第37話 [陸8]その時間はまるで
俺の大好きな先輩は、俺の尊敬する先輩と付き合っている。
何も問題はない。
むしろ最高の結果だろう。
俺では彼女の隣にいるのは力不足。
あの人になら、大好きな先輩を任せられる。
あぁ、そう思っていれば楽だな。
俺たち陸上部は顧問の急な思い付きによりゴールデンウイークを使い強化合宿に来ていた。
他所の陸上部と合同で三泊四日の本格的なものだ。
合宿効果か、みんないつもより気合が入ってる気がする。
三島先輩もいつもより高いレベルで練習が出来て嬉しそうだ。
恐らく顧問がこの合宿を思いついたのは三島先輩を見てだろう。
県内で見ても中堅どころのうちの陸上部が、こんな時期に合宿までやるのは珍しい。
だが、何を思ってうちの陸上部に来たのか知らないが三島先輩は全国区でも通用する選手だ。
顧問が気合が入って合宿を提案してきても変な話ではない。
寡黙で自分に厳しく、そしてそれに伴った実力者。
そう、それが俺の大好きな先輩、三島先輩だ。
そして、この合宿に足立先輩が来ていた。
足立先輩は俺の二個上の陸上部OB、大学がゴールデンウイークに入ったので慣れない合宿で人手が足りない陸上部の手伝いに来てくれた。
誰に頼まれるでもなく、人の為に動ける優しい俺の尊敬する先輩、それが足立先輩だ。
三島先輩の彼氏である。
どうやら、三島先輩は足立先輩が手伝いに来ることを知らなかったらしい。
最初は目を丸くして驚いていたが、しばらくすると嬉しそうに談笑していた。
他の部員たちからしたら微笑ましい光景なのだが、俺の胸中としては複雑だ。灰色の雲が空を覆い今にも雨が降り出しそうな情景がしっくりくる。
彼女の隣に俺はいない。
何度その景色を夢想しただろう。
でも、考えただけだ。
俺は動かなかった。
別に動いていたら手に入ったとは限らない。
自分の気持ちも分からないんだ。
人の気持ちなんてわかるはずもない。
もし、俺が彼女に告白していたらどうなっていただろう?
振られたかな?
振られた後はどうなるんだろう?
今までどおり?
変わってしまう?
怖いな。
俺は合宿初日はろくに練習に集中できなかった。
二日目の朝、三島先輩と並んで外周をしていた。
珍しく三島先輩から俺に話し掛けてくれた。
「……ねぇ、太田。心ここにあらずじゃない?」
「すいません」
「……認めるんだ。そんなんじゃ怪我するよ」
「すいません」
「…………何かあるなら話してよ」
話せるわけがない。
胸の奥にあるこの思いは表に出すわけにはいかない。
フリだろ?
頭の中で、何かが、誰かがそう囁いた。
俺は気にしてない、これでいい、潔く身を引こう。
ってフリだろ?
頭の中でさえずる何かを、誰かを無視し足を進める。
「……太田?」
三島先輩は、そんな俺を訝しむように覗き込む。
ほら、まただ。
何だよ! 誰だよ!
俺は額に浮かぶ汗を払うふりをして頭を振る。
今、先輩が自分の異変に気が付いてもらって嬉しかっただろ?
違う! そんなことはない!
胸の中にある思いを表に出さない?
はっ! 笑わせるなよ。わざとらしく漏れ出してて、よく言うぜ。
うるさい! うるさい! うるさい!
誰なんだよ! 何なんだよ!
お前だよ。
俺はお前。お前の頭の中に他に誰がいるんだよ?
……分かってたよ。でも、
お得意の気が付かないフリか?
…………。
そう、お前はそういう人間だ。
今の関係を壊したくない。
でも、自分の好意には気が付いて欲しい。
それでもって、告白する勇気はない。
先輩には恋人がいるから、自分は引こう……という表向きな決意とは裏腹に、まだどこかで気が付いて欲しいと思ってるだろ?
…………。
嫌になるだろ?
でも、それがお前で俺だ。
…………そうだな。
俺は顔を上げ、三島先輩を置き去るスピードへとペースアップした。
「太田!」
三島先輩は珍しく声を荒げる。
追わないで下さい。
今、俺は酷い顔をしてます。
あなた横を走ってられる顔じゃないんです。
俺はがむしゃらに走った。
無茶苦茶なフォームだ。
呼吸が荒い。
胸が苦しい。
俺はあっという間に身体中に酸素が行き渡らなくなると、外周コースの脇の草むらに倒れこんだ。
もう、立てん。
「……あんた、何がしたいのよ」
そして、当然のように俺の全力についてきて、倒れこむ俺を見下ろす三島先輩がいる。
マジで半端ない。
憧れるよ。惚れ惚れするよ。
息切れし馬鹿みたいに口を開け、大量の汗で顔を覆った今なら多少は醜い顔を隠せているだろうか?
「っ、はーっ、はっ、はっ、すいま……せん。なんだか……全力で走りたい気分でして」
呆れられるかとも思ったが、三島先輩は俺の横に体育座りで座り込んだ。
「……あんた、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、ここまでだったとはね」
いや、やっぱり呆れられてるようだ。
「……で? 何があったの?」
今度こそ完全に表情を殺せ。
一切迷ってるそぶりも悩んでるそぶりも見せるな。
俺は三島先輩の言葉に毅然と即答する。
「何でもないです」
大丈夫。
俺はもう大丈夫です。
今までたくさんの楽しい思い出をありがとうございました。
「……そっか」
三島先輩は立ち上がり、俺を一瞥もせず走り去っていった。
これでよかった。
陽も暮れて、俺たち陸上部は食事を終え、各々離れにある大浴場で汗を流しに向かっていた。
俺は一足先に風呂から上がると、とぼとぼと一人歩いて部屋に戻っていた。
飯は味がしなかった。
大きな風呂に入っても体の中に溜まった淀みまでは取れない。
いい加減、自分の女々しさが嫌になる。
そして、神様はそんな俺に罰を与える。
目の前から歩いてくるのは三島先輩。
俺は自分に平常心と言い聞かせる。
朝の気まずさなど忘れてしまえ。
何事もなかったように振る舞え。
俺は手を上げて、三島先輩に声を掛ける。
「三島先輩、今からお風呂ですか?」
三島先輩は俺に気が付くと、顔を伏せ気まずそうに答える。
「……ううん。タオルをグラウンドの方で落としちゃったみたい」
明るくだ。極めて明るくだ。
「え? 大変ですね。どの辺に落としたとか分かってるんですか?」
「……多分、朝走ってたところ」
あっ、失敗した。
「そうですか。気を付けてくださいね」
「……うん」
そう小さく一言だけ言い放って三島先輩は大浴場とは反対方向に小走りで走っていった。
何か言いたそうだったか?
俺は三島先輩と別れた後、少しして後ろから肩を組まれた。
「よっ! 調子はどうだ?」
その爽やかなスキンシップを行ってきたのは、足立先輩だった。
……また、面倒なタイミングだな。
「別にぼちぼちですよ」
「……そっか、それならいいんだ。なんだか早紀が心配してたぞ」
……動揺するな。彼女なんだから名前呼びぐらいするだろう。
「すいません、なんだか心配かけちゃったみたいですね」
俺はこれ以上同じ空間にいるのは辛いと思い、その場を立ち去ろうとする。
「なぁ、辛かったら誰かに話してもいいんだぞ? それだけで楽になるぞ。俺でも早紀でも遠慮するなよ」
あぁ、あんた本当にいい人だな。
あんたがいい人な分俺は辛くなるんだ。
「ありがとうございます」
平常心だろ。悟られるなよ。
「あっ、それと早紀見なかったか?」
俺は拳に少し力が入るのを感じた。
「さっき、大浴場の方へ行ってるの見ましたよ」
ごめんなさい。
足立先輩は「そうか風呂だったか」と納得して自分の部屋のある本館の方へ帰っていった。
「ごめんなさい」
俺は誰にも聞こえない声で自分の過ちを謝った。
俺は醜く卑怯で姑息な自己中心的な人間でした。
振られる前提の告白に意味なんてあると思うか?
俺はないと思ってるよ。
少女漫画の噛ませ脇役が主人公というベストパートナーがいる男に告白するシーンなんて痛々しくって見てられねーよ。
自己中心的なんだよ。
区切り? けじめ? 決着?
自分の中でだけ勝手に決着つけろよ。
お前の告白振る方の気持ちになってみろよ!
どれだけ辛いと思ってるんだ?
お前のような自己中心的な奴が惚れるぐらいだ。優しくって相手の事を思いやれて素敵な人なんだろ?
そんな人の迷惑とか考えないのかよ。
自分がスッキリすることばっかり考えてるんじゃねーよ。
本当に好きなら、本当に愛してるなら、本当に……本当に。
「……太田? どうしたのそんなに汗かいて」
三島先輩は大きな目を見開いて、驚いた表情を見せる。
俺は三島先輩の元へ走っていた。
矛盾だらけだ。
今日の俺の行動全てパーじゃん。
俺の口は馬鹿みたいに軽々と動いた。
「タオル見つかりました?」
三島先輩の長いまつ毛がゆっくりと伏せられる。
「……まだだよ」
俺は草むらをかき分けていた先輩の横にしゃがんで一緒にかき分ける。
「一緒に探します」
「……ありがと」
三島先輩は風呂上がりの濡れた髪を耳にかけ、小さくお礼を言った。
「中々、見つかりませんね」
「……そうだね」
見つかりませんね、じゃねーよ。
早く言えよ。
自己中さらけ出して、告白するんだよ。
早く。早く。早く。
俺は全身にまで侵食している逃げ腰に嫌気を刺していると、三島先輩から話しかけてきた。
「……私ね。これでも太田には特別目を掛けてるんだよ」
「ははっ、出来の悪い後輩ですからね」
それでも彼女の口から聞こえる特別と言う言葉は嬉しかった。
「……そうだよ。手がかかって仕方ないよ」
「もー、否定してくださいよ」
俺の乾いた笑いが空虚に響いた。
その渇きを潤すような涙が彼女の宝石のような綺麗な瞳から零れたんだ。
「えっ?」
俺は意味が分からなかった。
口から一音を漏らすのが精一杯だった。
「……ごめんね、ごめんね」
彼女は謝った。そして、そうしている間にも街灯にキラキラと反射した涙が地面へと零れ地べたを潤す。
なんでだよ。
「なんで三島先輩が謝るんすか」
謝るのはさ、俺だろ。
三島先輩は涙を拭うことをしない。
そんな余裕もないのだろう。
彼女の言葉が嗚咽と交じりこだます。
「……私ね。太田が一番目を掛けた後輩なの! 一番よく見てた後輩! だから、だから、薄々分かってた。そして、今まで我慢してたのに今日探るようなことしちゃった! 本当にごめんなさい!」
彼女は頭を下げる。
その間も顔は見えないが、枯れそうな勢いで地べたに雫が落ちる。
あぁ、俺ってつくづくゴミクズだ。
何やってんだ。
好きな人苦しめてんじゃん。
世界一ダサい告白をしよう。
俺の事なんてすぐにでも忘れたくなるような告白をしよう。
ごめんね先輩。告白させてください。
「俺、三島先輩の顔だけが好みです。付き合って下さい」
長い本当に長い沈黙が流れた。
逃げ出したくって仕方なかった。
でも、それは出来ない。
告白は返事を聞くまで終わらないんだ。
「―ぷっ」
三島先輩の口から音が漏れた。
顔を上げた彼女は泣きながら笑っていた。
「……最低な後輩だね。勿論、お断り」
俺はその言葉を聞いた時、肩がフッと軽くなるのを感じた。
そして、俺の目から何かが零れた。
「……グスッ、何泣いてるんの」
「……先輩だって」
俺たちは互いに泣いたまま肩を寄せた。
その距離は先輩と後輩ではなく……まるで。
「……十秒間だけ」
その十秒は俺の人生で最も長く短い十秒だった。
何を言っているのか、わからないだろ。
絶対に俺にしかわからない。
その儚い十秒が終わると、まるで突然目の前に現れたように探していたタオルが見つかった。
俺はそれを拾い上げて三島先輩に手渡した。
「使います?」
それは涙でぐちゃぐちゃになった先輩には今必要なものに思えた。
しかし、先輩は涙を袖で拭った。
「……それ汚くなってたからあげるよ」
「酷いな、俺はゴミ箱ですか」
わかっている。
三島早紀の最後の優しさだ。
でも、俺はもう本当に大丈夫です。
「ゴミ箱にされたら堪りません。返しますよ」
あんな綺麗なタオルがあったらいつまでたっても洗えないよ。
十秒間だけ二人を許してあげて欲しいです。




