第176話 [週5]君が前に出ると
資料室でコーヒーをこぼした。
資料室でこぼしたのだから、当然資料はびちょびちょだ。
これはまずいと直感が告げた。
怒られる。
美咲ちゃんに怒られる。
先輩の私が後輩の美咲ちゃんに怒られるのだ。
私は背後の入り口の扉が開かないか気を配った。美咲ちゃんは隣の第一実験室にいる。
大丈夫、隠蔽すればいいの。幸い、コーヒーをこぼしたのは資料の最後のページとその下にあった売店で買って来たであろうどこにでもありそうな雑誌。
大丈夫、私は優秀なはず。
最後の一ページはデータ化する前の古いもの(というより今まさにスキャンして取り込もうとしていた)だったが、概要は覚えている。
最後以外は取り込んで、あとは擦れた文字と私の記憶を頼りに合成すればいい。
開きかけの雑誌と文字が重なって混じっているが何とかなるでしょ。
私はその日一番の気合を入れた。
第一実験室に入ると、美咲ちゃんが申し訳なさそうに私に声を掛けた。
「一週間先輩すいませんでした。あんな雑用みたいなこと頼んじゃって」
「いいのよ、手が離せなかったみたいだし仕方ないわ」
「じゃあ、こっちでチェックしときますね」
元々、美咲ちゃんのやりかけの仕事の残りを私が引き受けた。
しかし、それとこれは別で美咲ちゃんは私のミスを許さないだろう。
美咲ちゃんは怒ると正論と食べきれないほどの手料理を振る舞ってくる。
「一週間先輩」
「何、美咲ちゃん」
彼女が顕微鏡を覗き込みながら、間延びした声で後ろでコーヒーを飲む私に尋ねた。
「一番幸せになるのってどっちだと思います?」
「どっち?」
「自分が好きな人は自分に対して恋愛的な好意はないとします。その人には別の恋愛的に好きな人がいるとします。でも、好きな人の好きな人は別に好きな人を好きではありません」
「ごめんんさい。なんだか、こんがらがって来たわ」
「つまり全部一方通行なんです。AはBが好き、だけどBはCが好き、Cは別にBが好きじゃない。この時、誰と誰がくっつくのが一番幸せですかね? 自分がAだとしたらどうします?」
なんとなく言いたいことが分かった。
自分に矢印が向いていなくても諦めずアタックするか、諦めて相手の幸せを願うかだ。
「難しいわ。BさんだってCさんとくっつけたらそれで幸せとは限らないもの。でも、私がAだったら、Bさんと立場は同じなのだし、気持ちはわかるわ。幸せってのが誰にとっての幸せなのかにもよるんじゃない?」
「この場合は最大公約数とします」
自身の恋人の顔が頭に浮かんだ。
彼が他の人を好きだったら、私はどうするか。
「やっぱり、CさんとBさんが幸せになるよう祈るしかないんじゃない? やはりBさんにAへの恋愛感情がない限り難しいもの」
美咲ちゃんは顕微鏡から顔を上げて、ちっちっちと人差し指を振る。
「一週間先輩のやり方だと、幸せになれる人数が一人、それも不確かで結果が他力本願じゃないですか」
「駄目なの?」
正直、自分でも腑に落ちない答えだったので回答があるなら聞いてみたい。
「答えはAとBが付き合えば確実に二人幸せになれます」
私は首を傾げた。
「BさんはAに恋愛感情がないんじゃないの?」
美咲ちゃんはいつもより調子に乗った笑みを浮かべる。
「冷静に考えてください。AからBもBからCも形は同じなんです。なら、自分が引くことはないんです。なら、他人に委ねるより自分を信じましょう。絶対にBを幸せにすると覚悟をもって付き合えばいいのです。実際のケースだとつい自分が身を引くことが正しいみたいな考えになっちゃうことが多いらしいですが、それが駄目なんです」
「駄目なの? 美しい心だと思うのだけれど」
「始まる前の恋愛に美しさなどいらないのです」
今日の美咲ちゃんはいつになく饒舌だ。
何か悪い物でも読んだのかしら。
でも、大半がよくわからない話だったけど、ようは自分も大切にしなさいみたいな話だろうか。
私が彼と交際する前、私と彼は両想いだっただろうか?
告白したのは私だ。
でも、その時の彼はひどく驚いた顔をしていたように思える。
まるで地震と雷と火事が同時に来たみたいな顔だった。
「いいですか、だからこの資料にも書いてあるみたいにですね。Aにはもっと積極性が……ん? この資料最後の方なんか変ですね。なんか、最近読んだことあるような」
「……気のせいよ」
あれは美咲ちゃんの雑誌だったのか。
恋愛指南みたいなページと資料の最後が文字が混じっていて上手く取捨出来ていなかったみたいだ。
この後、当然ばれて怒られた。
研究所内に共有する前で本当に良かった。
どんな思いも隠すのはあまりよろしくないらしい。




