第80話 私の記憶と未来
大学四年の愛子は、就活スーツ姿で病院に駆け込んだ。
エレベーターを待つにも貧乏ゆすりをし、目的の階につくと、看護師に詰め寄り病室の番号を聞く。
「ヒロくん!」
愛子はここが病院だと言うのも忘れて、大きな声をあげ、病室に入っていった。
そこにいたのは大学で二つ上だった、恋人の裕紀。
彼は、愛子の声に反応し、顔を合わせる。
「……誰?」
愛子は言葉の意味を処理しきれなかった。
病室には愛子の前に先客がいた。
愛子も何度か会ったことのある初老のその男に、愛子は縋る様な目で説明を求めた。
「記憶喪失?」
初老の男の名前は田嶋。
田嶋は愛子の恋人である裕紀が育った施設で園長をしている。
今回の事で親代わりとして連絡が来て駆けつけたようだ。
田嶋は、顔のしわを深くし、愛子に説明を続ける。
「そう、バイクに乗っていた裕紀が居眠り運転していたトラックにはねられた時、頭を強く打ったんだ。それが原因ではないかと専門家の先生たちもおっしゃっている」
「それはいつ治るんですか?」
「医師の先生が言うには、一日で記憶が戻った症例もあれば、一週間、一ヶ月、一年とまちまちだ。最大で二十年なんてのもある……そして、戻らなかった症例も多い」
愛子は息を呑む。
田嶋は一呼吸置くと、悲痛な面持ちで言葉を詰まらせながら、更に話を続ける。
「なんで何だろうな、なんで裕紀なんだよ。あいつな轢かれた際に脊髄を損傷しているんだって。胸椎の七番って言っても分かりにくいか……はっきり言ってこれからの裕紀が歩けるようになることはないんだそうだ」
何故、ヒロくんが、何故、私たちが?
愛子はそう思わずにはいられなかった。
それから田嶋は医師から聞いたことを細かく説明をしていくが、愛子の耳には半分も入ってこなかった。
裕紀は幼い頃に両親に捨てられ、施設で育った。
しかし、その境遇に決して腐ることはなく、奨学金を借り、しっかりと大学まで卒業した。
そこで出会ったサークルで知り合った愛子と恋人になり、愛子が卒業して就職したら同棲の約束までしていた。
もちろん、その後のことまで考えていた。
裕紀の記憶喪失は日常生活に支障をきたすタイプのものではなかったが、ある意味では大きく支障をきたした。
記憶を失った裕紀にとって愛子はどれだけ口で説明されても赤の他人なのだ。
毎日、世話を焼きに来る彼女を恐れ、嫌った。
「毎日は来なくていいって言いましたよね」
「でも、洗濯物とか溜まっちゃうでしょ?」
「毎日でなくてもいいでしょ。それに橘さん、大学四年生なんでしょ? 就活しなくていいの?」
「大丈夫だよ! そっちもしっかりやってるから!」
病室でどこか余所余所しい敬語を使う裕紀に寂しさを覚えながらも明るく努める愛子。
しかし、毎日の就活に悪戦苦闘しながら、病人の世話までして、決して大丈夫とは言い難かった。
「もう、来ないでくれ。歩けない、何も覚えてない、そんな俺を笑いに来たんだろ!」
日に日に語彙の荒くなっていく裕紀。
今の現状を考えれば、精神が不安定になるのも仕方ないかと、愛子は笑顔を忘れずに耐えた。
愛子は帰りがけに病院の廊下で田嶋を見かけた。
田嶋も愛子に気が付き手を挙げて近付いてくる。
「愛子ちゃん、お疲れ様。大変だろ? 今、裕紀混乱してるからね。俺が言っても門前払いになることもしょっちゅうだよ」
「はい、もう来るなって」
「……今はそっとしておいてあげたらどうかな? お互いの為にもそれが良いかもしれないよ。最低限のことは看護師さんや俺がやっておくよ」
「……はい、でも」
「……君は強い子だね」
田嶋は頬を掻きながら苦笑し、その場を後にした。
「また来たのか! やめてくれよ! 気が滅入るんだよ! 知らない人間が毎日来るプレッシャーが分かるか? リハビリや記憶が戻るのを急かされてるみたいなんだよ!」
「ごっ、ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど」
その言葉に愛子も気を遣い、病院に来る頻度を下げていく。
でも、愛子は決して見舞いに来ることをやめはしなかった。
「また来たのか? いい加減分かれよ。お前の事が好きだったのは、記憶を失う前の俺なんだよ。はっきり言って、今の俺はお前が気味が悪くて仕方ない。もう、来ないでくれ」
「……嫌だ」
裕紀の事故以来始めて愛子の目から涙が溢れた。
静かな頬を伝う涙だ。
「……別れてくれ。俺はあなたの好きだった男とはもう違うんだ」
愛子はその言葉には、答えず逃げるように病室を去った。
そして、入れ違いになるように担当医の男がぼさぼさの頭を掻きながら裕紀の病室に入って来た。
「診察でーす。調子どう?」
裕紀は担当医の方を見ずに、窓の外の夕暮れ空を眺める。
その目には愛子と同じ頬をゆっくりと伝う涙が流れていた。
「……プロポーズ前で良かった」
裕紀は自分の足を撫でる。
しかし、もうその足は触れられた感覚はない。
担当医が手に持っていた裕紀の症状の書かれた電子カルテには足の状態についてしか記載されてなかった。




