二
次の日の朝、目が覚めたらぼくはまた一人だった。テレビの部屋に行くと、おばあちゃんが一人でテレビを見ていた。
「おとうさんは、どこ?」
そう聞くと、おばあちゃんはとても困った顔をした。
「良一、おはよう。お父さんはなぁ、……会社に行っだよ……」
と、おばあちゃんは小さな声で言った。
「どうして? ぼくをわすれていったの? おしごとがおわったら、おむかえにきてくれる?」
「あぁ。仕事が終わっだら、迎えに来てぐれるがらなぁ。……良い子にしどぐんだよぉ」
泣き出しそうに、顔をくしゃくしゃにするぼくに、おばあちゃんは慌ててそう言った。
「ほらぁ、腹減っただろぅ? おむすびあるがら食えぇ」
おばあちゃんは、ちっちゃく握ったおむすびと、たこの形に切ったウインナーと、真っ赤ないちごを用意してくれた。大好物のいちごを前に、たちまち笑顔になったぼくは、用意された朝食をぺろりと平らげた。
「ごちそうさまでした」
ぼくが食べ終わると「そんじゃあ、どろいじりでもすっかねぇ」と、おばあちゃんはぼくに靴を履かせて、畑に連れて行く。ぼくが小枝で穴を掘る横で、おばあちゃんは、雑草を抜いたり、野菜の手入れをしていた。
畑にいるバッタやカマキリやちょうちょやてんとう虫は、良い遊び相手になった。毎日、かわるがわるぼくと遊んでくれた。時にはあまがえるを追いかけたり、へびやトカゲに驚いて泣きわめいたりしながら、飽きることなくぼくは過ごした。
でも、辺りが茜色に染まって夜が近づくと、ぼくは決まって「おとうさんは、かえってくる?」と聞いた。そして布団に入る時間になると、毎日泣いておばあちゃんを困らせた。
父さんは、土曜日の朝におばあちゃん家に来て、日曜日の夜にマンションに帰って行った。出張がある時には土日でもおばあちゃん家には来なかった。父さんが来る時はいつも楽しみだった。お菓子やおもちゃをいっぱい買ってきてくれたから。
そんなある日父さんが入院したと病院から連絡があった。
電話があった次の日、ぼくはおばあちゃんに朝早くに起こされて、近所に住む人の軽トラックの荷台に乗って駅に向かった。駅から電車に乗って、何駅も通って、違う電車に乗り換えて、やっと父さんの入院する病院に着いた。
病室のベッドで寝てる父さんは少しやつれていて青白い顔をしていた。
仕事が忙しくて、土曜も日曜も長距離運転をしていたから、過労で倒れたのだと病院の先生は言っていた。過労って何か分からなかったけど、おばあちゃんが「疲れが溜まってたんだなぁ」と教えてくれた。
父さんは、一週間で退院した。でもぼくの所にはあまり来てくれなくなった。おばあちゃんが「くるな」と父さんに言ったらしい。会えない代わりに、父さんからは電話がくるようになった。父さんに会えないのは淋しかったけれど、父さんが病気になるよりは、会えない方がいいと思って、ぼくは電話で我慢した。
父さんに会えるのは一年の内、お盆と正月だけになった。
父さんに会えない間もぼくはすくすくと育っていった。
おばあちゃんの手伝いもいっぱい頑張った。野菜の収穫や草抜き、ジャガイモや人参の皮むきはぼくの仕事だし、お風呂の火おこしはおばあちゃんがするけど、その後のたきつけも、ぼくのしごとになった。五右衛門風呂の浮き板を踏み沈めるのも、今では父さんよりも上手になったと思う。
ぼくが小学校二年生になった年に正月でもお盆でもない日に、父さんは突然ぼくを迎えに来た。ぼくはとても嬉しかった。
でも父さんは一人じゃなかった。若くて綺麗な女の人と一緒だった。
「良一、この人は良一の新しいお母さんになる人だよ」
父さんはそう言って女の人をぼくに紹介した。
ぼくを産んでくれた人だけが母さんで、この人はお母さんじゃない。ぼくは素直に受け入れることができなかった。
その女の人がよろしくねと優しく声をかけてくれたけど、ぼくはどうしても挨拶をしたくなくて、お母さんと呼びたくなくて、おばあちゃんの背中に隠れた。
父さんはそんなぼくの心には全く気づきもしないで、ぼくの意見は聞かずに、むりやり都会のマンションに連れて行ってしまった。
ぼくの部屋には、母の日に描いた母さんの似顔絵や、母さんが作ってくれたバッグや小さなくまのぬいぐるみ。三人で写った写真もいっぱいあった。
マンションには母さんとの思い出がたくさん詰まっているから、ここに帰って来られた事はとても嬉しかった。
でも父さんが会社に行っている間、ぼくはあの人と一緒にいなければならない。
それが嫌でぼくは、いつも学校から帰ると部屋に引きこもって、写真を見たりして母さんの思い出に毎日浸っていた。
ぼくがあの人をお母さんと呼ばないものだから、父さんからは毎日のように怒られた。べつにあの人が嫌いなわけじゃないんだ。きれいで優しくてお料理も上手で。
でも、ぼくがあの人を「おかあさん」と呼んでしまったら、ずっとお母さんと呼び続けたら、本当の母さんの事を忘れてしまいそうで、新しいお母さんと仲良くしたら、死んだ母さんがかわいそうだと思ったんだ。
ぼくの心の中を知らない父さんは、いつも怒ってばかりで、あの人もいつも困った顔をしていた。ぼくは父さんとあの人を困らせるつもりはなかったのに。
この家の中ではぼくが悪者みたいだ。
そんな生活が三年 経った頃、新しいお母さんに赤ちゃんができた。父さんは毎日会社から早く帰って来る。しわしわで小さい赤ちゃんに夢中だ。
赤ちゃんを囲んで、父さんとあの人はとても幸せそうに笑っている。
ぼくの居場所がなくなった気がした。
ぼくは学校が終わってもまっすぐ家に帰らなくなった。遅くまで図書館に残ったり、公園で時間をつぶすようになった。何回か補導された事もある。
別に悪い事をしている訳ではないから、お巡りさんにはそんなに叱られなかったけど、父さんにはいつも以上に怒られた。
困り果てた父さんはおばあちゃんに相談して、夏休みの間中ぼくはまた、おばあちゃんの家で過ごす事になった。
何も分からないで預けられて、毎日泣いていたあの頃より、ぼくの気持ちはとても楽だった。
息が詰まりそうな家から解放される。そう思うだけで、心が軽くなった。
三年おばあちゃんと会っていない。おばあちゃんは元気かな。毎日畑仕事をして、お風呂を沸かして、あの微妙な味のハンバーグを作っているのかな?
良一はおかしくなって、ふふふと笑った。
あの頃よりぼくの体も大きくなったから、おばあちゃんの手伝いもたくさんできる。薪運びだって、お料理だって、もっとちゃんとできると思う。
ぼくの心は一足先におばあちゃんの家に向かっているみたいに浮き浮きした。
ぼくは、楽しい気持ちで荷造りをした。あの頃には持って行けなかった母さんの思い出の品も、今度はたくさん詰め込んだ。
おばあちゃんの田舎には、もちろんあの人も一緒に行く。ぼくが助手席に座り、あの人と赤ちゃんは後部座席に座った。ぼくは車の窓の外ををずっと見ていた。変わって行く街並みをぼんやりと眺めた。
おばあちゃんの家はあのままかな。お化けが出そうな怖い家。でも、虫たちがたくさんいて楽しい家。目を閉じてそう考えていたら、いつの間にかぼくは眠ってしまっていた。