迎え入れられるという事
ずっとずっと、そうだったというのを、わたくしは覚えている。
お姉様の周りには人が集まるのに、わたくしの周りには誰も来てくれない。
呼び鈴を鳴らしても、滅多な事では来てくれない。
さみしいからと呼ぶ呼び鈴に、答えてもらった事はない。
毎日毎日、決まった時間に決まった事が取り決められて、わたくしの一日が回っていく。
食事の時間、お風呂の時間、家庭教師の時間。
わたくしの時間はおおよそ、それらの三つだった。
食事はいつも同じ味がしていて、甘い花の匂いのする食事。
食べてすぐは、いつも体がだるくなって眠くなっていく。
「眠いわ」
と言えば、
「お着換えをして眠りましょう」
と言われて、真っ黒な衣装に着替えて眠る。
目が覚めると、侍女たちが顔を見合わせるのは、わたくしがいつも、長く眠ってしまうから。
眠る時間の長さは、一定じゃない。
起きたら
「汗をかいています」
と、お風呂に入れられて、それから家庭教師の方がやってくる。
わたくしに質問を許さない、一方的に喋るだけの方。
そのほとんどが、いつも同じ内容なのは、わたくしの物覚えがとても悪いからでしょうね。
それと、
「姫君はなんと愚かなのだろう」
と面と向かって口に出す。
「これほど愚かだと、クリスティアーナ姫が一層賢く見えてきてしまう」
と言う。
わたくしは添え物。
お姉様の見事さを強調する、そんな役割。
お姉様は会うといつも優しくて、わたくしは良く分からない思いを抱いてしまう。
足が悪いのを気遣ってくれるお姉様。
わたくしの体が病気がちで、眠ってばかりだから、お茶会のお茶もあなたは、専用の物なのと、自分と同じものを飲めないわたくしを、気遣ってくれるお姉様。
聞けば、食事の後に眠っていると、遊びに行かないかと誘ってくださっている事もあるそうだ。
なんでも恵まれていて、何でもそろっているお姉様。
誰にでも愛されるお姉様。
誰だってお姉様が一番。すべてはお姉様を中心に回っている。
取り残されるわたくしは、滑稽でしょうね。
だからわたくしは、我儘を繰り返す。
それでも我儘の、三分の一も叶えてもらった事はないのだ。
侍女も召使も誰も誰も、言葉や口先だけで
「はいわかりました」
と言って、その後、
「姫様は眠ってしまったから」
とか、
「お勉強の時間になったから」
とか、言い訳をして先延ばしにする。
「夜会のドレスを、新調したい、そろそろ丈が足りなくなったから」
と言ったわたくしが、自分の願うドレスのデザインを伝えるために、仕立て屋を呼ぶように言ったのに、それもまた、
「姫様は眠ってしまったから、帰ってしまわれた」
と言われた。
「仕立て屋が、姫様にぴったりのドレスを作ってくれますよ」
と侍女たちは言った。
そうだろうか、と少し期待したけれど。
ドレスは趣味と頭の中身を疑うデザインで、でも侍女たちは誰も気にしない。
これが流行かしら、と。
十五歳の記念するべき誕生日の夜会、そこで見た人々の誰も、わたくしに似たデザイン何て着てなかった。流行とも、わたくしに似合うとも、言えない物。
陰口はいやおうなく聞こえてきた。
滑稽すぎてみじめすぎて、わたくしはお姉様に意地悪をしたくなる。
お手紙なんてものを、わたくしは誰からももらった事が無いから、とうとうこの前、手紙という物はどんなものなのだろうと、好奇心に負けて侍女に、お姉様の手紙を一通、回すように命じてしまった。
出来ないというから、一通くらい、と退職をにおわせて、追いやった。
まさかそこで、お姉様も読んでいない、封蝋が切られていないお手紙を侍女が持ってくるとは思わなかったけれど。
後から侍女たちが、わたくしの枕元で、わたくしの横暴を非難している声でそれを知った。
わたくしは、手紙を持ってきてと言ったけれど、お姉様が読んだ後の、古い古い、捨ててもいいお手紙でよかったのに。
そんな、ささやかな我儘すら許されないで、イリアス様にたしなめられて、わたくしは置時計を投げつけてしまった。
お姉様になれない、そんな現実は、それこそ子供のころから痛いほどわかっているのに、それをどうして目の前にさらすの。
あなたまでもがひどい事を言うの。
彼の額から血が流れて伝いおちて、はっとした。
とんでもない事を、命の恩人に向かってなんという事を、と思ったのに。
彼は怒りもしなかった。
子供の癇癪、とさらりと済まされてしまい、彼は言った。
「あんたが誇れるあんたになれ」
わたくしは何も、誇れないわ。
「それがあんたを立たせ続ける」
わたくしは立てないわ。
泣き出したくなったわたくしに、渡されるのは、木製の櫛。
古い物の様で、黒くなるほど年数のたった、年代物の櫛は、驚くくらい黒くて、磨いたのか艶があって、見た事のない花の模様が彫り込まれていた。透かし彫りはとても、きれいだった。
「誕生日の祝いの品物もろくにもらっていないようだから」
それであなたは、わたくしに何か物をくれるの。
死ぬような思いで絞り出した、お礼の言葉に彼が優しい顔をする。
お父様だって向けてくれない顔だった。
「いいこだ」
叫びそうになっていながらも、わたくしは彼を見ていた。
血染めの彼は、あの時と同じだった。
わたくしの世界に、色があるのだと教えてくれたあの森の中と同じ色をまとっていた。
わたくしに、立ち方を教えて、と言いそうになったのを、わたくしが飲み込んでいると、彼は侍女たちにこの事を他言無用と示して、出て行ってしまった。
手に残されているのは、血まみれの木製の櫛。
顔に近付けると、彼の血の匂いと、彼が懐に入れていたからか、背負われた時に感じた、彼の匂いがした。
宝物だ、とわたくしは思った。肌身離さず持ち歩こう、と決めた。
幸いな事に、透かし彫りの一か所の穴に、ひもが通せるからそこに、リボンを通した。
そして、服の下に、それを下げる事にすれば侍女たちが、いつも通りにわたくしを軽蔑する、そんな顔をしている。
「何かしら」
問いかければ、何も言わない。
そういう物だとわたくしは、知っている。
「泣く事などないであろう? それともそんなに、不安かえ? よしよし、知らない土地に一人きりなんてものは、意外と不安になるものだろうよ」
頭を撫でる優しい手。抱きしめてくださる、温かい柔らかな体。
「姫と仲の良い侍女あたりがいたならば、一人二人、一緒に連れてきたのだけれども。キンウが姫の事を聞いた折に、姫と仲の良い侍女がいないと言っていたから、一人で連れてきてしまったのだよ。そんなに泣くと、目から銀が溶けて出てしまうぞえ?」
「普通溶けないだろうよ」
「たとえじゃ。おうおう、こんなに泣いて……そんなに心細いかえ? はよう、イル・ウルスが呼び戻せればいいのじゃが」
「あれなら、メダルの魔法を使っただろうよ。イリアスが使う時特有の、ちょっとばかり普通はありえない波動を感じたからね」
キンウ様が肩をすくめて笑っている。
女帝陛下がそれを聞いて、ふむ、という。
「イル・ウルスの力の使い方は、どこか根本的に変じゃからのう……どうしてあれで、何も問題がないのやら」
「たぶんあれだよ、あれ。体が異常に頑丈なのと、マダラの血と加護、それから相棒である殺幸の剣との共鳴の合体系だね。私も大概変な事繰り返したけれど、イリアスと同じだけの事はまだだからね」
「ほんにわらわの子供は、愚かというかなんというか……あれはもう性分か病気だのう」
「本当にそうだろうね。……さて、女帝。姫が驚いているよ。それと彼女に命名辞典でも貸してあげたらどうだい。あれがこっちに転移して、二日くらいは気絶しているはずだからね。その間に名前を決めてもらおう」
「おお、そうじゃのう。待っておれ、姫」
言ってわたくしの体を離した女帝陛下が、本棚からひょいと厚い本を差し出してくる。
命名辞典と、書いてあった。バスチアの公用語と同じ単語だから、おそらくわたくしでも読めるでしょう。
「これを一回、自分の事を念じながら思い切り開いてごらん」
「あの……」
「これはよくある、帝国の命名方法なんじゃ。名前を付ける対象を念じて、命名辞典を開く。そこで一番に目に飛び込んできた名前が、その対象の名前になる、というのう」
「だから帝国では、名前と性別が一致しなかったりするんだよ」
キンウ様が笑いながら付け加えてくださる。
わたくしは膝の上に本を置き、自分の事を考えてみた。
わたくし。わたくし……
そして、数分念じてから、思い切り開いて、ばっとそこの見開きを見る。
目に飛び込んできた名前は……シグナス
「シグナス……」
「おや」
「また男の子みたいな名前だね」
女帝陛下もキンウ様も顔を見合わせたけれど。
突然、二人そろって笑いだした。
「あの……?」
笑いものにされる名前ではないし、お二人は馬鹿にして笑う方じゃないのにどうしてかしら……
と思っていたら。
「まさかのまさか」
「祝福を意味する、男の名前の中ではめったに付けられない最上級の名前だとは」
と言って笑っていたのだ。
どうしてそういう風に笑って下さるというのか。
そんな、本当にいい名前を手に入れたような、眼差しを向けてくださるのか。
分からなさ過ぎて、わたくしが途方に暮れていると女帝陛下が笑顔のまま答えてくださる。
「すまなんだのう、姫。シグナスは、この南方世界のとても古い、南方神話の中に出てくる、とある数奇な運命をたどった男の名前なんじゃよ」
「そうなんですか?」
「ああそうだよ。とても不幸な境遇だったのに、自分で運命を切り開いて、つぎつぎにすべてから祝福されるように、幸せになった伝説の男の名前でね」
「以来その名前自体が、祝福を意味するようになったという」
二人が交互に説明してくださる言葉。わたくしは泣き出しそうになってしまった。
祝福なんて、わたくしには一番縁どおいのに。
「祝福……そんなもったいない」
「おやまあ、この姫君は、わらわの義理とはいえ息子で、おそらく南方世界で一番いい男を婚約者にしておきながら、祝福がないと?」
からかう調子の、女帝陛下だけれども、わたくしはそんなつもりではないのです。
「こんな赤い髪で……目の色で……こんな美しくない、顔で」
やせぎすの体で。祝福の文字がとても薄っぺらくはありませんか。
うつむいたわたくしに、キンウ様が近付いてくるのは足音の違いで分かった。
キンウ様の足音は、とても軽い、鳥の足音の様なステップをしていらっしゃる。
「自分に自信を持ちなさいな。少なくとも、あなたは誰でもない、あの、女の好みが意味不明なイリアスに、間違いなく選ばれたのだから」
「……周囲の誤解のせいで……」
少なくともわたくしは、そう聞いている。侍女たちが蔑むように笑いながら言っていた。
イリアス様が、面白がってわたくしに構うから、彼はお父様に勘違いされてしまって婚約を結ばされたのだと……言っていたのに。
まるでキンウ様は、イリアス様が自分からわたくしを選んだように言うのね。
「違うよ。あれはいらない女だったら、どんな美女だって突っぱねるし、場合によっては自分の領域から蹴りだすよ。あいつは獣みたいなものでね、縄張りに入れるのは、自分が選んだ相手だけなんだ」
「まあ生きてきた年数のかなりの割合を、獣として生きてきた奴だからのう」
女帝陛下もそんな事を言って同意している。
……わたくしは、まさか。
「イリアス様に、選ばれたというの……?」
震えた声で疑問を投げかけてしまったわたくしに、二人が微笑む。
「いやだわ、この子。最初からそう言っているのに。どんだけ幸せになれなかったの?」
「これから、皆で幸せを教えればよかろう。わらわは可愛らしい嫁過ぎて、猫かわいがりしてしまわないか不安ぞえ」
「っ……」
ぼろりとこぼれた両目の涙。喉からせりあがってくる言葉としては機能しない、声。
わたくしのそんな、無様なさまを二人が笑ってみてくださっていた。




