密談 その7【女王とキャロルの夜】
コンコン。
ワインレッドの絨毯を革靴で踏みしめながら、男の格好に戻ったキャロルは、施設内でも一際大きな地下一階の扉をノックした。時刻は深夜二十三時。施設内の人間が一日の仕事を終え、寝床の準備に入る頃、キャロルは人目を避けるようにこの場所へやってきた。
エリス本社の地下一階、長い廊下を幾重も曲がった先にある、特別な場所。エリス現最高指揮者、ミドナ・ニコルソンの部屋。
本来、十二歳であるミドナはこの時間には就寝していてもおかしくはないのだけれど、今日は状況が違った。彼女は自らキャロルを呼びつけた。
「入りなさい」
ミドナの声にキャロルは「失礼します」と断りの言葉を口にしながら室内へ入ると、予想に反して照明が消されていた。それでも室内が薄暗さを保っているのは、窓の外の液晶画面のおかげだった。この仕掛けは地下で活動しているエリス職員や、その他の幹部たちのメンタルに配慮して作られた。空のない場所での作業は、人の心に大きなストレスを与えるからだ。
ミドナは椅子に腰掛けながら窓の外の映像を眺めていた。キャロルは足元に注意しながら山のような書類が積んである机の前に立つ。
「……今日は少しだけ、疲れたわ」
ミドナは窓の外へ向けていた視線を椅子ごとキャロルへと移す。
「お疲れさまです。ミドナ様がダン様の後をお継ぎになられてから、わが社の業績は更に向上しており、信者も増加しております。それもこれも、ミドナ様のお力があってこそ――――」
「キャロル」
ミドナの穏やかだった表情は一変、不機嫌になる。
「ここには私とアナタ以外いないのよ。何のためにこんな時間に、人払いまで済ませて起きていると思って?」
キャロルは諦めたように言った。
「……ええ、そうですね。失礼いたしました――――エリス様」
エリスと呼ばれた少女は満足した表情を浮かべ、少しだけ不満そうに言った。
「本当だったらその敬語も取っ払って、もっとフランクにお話をしたいのだけれど、それは私のワガママね。アナタは今や組織を一つにまとめる重役を背負っているのですもの。暗殺部隊の長であり、組織の最高幹部であり、可愛い可愛い孫を育ててくれた私の息子。キャロル・M・ニコルソン」
「フルネームを呼ばれたのは久しぶりです。ここでの私は、ただのキャロルですから」
「アナタが私とダンの養子だと知ったら、きっと皆驚くでしょうね」
クククと喉を鳴らすエリスにキャロルは困ったように眉を下げた。
「やめてくださいよ……そんなことをしたら、ミドナ様の立場が危ぶまれます。そうなれば、アナタだってお困りになるのは分かっているでしょう?」
「まあ、いつの間にかそんな立派なことを言えるようになったのね。義理とはいえ、母親としては嬉しいわぁ……うふふ、どう? ここには私とアナタしかいないのだし、母上と呼んで甘えてもいいのよ? ママ、のほうがいいのかしら、それとも。お母さん?」
「エリス様」
キャロルが言葉を遮る。
「あまりからかわないでください。確かに、御恩は感じていますが……」
「お礼なら、あの人に言ってちょうだいな。私はただ見ていただけだもの。本当なら、アナタの母親を名乗るものおこがましいくらいよ。結果的にそうなっただけ。私は自分のお腹を痛めて産んだ子にすら何もしてあげられていないんですもの。私はあの子を産んですぐに力尽きてしまった。育ての親に、成り損ねたのよ」
「エリス様……」
キャロルはかける言葉が見つからず、視線を泳がせる。
「……ごめんなさいね。アナタにこんなことを言っても、困らせるだけだって分かっているのだけれど、でもあの人には、ダンには言えないことだから」
「それは、どうしてですか」
「あの人がしようとしていることを知っているでしょう? あの人は妻に会いたいという気持ち一つで私をこうして呼び戻したのよ? 孫の体を触媒にしてまで……それに飽き足らず、今度は私を完全に復活させようとしている。その為に沢山の人を犠牲にしていることだって知ってるわ。でも、止められないのよ。私はあの人の想いを嬉しいと思ってしまっているのだから。だから、私以外の誰かに、あの人の計画を止めてほしいの。私には出来ないことだから」
「だから、陽に目を付けたのですか?」
「ええ、そうよ。アナタもあの男の英雄譚は知っているでしょう?」
「あれは色彩の女神、フロマの気まぐれでは?」
キャロルは鏡の国にまつわる神話に登場する女神の名前を口にして首を傾げる。
色彩の女神、フロマ。この世界に色を与えた女神で、全能の神から寵愛を受けており、その加護と七人の天使を従え様々な世界に姿を現しては災いを鎮めて消えてゆく。彼女に見初められたものは、常人を超える力をその身に宿すだろう……と言われている。
この国に伝わる古い神話の女神の名を挙げるキャロルに、エリスは続ける。
「あの人の計画を止めてくれるのなら、なんだっていいの。私は誰かが死ぬ代わりに自分が生き返るのなら、このまま死んでいた方がよかった。こんなこと、ダンの前では言えないもの」
苦笑いを浮かべるエリスを、キャロルは黙って見つめていた。エリスは椅子から体を起こし、キャロルに自分の正面へ立つように要求。頭にハテナを浮かべながら移動したキャロルに、エリスは両手を広げた。
「ねえ、少しだけ、私を抱き上げてくれない?」
「えっ」
だっこを要求するエリスに、キャロルは動揺する。
「いいでしょう。ね、お願い」
懇願され、逃げ道がないと悟ると、キャロルは慣れた手つきで椅子からミドナの背に両手を回し、彼女を抱き上げた。
「これで満足ですか?」
「わあ、目線がいつもと全然違う! 私が生きていた頃よりもっと高い!」
「……そういうツッコみづらい発言はやめてください」
エリスは楽しそうに「ふふふ」と笑って、キャロルの首にしがみついた。
「エリス様?」
「ねえ、キャロル。あの子は、ヒカルは私を助けてくれるかしら」
不安そうに尋ねるエリスにキャロルはその小さな背を撫でながら言う。
「大丈夫ですよ。ミドナ様の直感は外れたことがないでしょう?」
「ええ、そうね。もう少し、あの子を信じてあげなきゃね……」
「エリス様?」
エリスの腕の力が少しずつ抜けていくのを感じ、キャロルは様子を尋ねる。
「……なんだかとても眠いの。こんな時間だけれど、あの子が起きるみたい。うふふ、随分夜更かしさんなんだから……キャロル、後……お願いね……」
エリスの意識は闇に飲まれ、全身の力が一気に抜けた。落とさないように体を支えたところで、今度は弱々しい声が耳元に届く。
「……キャロル?」
「おはようございます、ミドナ様。こんな時間にどうされたのですか? 朝はまだ先ですよ」
「んん、そうなの……? あれ、ミドナ、どうして抱っこされてるの……?」
「うなされていたようでしたので、失礼ながら一度起こしました。今日はエリス様に沢山体をお貸しになられて、きっと疲れていたのでしょう」
「……そうかも。今日のおばあ様、忙しそうだったし」
ミドナは親指の爪を齧りながらキャロルに体を預けた。
「明日はいよいよリルクの手がかりとなる少年と面会です。眠って疲労を回復させなければ。今日はキャロルがこのまま背中を擦ってあげますから、落ち着いたらベッドへ入りましょうね」
「……うん、そうする」
既に夢見心地のミドナの背を撫でながら、キャロルは甘えん坊の少女をそっと抱き直した。
 




