育てた短い期間、支援をしていたのは娘の体にいた私だから。あそこで私がヒカルのことを認識してしまったら、おかしな話でしょう? この人格は、あくまでミドナ自身の賢い面として組織では認識されているんだから」
「なるほど……」
「沢山の理由が積み重なって、海の存在はこの世界では抹消されかかっていてね……それくらい、あの子のしたことはこの世界を大きく揺れ動かすことだったから。だから海のお兄さんであるカミヤもあの態度だし、彼の書いた本も、この世界では検閲を受けているの」
「でもあの人は初めて会ったとき、母さんの実名と僕との関係を声高々に言ってましたけど。それってかなりマズイことなんじゃないですか?」
「ああ、あれねぇ……私からも後で注意しておかなくっちゃ。あの場にいたのが組織の幹部クラスだけだったからよかったようなものだけれど、一般に知れたら確かに大事だもの。まあ、気持ちは分からなくはないけれど」
「そうなんですか?」
「カミヤは、周囲に妹のことを忘れてほしくないのよ。カミヤ自身が忘れないように努力することはできる。でも、世の中は違う。時代は移ろい、物事は風化する。だから、せめてこの世界にいる間、自分が生きている間は妹のことを忘れてほしくないのね。皆が忘れてしまったら、いつか自分も忘れてしまうかもしれない。カミヤはそれが怖いのよ。だからね、あの男のことをあんまり悪く思わないで欲しいのよ。あの男にとっては海と同じように、アナタも大切な人間の一人には変わりないのだから」
「……そうですね、分かりました」
エリスさんとの会話を締めくくった僕は、食器を片づけやすいようにまとめ、席を立った。
そこで、ドアをノックする音が室内に響き、僕らは音のした方へ振り向いた。
「お休みのところ失礼いたします。キャロルです」
「入りなさい」
室内に入ってきたキャロルさんは、エリスさんを見て戸惑った表情を見せた。
「エリス様、ですか?」
「ええ、そうよ。ミドナったら、眠ったまま目を覚まさないのよ。体には特に変化がないから、体調が悪い、というよりは精神的なものね」
「そうですか……アナタがそう仰るのなら、心配はいらないのでしょう。それに、精神疲労が蓄積された結果なのでしたら、今この場ではむしろ、ミドナ様には眠っていただいていた方が好都合です」
「……何かあったの?」
エリスさんは眉間にシワを寄せ、声を潜める。キャロルさんは頷き、エリスさんを真っ直ぐに見つめて言った。
「はい。先程、リルクが組織に自ら姿を現しました」
それは晴天の霹靂であり、事態が大きく動いたことを示すものだった。




