五
洞くつ内に入って振り返ると、ぼくが休んでいた木のうろは跡形もなく消えていて、ずっと奥まで横穴が続いているだけだった。
洞くつの中は、電気が灯っているわけでも無いのに明るくて、春の日だまりのように暖かくて、でも乾燥している訳じゃなくて、空気が澄んでいて気持ちよかった。
岩肌は、人の手で掘られたようにごつごつしていて、赤茶色で柔らかそうに見えて、ぼくはそっと手をついてみた。壁は適度に湿っていて、ひんやりしていた。
ぼくはとりあえず、先に進むことにした。
前方はゆるやかな上り坂で、後ろはまっすぐ平らな道が続いている。どちらに進もうかと迷っていると、前方の壁が動いているように見えた。
何だろうと思って近づいて見てみると、テレビの画面の大きさに、映画のようなものが映し出されていた。映像は若い男女の出会いから恋が始まる、言わば恋愛もので、ぼくの見ないジャンルのものだった。
でも登場人物が父さんと母さんにとても良く似ていて、目を逸らすことができずに、その映像を見続けた。
やがて二人は結婚して赤ちゃんが産まれた。赤ちゃんを抱いて幸せそうにほほ笑む姿が流れる。画面一杯に赤ちゃんの顔が映し出された時、ぼくは、それがぼくたち家族の物語だと気づいた。
父さんと母さんの物語。ぼくたちが家族になった物語。
ぼくは胸を締め付けられるような感じがして、胸が苦しくて目頭が熱くなった。
込み上げてくる涙で、にじんだ映像を、ぼくはその場に立ち尽くして見続けた。
三人でよく散歩した公園。一緒に出掛けた動物園。母さん手作りのお弁当。三人ともに、これ以上の幸せは無いっていうぐらいに笑い合っている。ぼくの目から、溜まった涙が後から後から流れて落ちた。
いつの間にか乾いていた服の袖口で、ぼくは流れる涙をけんめいに拭った。
ぼくは母さんに会いたくて、会いたくて、「母さんに会わせて」とそう強く願った。
すると突然、洞くつの壁の映像が消えてしまった。
「どうして? まだ消えないで。もっと見せてよ!!」
ぼくは赤茶色の壁を手の平で叩きながらそう叫んだ。洞くつ内にぼくの必死な声が響き渡った。
でも、いくら待っても洞くつの壁には何の変化も現れ無かった。
しかたなくぼくは、目尻に残っていた涙をごしごしと袖口で拭って、目を開けて先に進もうとした。すると目の前に、死んだはずの母さんが静かに佇んでいた。
あまりに突然のことで、驚きすぎたぼくは、動くことも、声を出すこともできずにその場に立ち尽くした。
「良一、大きくなったわね」
笑顔の母さんはそう言って、更にほほ笑みを深くした。その笑顔に弾かれたようにぼくは母さんに駆け寄り抱きついた。
死んだはずの母さんが目の前にいる。ぼくの願いを聞いて、神様が母さんを呼び戻してくれたんだと、ぼくはそう思った。
母さんはぼくの名を呼んで、ぼくの体を抱きしめてくれた。
でも母さんの体はとても冷たくて、ずっと抱きついているとぼくの体温を全て奪い取ってしまいそうで、ぼくはそっと母さんから離れた。
もしかしたら母さんは、ぼくの知らない所で生きているかも知れないと思っていたけど、母さんに抱きついて、冷たさに触れてみて、やっぱり死んでいたんだなと思い知った。
母さんは、アルバムの中の姿のままに若くて、見たこともない白いドレスを着ていて、何よりも大きな白い羽根が背中から生えていた。
「私がいなくなった後、ずいぶん苦労したのでしょう?」
母さんにそう聞かれて、ぼくは今までのことを母さんに話して聞かせた。
母さんが死んで田舎に預けられたことや、おばあちゃん家がお化け屋敷みたいだったことや、五衛門風呂と戦ったことや、父さんが入院したこと。
歩きながら話すぼくに、母さんは相づちを打ちながらほほ笑んで聞いてくれた。
それから父さんが再婚したことや、父さんに反抗していることや、妹が産まれたことを話した。
ぼくの顔が苦しくゆがんでも、母さんはにこやかに頷くだけだった。
しばらく歩くと、洞くつが二手に別れている場所に辿り着いた。
「私と一緒に行きましょう」
母さんはぼくに向き直りそう言った。
ぼくはハッとして母さんの顔を見た。母さんは相変わらず綺麗にほほ笑んでいるだけだった。
「この世界には良一の居場所はないのでしょう? それならば母さんと行きましょう」
母さんはもう一度そう言った。
母さんにそう言われて、ぼくは今までのことを思い出してみた。
いつも優しく笑いかけてくれる高岡さん。不器用に笑う父さん。無邪気に笑う妹。優しく見守ってくれるおばあちゃん。
皆のことを思い出すとなぜか怒った顔じゃなくて、笑顔しか思い出せなかった。
お母さんがいなくなってからの、たくさんの思い出。ぼくのほほには涙が流れていた。
「ぼくは母さんと一緒には行かない」
ぼくは、母さんの目をしっかりと見つめてそう言った。
にこやかにほほ笑んでいた母さんは、ぼくの返事を聞いた途端みにくく顔を歪めた。
その時、左の洞くつから子どもの声が聞こえてきた。
「あっ、子どもの声が聞こえる。誰かいるのかも知れないよ。母さん行ってみようよ」
ぼくは母さんの気を引くためにそう言って、左の洞くつに駆け出そうとした。
「ダメよ良一」
母さんは、ぼくの手首を素早く掴んだ。
母さんの手は相変わらず冷たくて、ぼくの体温を奪うように、ぼくの腕は感覚を無くして凍てついていく。
「母さん痛いよ。離して」
と言うぼくの腕を引いて、母さんは「良一は私とこっちに進むのよ」と右の洞くつに向かって歩き出す。
――――良一、しっかりしなさい。幻に惑わされてはいけません――――
突然ぼくの頭上から、母さんの柔らかい声が聞こえてきた。
えっ? 目の前に母さんがいるのに、どう言うこと?
不思議に思って母さんを見上げると、母さんは忌々(いまいま)し気に空中を見ている。
「邪魔をするな!!」
母さんは空中を睨み付けたままそう叫んだ。
左の洞くつはずっと先まで明るいのに、右の洞くつは地獄の入り口のように真っ暗で、先がどうなっているのか、まるで分からなかった。
笑顔がはがれ落ちて、無表情のままの母さんは「早く来なさい」と低い声でそう言うと、ぼくの腕を握る力を強める。
ぼくが「痛いから離して」と言っても母さんは顔色一つ変えずに、右の洞くつにぼくを引きずっていく。嫌だと言っても、止めてと言っても、ぼくがどんなに引っ張っても、母さんはびくともしない。
目の前を突然ヒュンと物凄い風が通り過ぎた。母さんはぼくの手を放して、痛そうに手の甲を押さえていた。そこから流れ出る血の色は、真っ黒だった。
ぼくは、その血の色に驚いて息を飲んだ。そして、何が飛んで来たのかと、洞くつの中を見回した。
ぼくの耳の側で羽根を羽ばたく音がして、そちらを向くとぼくの右肩に静かにフクロウが舞い降りた。
ぼくの右肩に、かすかな重みと温かさが伝わってくる。
――――顔が崩れていますよ。最後までだませなくて残念でしたね――――
フクロウは、左側の洞くつに目を向ける。
――――他の子どもたちも逃げ出せたようで何よりです――――
「その子どもだけでも連れて行く!」
母さんの姿をした人は、醜く顔を歪め、声も母さんの声じゃなくて、男とも女とも言えないひび割れたような声で叫んだ。
――――良一は、私が守ります――――
フクロウは、意思のこもった張りのある声でそう言った。
二人のやり取りを見て、ぼくはフクロウに向かって「母さん?」と聞いてみた。
――――良一、大きくなりましたね。ずっと見守っていましたよ――――
優しくて、温かくて、柔らかな声が聞こえた。懐かしい思い出の中の母さんの声だ。
――――私がいた過去は、もう戻らないのです。現実を受け入れなさい。お父さんたちが探していますよ。帰りたいと願うのです。家族の元へ戻りたいと強く願いなさい。そうすればきっと現実の世界に戻れます――――
「黙れ。その子どもはお前のことが忘れられないのだ。お前の元に行きたいのだ。連れて行って何が悪い!」
母さんだった人は、も早母さんからはほど遠い姿をしていて、声も口調も全くの別人になっていた。
――――お黙りなさい。良一には良一の未来があるのです。それを奪う権利はあなたにはありません。それに、良一があなたに着いて行っても、私の元には来られないでしょう?――――
図星を突かれて、母さんだった人は悔しげに顔を歪めた。