一
とあるいなかの 森のおく深く
古い大木の うろの中に雨宿りをしたならば 違う世界に迷い込み 帰りの道を見失う
そんな場所があるという
――――遠い遠いむかしの 忘れさられた むかしばなし――――
◇◇◇◇
母さんが事故で死んだ。
父さんはずっと泣いていたけど、ぼくには、なぜ母さんが帰ってこないのか、なぜ父さんが泣いているのかまったく意味か分からなかった。
幼いぼくには『死』というものが理解できずに。遠い場所に行ったのだと、星になったのだと聞かされても、いつかは帰ってくるのだと信じて疑わなかった。
だから保育園に遅くまで預けられても、お母さんはいつ迎えにくるのかと、いつも先生たちを困らせていた。
その日ぼくは父さんに、朝早くに起こされた。
朝ごはんを食べる時も、着替えをする時も、いつもはニコニコしている父さんが、こわい顔をしていた。
父さんは怒ったように、早くしなさいと言う。そのたびに、ぼくの体は固くなって、余計に時間がかかったのを憶えている。
父さんは、大きなバッグとぼくを乗せて、車を走らせた。途中でお店に寄って、いつもは買ってくれないジュースやお菓子を好きなだけ買ってくれた。ぼくは嬉しくて、あめやガムやおまけ付きのお菓子を両手で抱えきれない程たくさんカゴに入れた。
「良一、四時間はかかるから、寝てていいぞ」
父さんはそう言ったけど、ぼくは寝ないで起きていようと思った。でも、十分もしないうちにまぶたが重たくなって、目を開けていられなくなったんだ。
目が覚めて車の窓から外を見ると、高いビルや、おしゃれなお店や、たくさんの車や、電車が見えなくなっていて、その代わりに見えたのは、見渡す限りの田んぼや畑。高い建物はほとんどなくて、ぽつぽつと、一軒家が建っているだけだった。
「ここはどこ?」
ぼくが聞くと、父さんは「おばあちゃんの家に行く途中だよ」と教えてくれた。
車は山に向かって走ってるみたい。ガタゴト道を少し走って細い脇道に入った。そして一軒の家の前で、車は止まった。
「着いたぞ良一。降りておいで」
父さんに言われてぼくは車を降りて家の前に立った。
――――時代劇に出てくる家みたい――――
それが、家を見たぼくの感想だった。
壁は板でできていて、茶色じゃなくて黒ずんでるし。屋根も今にも落ちてきそうに、ボロボロだ。緑色の草が生えている所もある。ぼくはお化けが出そうだなと思った。
鍵のかかってない引き戸を、父さんがガタガタ音を立てながら開けて、家の中に入って行く。なんだか不気味で、ぼくもすぐにその後を追った。
扉をくぐると目の前に広い土間があり高い上がり口の向こうは畳の部屋がある。土間の左手の引き戸を開けるとそこにも土間があって、そこは台所と食堂になっていた。土間と台所の上がり口はつながっていて、その奥の畳の部屋もつながってた。
窓が少ないから、家の中は暗くて外よりもっと不気味だった。柱時計の音がやけに大きく聞こえる。
「おばあちゃんは畑かな。呼んでくるからな」
と一人で行こうとする父さんのシャツのすそを引っ張って、一緒に畑に向かった。
「あれぇ、もう着いたのけ? 早がっだなぁ。どれ良一、大ぎぐなっだなぁ。抱っこさぁしたいとこだけんどもぉ、手が汚れとるがらなぁ。家さいぐが」
そう言うと、おばあちゃんはどっこらしょと立ち上がり、ずんずんと先頭を切って歩いて行った。
家に着くと庭にあるドラム缶に溜まった雨水で手を洗い、割烹着のすそで乱暴に拭って、ぼくを抱き上げた。
おばあちゃんはぼくを抱いたまま、片手でガラガラと引き戸を開けて、土間の上がり口にちょこんとぼくを座らせた。
「あんれ、良一には上がりがまぢが高ぐっでいげねぇなぁ。後で踏み台を持っで来ようなぁ」
そう言いながらおばあちゃんは、ぼくの靴を脱がせてくれた。
「良一は一度来た事があるけど、赤ちゃんだったから憶えていないだろ? 家の中を案内してあげるよ。おいで」
父さんはそう言って、おばあちゃんがお茶の準備をしている間に、ぼくの手を引いて、お風呂場や、トイレの場所を教えてくれた。お風呂場もトイレも暗くて薄気味悪くて、ますますお化け屋敷みたいだと思ったぼくは、早くマンションに帰りたくて「早くお家に帰ろうよ」と父さんに言った。
父さんは少し驚いた顔をして、すぐに悲しそうな顔をした。
「はい、お茶とせんべぇ、おあがり。あぁ、チヨコレードの方がいがっだがねぇ?」
「ぼく、おとうさんに、おかしいっぱぁいかってもらったよ」
ほら、とレジ袋を開けて見せると「えがっだなぁ」とおばあちゃんはしわしわの手で、ぼくの頭をなでてくれた。
「今日は泊まっでいぐんが?」
「あぁ。……母ちゃん……済まねえな……」
「なんも、しょうがねぇべ……お前を一人で育てで来たんだぁ。心配はいらねぇよ」
「うん……ありがとな」
父さんとおばあちゃんは、ぼくには分からない話をして、二人とも悲しそうな顔をしていた。
「さぁて、風呂にでも入っで来んさい。良一の好きなハンバーグっで言うのを、作っでやっがらなぁ」
そう言っておばあちゃんは、腕まくりをして、台所に向かって歩いて行った。
父さんとぼくは、五右衛門風呂と戦った。
脱衣所で服を脱いで、お風呂場に入るとまあるい形の浴槽があった。その上に薄い板が何枚も置いてあって 、それが蓋の代わりになっている。父さんは、ぱたぱたと板を隅っこに積んで、浴槽の中に浮かんでいる五右衛門風呂よりも一回り小さい丸い板を指差して「これを上手に踏むのが難しいんだ」と言った。
五右衛門風呂は中を覗くとまあるいお鍋のような形をしていて、下からまきに火を点けて燃やしてお風呂を沸かすから、お風呂の底はやけどをするぐらい熱いんだって、だからぷかぷか浮かんでる板を踏んで入らなきゃいけないんだ。
父さんはお湯をかぶって、ぼくにも掛けて「おれに任せろ」と言った。
父さんは浮いている板の中央に足を置きそのままお湯の中に足を沈めていく、でも、板は父さんの足から逃れるように、斜めになって浮いて来た。
「ああ、ダメだったか。もう一回だ」
父さんは何度も挑戦するけれど、なかなかうまくいかなくて、やっと成功した時には、すっかり体は冷たくなっていた。
「ぼく、おうちのおふろの方がいい」
それを聞いて父さんは、変な顔をした。
「でもな良一。ガスで沸かすのより、まきで沸かした方が、体の芯まで温もるんだぞ」
「でもぼくは、いたのくろいかべより、しろくてつるつるのかべのおふろがいいもん」
とぼくが言うと、父さんはとても困った顔をしていた。この時はどうして困った顔をするのか分からなかった。
お風呂から上がると、テーブルの上に美味しそうなご飯が並んでいた。
「ハンバーグだ!」
台所の土間の上がり口のそばにテーブルがあって、長い面の向こう側にはイスが二つ置いてあり、こっち側は、上がり口がイス代わりになっている。上がり口の上にはペタンコの座布団が六枚重ねてあった。「良一はその上にお座り」とおばあちゃんに言われ、そこに座った。
「高さはいいが?」
おばあちゃんに聞かれてうんと頷くと「そんじゃぁ、いただきます」と言ったおばあちゃんのかけ声で三人は食べ始めた。
味は、何と言うか、とても変わっていた。少し大きくなってから、手伝いながら味付けを見ていたら、砂糖、しょうゆ、酒、お酢、ケチャップを入れていたと思う。
ご飯のあと、ぼくがうとうとし始めると、おばあちゃんは奥の部屋に布団を敷いてくれた。寝る時は父さんもいたのに、夜中に目が覚めたらぼくは一人だった。ぼくは怖くなって、母さんが買ってくれたウサギのぬいぐるみを抱いて、父さんを呼びながら明りの点いている部屋に向かった。障子を開けると、父さんもおばあちゃんも、泣きながら何かを話していた。