第112話 負け犬の拳は宙を舞う 後編
次の日の昼休み、僕はある部室に来ていた。
そして、彼を呼び出していた。
彼は引き戸を引くと、爽やかな顔を僕の前に見せてくれた。
「えっと、君が宮本君? 俺に何の用かな?」
僕は、彼に手紙を出した。
紙の手紙だ。
そんな物的証拠、痛々しさの塊を前面にだしたアレを読んでも、友達一人連れてこない彼の性格の良さは、更に証明されてしまった。
折り紙付きどころか、加えて菓子折りまで付けてもいいかもしれない。
「あなたが、ボクシング部の主将ですね」
「そうだよ、俺が主将の村田だ。それであの手紙はどういうことだい?」
彼は学生服のズボンのポケットから、僕の書いた手紙を取り出した。
昨日の夜したためた負け犬の手紙。
『決闘を申し込む』
そこにはでかでかとそんな文字が躍っていた。
その気品の欠片もない文字たちは間違いなく僕の字だ。
村田先輩は、僕の顔と手紙を交互を見る。
「俺は君に見覚えがないんだけど、何か恨まれるようなことをしたかな?」
彼の口調、動作からは怒りは一切感じられない。
単純な疑問。
本当の文字通り喧嘩を売っている相手に対して、大したものだ。
人間としての完成度が違う。
僕はここで恥ずかしい告白をしなくてはならない。
それはある意味では井上先輩に直接愛の告白をする以上に恥ずかしく、醜い。
村田先輩が見物人を連れてこなくて本当に良かった。
でも、連れてきていても言うことにはなっただろう。
「……只のやっかみです。僕は井上先輩の事が好きでした」
彼氏の前で口にはしないが、今でも好きだ。
これはやっかみ、嫉妬、弱さの象徴。
間違いだらけの選択肢。
バカやってる、間違ってる、いかれてる。
だけども、弱者には吐き出す場所すらないんだよ。
それをぶつけさせてもらう。
彼氏の義務だと諦めてくれ。
彼は笑わなかった。
その短い言葉で全てを察したように、僕に言葉を投げかけた。
「怜奈に告白はしたのか?」
「してません」
「なら、これは筋違いじゃないのか?」
当然、彼は交際を否定しない。
実は兄弟だとか、いとこだとかみたいなご都合展開もない。
そして、彼はあくまで正論を吐く。
知っている。
今、この場に立っている僕が一番よく知っている。
筋も、順序も、やり方も全部違うよ。
「だけど、間違っても生きてるんだから仕方ないだろ」
「?」
僕は胸を掻きむしる。
「僕は彼女が好きで、彼女を傷付けたくなんてない。でもさ、僕だって生きてるんだよ。どんなに醜くても、弱くても生きてるんだよ。ここにさぁ! ここに溜まるんだよ!」
鬱屈して、鬱積して、劣等感抱いて、毎日負けて、それでも周りに気を遣いながらも生きてるんだ。
「君は、彼女に好かれる努力をしたのかい? 身なり、清潔感、喋り方、勉学、部活、積極的に話し掛けてみたり、出来ることは一杯あっただろ」
あぁ、こいつは正しい。
正論だ。
でも、間違っている。
僕は彼が先輩だと言うことも忘れて、敬語を外す。
いや、忘れてなんかいないけど、外す。
「お前さ、ボクサーの癖に目が悪いのか? やっぱり体育会系は頭が悪いのか?」
彼はここで初めて苛立つように目を細めた。
僕は右手で自分の顔を覆う。
「見て見ろよ! これで、この顔で身なり? 清潔感? こんな方法で、今からお前を殴ろうとしている僕の性格のどこに、こんな発想しか出来ないやつのどこに惹かれる要素がある?」
右手にザラリとした肌の感触が伝わる。
洗顔したって、何度顔を洗ったって、中々消えないニキビ跡。
「お前らの、持つ者の正論なんて聞きたくないんだよ。お前らが当たり前にやってることを今更僕らがやってなんの意味があるんだ? 結局、初期の性能差出るだけだろが」
「………………」
村田先輩は沈黙している。
そこからは何も読み取れない。
「世界は広いんだよ、先輩! 知ってるか? 僕が告白しただけで泣きだす子がいるんだぜ、顔を引きつらせて、逃げ出した子もいる。次の日にはクラス中に村八分だ」
こんな世界があるって、あなたは知ってるか?
「僕はキモイけど変態じゃない。好きな子のさ、涙なんて見たくないんだよ。傷付きたくないし、傷付けたくない。だからさ、霞のようにひっそりと、自分の中だけで留めてんだよ」
これをまだ僕の自己が可愛いだけの奴だと思われたなら、そいつとは、そんな恵まれたやつとは一生分かり合えない。
僕は壁にかかってるグローブを指差す。
当然と言えば当然だが、このボクシング部の部室の中央にはボクシングのリングが設置されている。
「つけろよ、先輩。そして、二人でリングに上がろうぜ」
彼はぴくりと頬の筋肉を痙攣させた。
「ボクサーが素人と拳を交えるわけがないだろ」
あれだけ言われて、まだそんな正論が言えるなんて大した奴だ。
「安心してよ。これはボクシングじゃない、ゴングなし、カウントも、スリップもダウンもない、ホクシン具って僕の考えた新種目だ。互いに素人だ。何も問題ないだろ?」
僕は詭弁を用意した。
そこに乗っかってくれるかは彼次第。
「……一つ聞きたい」
「なんでもどうぞ」
「こんなことをして、君の心は晴れるのか?」
「生憎生まれた時から天候最悪なんで、晴れるかどうかはわからない。経験したことがないものはわからないよ」
そして、二つ目を聞いた。
「意味は?」
「ない。強いて言うなら、けじめをつけたい」
三つ目。
「こんなやり方で?」
「こんなやり方しか知らない」
僕は適当なグローブをテーピングもせずにはめる。
リングに上靴のまま上がる。
彼は短く息を吐き、自分のグローブを手に取った。
「一発で終わらせる」
「こっちのセリフだ」
勝ったところで得るものはない。
井上先輩は喜びはしないだろう。
寧ろ僕のことを嫌いになるだろう。
当然、負ける。ホクシン具だろうと、ボクシングだろうと、ボクサーに殴り合いで勝てるはずがない。
これは必敗。
必ず負ける勝負。
でも、一回ぐらい戦わないと、暴れないと、この胸の靄がいつまでもかかったままだ。
「喋るなよ_」
その言葉が耳に届く前に、僕は後方に転がっていた。
風切り音だけが、その場に残り、僕の腹部に激しい痛みが襲う。
吐き気と、ぐるぐるちかちかと眩暈がする。
一瞬、腹がめり込んで背中とくっついたかと思った。
だるま落としのだるまの気分を味わった。
「_舌を噛むぞ」
僕は早くも涙目で、上を見上げる。
見上げるには、いつものことだ、慣れている。
「もう立てないだろう。終わりだ。先に帰る」
そう、笑えることにもう立てない。
ここで僕が主人公ならカッコよく立ち上がって意地を見せるシーンなんだろうけど、ボクサーの拳は根性で起き上がれるほど甘くない。
「「「立てよ!」」」
僕の耳には、熱を帯びた聞き慣れた声が入って来た。
僕が僅かに顔を動かし、部室の入り口を見ると、上田、池山、伊藤の三人。
「なんで?」
「昼休みに急に用事が出来たとか言い出すから、まさかと思ってね」
「このままだと、負け犬ですらないぞ」
「立つんだ! ジョー‼」
ジョーでも力石でもねーよ。
そう、このままじゃ負け犬にもなれない。
まだ、戦えてもない。
拳すら交えてない。
負け犬は、戦うから負け犬なんだ。
僕は慣れないグローブを立ち上がる為に地面につける。
しかし、全く力が入らない。
「「「立てー‼」」」
立ちたい、捻じれてても、歪んでいても、曲がってても、好きな人を傷付けない為に、でも自分が満足するために、こんな変な戦いを選んだことだけは、誇りに思いたい。
「ジョー‼」
僕は叫ぶ、傷む腹に力を込めて叫ぶ。
そこには、確かな執念と意地が内包されている。
体が浮く。
立った! 立てたよ!
「……それは何だ?」
「……膝立ちです」
上半身だけでも起き上がれたことを褒めて欲しい。
僕は手を振った。
そして、テーピングもしていないその手にはめられたグローブは宙を舞う。
そして、そのグローブは村田先輩の頭部にこつんと可愛い音を立てて当たった。
もはや、避ける気すらなかったようだ。
次の一撃を僕は当然避けきれず、初めて顔に水を掛けられて目を覚ました。
そこには予想通りのいつも見上げる天井があった。
「……あぁ、やっぱり」
知ってた結果。
分かりきってた結論。
生き辛い世の中だ。
基本は自分と相手の為に逃げて生きなきゃいけない。
戦っても必敗、そこにあるのは敗北と屈辱だけ。
誰にだって得手不得手があって、どの分野だって普通はみんな不得手には近付かないだろう。
誰だって、負けたくない傷付きたくない。
でも、恋愛と言う面倒なジャンルは本当に面倒なことに心がある限り、避けて通ることは難しい。
今日も今日とて僕は傷付く、敗北する。
でも、戦うことで僕は少しだけ胸の靄が晴れた。




