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第243話 [演15]人生の得点基準がわからない

「……セリカ、お前は先に帰れ」

「……いやだ」


 僕の言葉に頷く筈がない。

 それは分かりきっている。それでも僕は言葉を尽くした。

 時間がない。時計の針が揺れるほどに人は集まり、事態は悪化していく。収集を付けることが出来るのはこの瞬間の僕だけだ。


「よく聞け、お前のせいじゃない」

「私のせいだ……私が道路に飛び出そうとしたから」


 今の彼女に聞く耳はついていない。

 彼女の行いは限りなく黒寄りのグレー。だが、今なら事と次第によっては取り戻せるのだ。運だけが頼りだが、その運を僕の方へ手繰り寄せることが叶ったのならば、僕は彼女の罪を一つ消すことが出来る。


「いいか、事故現場は僕が見てくる。お前は帰れ」

「いやだ!」


 次第に自分の動作に硬さが消えているのが怖かった。

 僕はセリカの頬を張った。


「……聞けよ」


 低く、どすの効いた声。こんな声を出す機能が僕の声帯に備わっていたことに自分が一番驚いている。呆けたセリカに僕はもう一度、目を覚まさせるように手の平を振った。


「……返事は?」

「…………はい」


 セリカの口からは蛇口に残った一滴の水のような音が零れた。

 僕は彼女の肩を押し、駅の方へ向かわせた。

 そして、僕は彼女に背を向ける。現場に向かわなくてはいけない。

 今からが僕の勝負所、火事場、人生の分岐点。

 だから、僕は自分の両頬を右手で握り潰すように強く握った。


 にやけるな。沈まれ。


 高揚していた。

 浮足が沈まない。


 意味は分からず、理解は不能。

 それでも今しがた僕とセリカは高揚していた。口から零れる言葉には色と温度が籠もっていた。互いに、互いだけがその温度と色を認知出来て、二人だけの空間が生まれていた。それは高校時代の僕らがついぞ完成させることの出来なかった空間だ。


 あれが、あれが正解だと言うのか?


 僕と彼女の、セリカと言う人間に対する接し方の最高得点なのか?


 ならば、安達を否定した僕はどうなる?

 正解を正論で壊しただけではないのか?


 崩れる頭を振って僕は焦点を現実に戻す。

 そこに思考を割いている時間はない。

 古い酒屋の現場は赤黒い血を咲かせていた。

 数人の野次馬の静止を振り払い、そこへ足を踏み入れる。

 胃の中から一週間分の食事が全てこみ上げてくるような感覚を覚えた。

 老人は男か女かも曖昧なほど顔を血化粧で染め上げられていた。経年劣化なのかは知らないが、車のエアバックが上手く機能していない。フロントガラスには老人の頭を打ち付けたであろう蜘蛛の巣状のひび割れが見える。

 血の赤と車の赤ははっきりと分かるほど、別種の色だった。

 僕は酒屋の店内へ「誰かいないのか」と声を掛ける。

 複数回の呼びかけに室内は静謐を保ったままだ。配達にでも出かけているのだろうか。となると、怪我人は老人だけと言うことに、


 足元でぐちゃりとこびりつくような粘性の水気を感じた。


 あぁ、お前の事を忘れていたわけじゃない。

 だけれど、この世界は冷たいんだ。

 お前たちは僕らの世界じゃ被害者にカウントされない。ただの物損、物扱いだ。

 白い毛はもう僅かにしか見当たらない。

 それどころか、もう原形がない。

 タイヤの下に巻き込まれたのか、言葉で表現するのを躊躇われるほどの変質だった。


「きっとセリカ先輩は悲しむだろうな」


 僕は失ってまだ時間も経っていないのに、懐かしく感じる先輩呼びに身体の力が抜けているのだと感じた。


 僕が第一目撃者。

 酒屋側は誰もいなかった。

 老人はいつ死んでもおかしくない重症。いや、下手をすればもうこれは。


 運は全て僕の予測しうる範囲以上の成果をくれた。

 僕の身は悪魔じみた発想に囚われ、いつ崩壊が訪れてもおかしくはない。それでも最善を、最低最悪の最善を探った。

 指先にはいつ触れたのかも分からない血液がこびりついていた。

 これが僕の血に変わる日もそう遠くはないのかもしれない。


 遠くでサイレンの音がした。

 僕自身へ大丈夫かと声を掛ける外野の声がはっきりと聞こえ始めた。


 切り替え。

 幕はおり、第二部が始まる。

 次の役に切り替えなくてはならない。

 なにせ独り舞台だ。


 僕は数人の野次馬を呼んで、老人を助けようと声をあげた。

 それに応じる人間が現れ、下手に動かすなと止める人間も現れる。必死に僕は救出する側に回った。声を張り、善人面を張り付けた。

 この場でもっとも尊い存在を演じた。


 その実、本当は動かさない方が好転するのではないかとも分かっている。だが、僕は悪意ある善行を積む。自身に都合の良いシナリオへ一歩でも駒を進める為に。


 老人は久米田久子という八十二歳の女性だった。

 夫に先立たれた一人暮らしの女性で、子供に何度も車の運転を止めろとやかましく注意されていたらしい。

 彼女は病院に搬送後二時間で亡くなった。

 僕の事情聴取は恐ろしいほどあっさり終わった。

 彼女の人生は毎日繰り返される地方ニュースの一コマに終わった。


 セリカと事件。

 どちらをも僕が掌握したのだ。

 恐ろしいほどに舞台は僕の思うがままに動いた。


 皮肉めいている。

 その場で視線が一つもない事を確認して道路を歩きながら僕は笑った。


 今、僕は人生でもっとも役者をしていた。




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