《ZeRo-現実の中の”夢”》-3
3話です
更新の遅さを御許し下さい。
最初に感じたのは”ピリリッ!”とした若干の痛覚だった。
端末を拾い上げようと触れた瞬間、何かが俺の身体を駆けた。
その痛覚自体は、なんてことの無いただの静電気程度のものだったのだが、暑くじめじめとした夏場に”ピリリッ!”としたこの感覚はあまりに不釣り合いであり突拍子も無かった。
そのためだろうか、一瞬思考が完全に停止した。
……それらは『雑念』、と呼ばれるものなのだろうか。
常日頃から”思考”として頭の中で文章的に考えている、要するに発言されない独り言……。
思考が停止すると、”妄想”の全てが一度真っ新になった。
この一瞬、俺は”虚空”と呼ぶに相応しい、何も感じられない酷く空虚な感覚に見舞われた。
これらは静電気を感じてから一瞬の内に起きた出来事だったハズなのだが、俺にはいつまでも続く程に長い時間に感じられた。
真っ新で無垢な思考は、世界の全てが止まってしまった様な、自分の思考能力に見合う都合のいい解釈をした。
きっと動いている世界をしっかりと識別出来なかったのだろう。
白々しい境地の中で、俺は止まってしまっている様に見える世界を眺めた。
しかし、それも一瞬の出来事で……。
「------、……ッ!!」
---いいや、違う。
真っ白な心境世界の中に、真っ黒な線が現れる。
恐らく、それは”思考”だ。最初は線が1つ、そして更にひとつ。
線は一本一本と数を増やして行き、その度に俺の思考は鮮明になる。
だから俺の見えたその線は簡易に視覚化された思考その物で間違いないはずだ。
今はただの”線”だが、だんだんとそれは”カタチ”を作って行くだろう。
何も書かれていない世界に文字を書く様に、次々に黒い線が挿入される。
---止まっている様な世界の中で、俺は思考を再起動した。
再開された思考は、まずある事柄を漠然と認識した。
見えているのは”止まっている様な”世界じゃない。
この世界は、確かに”止まっている”んだ。
咄嗟に視界に入り込んでいた全ての物体が”停止”しているのを、俺は認識した。
海の波には動きが無い。満ち引きする様子が見られない。上がった飛沫はキラキラと光を反射して、しかし宙に停滞していた。
訪れた人々の動作によって巻き上げた砂も砂浜に帰る事は無く、一粒一粒が地から身を離し、まるで反発しあう磁石の様に大地に睨みを効かせて近づこうとしない。
周囲の観光客の様子もオカシイ。目の前の女性もだ。
駆け抜けた電撃が、俺の五感を助長し強力にしている。
……誰一人の息遣いも感じはしない。
強い感受性を持ってして、俺は知る。この世界で”呼吸”をしているのは俺だけなのだと。
漠然とした認識力は、この事柄について深い追求を試みたりしなかった。
たぶん、それだけの思考能力が無かっただけなのだろう。
正常に働いてないのか、思考回路は本来の能力を大きく閉ざし、キャパシティを狭めている。
真っ新な心境世界に筋を増やす黒い線は、その存在感を確実に強くしている。
しかしこの黒い線は、普段ならば心境世界を埋めつかさん程の量であるべきなのだ。
……結論、思考回路は回廊の殆どを閉ざしてしまっている。
ただし、深く追求出来ない程に鈍い思考回路だからこそ、普段の状態ならばパニックに陥っていたであろうこの奇妙な事態にも、抵抗感無く順応した。
尤も、思考回路のキャパシティを越えたこの事柄について深く追求していないという事は、要するに今の俺は”何も知らず、何も見ず”といった状態であったということだ。
”順応”出来ていても、この事柄は俺の理解力の範囲外。一体何が起こっているのかなんて分かるはずも無かった。
……ただし、事態を理解は出来ないのに、不安も不審も抱かなかった。酷く不安定で破綻した状態だ、今の俺は。
---既に一瞬の”虚空”は通り過ぎ、俺に思考の主導権は戻っている。
既に思考は無垢などではなく、脳裏では幾つもの折り重なる線が”文字”を形成している。
描かれるべき思考は、既に真っ新などではなく、回路はその機能をある程度に発揮していた。
そう、刹那の時間の後に訪れた唐突な解放に、俺の思考の完全な復活は間に合っていない。
回路同士の繋がりがまだ薄い様だ。脳裏で文字が形成されているのに、それを読み解けない。もしくは読み解くのに途方も無い時間がかかってしまっている。
そんな中で、1つの大きな事柄を処理している為に他の事柄への対応にも追われ、脳神経はショート寸前まで追いつめられていた。
理屈的に理解も出来ない事柄に順応しているのだ。キャパシティの大半はそっちに持って行かれている。
……その影響だろうか、不意に俺の思考がぐらりと揺れた。
足を踏ん張って、かろうじて倒れるのだけは阻止した。
……阻止したのだろうか。頭が酷く重く、足の方の感覚まで思考が行き渡らない。
自身がしっかり立っているのか、それさえ分かっていない。足を踏ん張る様に身体に命じたつもりだが、果たして足に命令は行き届いているだろうか。
ぐわんぐわんとした思考は脳の機能の殆どを蝕み、故に体全体を管理、把握する程の余裕は無くしていた。
犯罪的に甘く危険なパルスが、俺の身体を一気に蝕んでしまった。
はっきりとした思考が出来ず、俺は薄い虚夢を知る。
思考は俺の今の”感覚”を識別し、ぼんやりとはっきりしないこの様を恰も夢の様だと捉えるのだ。
同時に、直感はそれを”現実”だと識別する。
要するに、俺は現実の様子を”夢”の中の出来事である様に感じていたのだった。”虚夢”とは、その様な”微睡み”のことだと知った。
---微睡んでいると、次第に世界の全てがぼんやりと霞み罹って来る。
全ての物体が、認識と虚無の中間を保っている。直感でさえ、ぼやけて行く風景に対して現実感を失い始めていた。
視界に入る物質全てがぼやけて行く---。
---いつの間にか”虚夢”から抜け出した俺は、思考が空っぽになってしまった時の後遺症が残っている様で、完全にはっきりとした思考が行えなくなっていた。
思考を司る回路が消沈している。割合としては、全回路の内の二割程度が稼働していて、後の全てが沈黙している。
いつも使っている回路の割合は、表すなら大体8割くらいだと思うから、今の俺の集中力は眠る寸前の微睡みに近い。
視覚に残った”もや”が。ぼんやりとした薄い膜の様なモノが視界を覆う。
それは寒い日に窓ガラスを覆う曇りに近い。
今度は急激に視界が悪くなる。暗くなる。景色が見えなくなって行く。
目というレンズに曇りがかかって視野を狭めて行く。
静止したままの世界に別れを告げ、俺の視野は暗黒に染まって行く---。
---徐々にぼやりぼやりと薄れて行く景色と引き換えに、新しく”映像”が転写される。
完全に視界が失われた後に見え出した、目の前を覆う曇りをスクリーンとして映し出されるこれらの映像には見覚えが無い。
俺は、俺の知識には無い映像を脳に映し出している。
……だけど、多分違う、と思う。 ……これは幻覚じゃない。単なる”目眩”だ。
この映像は幻覚のそれと違って完全に飲みこまれる事は無い。そこに存在しない映像だと、すぐに分かるのだから。
脳は映像を現実として捉えていない。---のだが、ちゃんと映像の内容は認識出来る。
くらりくらりと覚束無い映像が続いて映写されている。その影響だろうか、俺の思考回路までが煙に巻かれて行く。
映像が見えているその様子は、例えるなら夢の中の世界にいる時と似ている。
イマイチにぼやける思考。パッとはっきりしない視野、映像……。
先程知った”虚夢”と違って、完全に認識力の追いつかない摩訶不思議な感覚ではない。
これは俺の意識で十分理解出来る範囲の映像だ。
……俺には意識はあるのだが、どうやら後遺症に思考の自由すら制限されている。
思考にすらフィルターが架かっている様に思えて来る。
思考が自分の思った通りに働かない。考えたいコトが考えれない、奇妙な感覚に捉われてしまっている。
思考が働いていないから、何が”間違っている”のかを深く追求する事が出来ていない。
見えている映像は何かが致命的に間違っているはずなのだが、指摘が出来ない。
……断っておくが、急に俺の頭がおかしくなって幻覚を発症した訳じゃない。それだけは明らかだ。
何故なら、振り払おうと思えばすぐにだってこの奇妙な光景を振り払えるからだ。故に、俺はコレを”目眩”だと言っている。
俺はこの映像がなんであるか、そしてこの目眩の正体を漠然とながらに理解出来ていた。
……なんてことはない。俺の意識が”投映”を強く注目しているってだけだ。初動は無意識に、けれど今は意識的に。
これはいつでも振り払える。ちょっと注意を妨げればこの”目眩”は消える。
いつでも消せるんだから、俺は更に深く、見えている光景に注意を向ける---。
"---え、し……"
……見えている光景にノイズが入った。
心境世界に走る無数の黒い線がぐらりと揺らいだ。
視界を覆う、黒い影の様なもやに亀裂が入った。
何か聞こえた気がしたが……、それが原因だろうか。
ーーーやめて欲しい。 俺は嫌悪した。
何故か、深くこの光景に飲まれてしまいたかった。 見えている”それ”は現実の物じゃない。
それがわかっているからこその感性だろう。 一種、俺は”それ”に娯楽性、もしくは中毒性を感じていた。
---邪魔をしないでほしい。
”---か、えし……”
視界の光景に残照の様な光の筋が混じった。---光の筋に当てられた場所は映像が消える。
視覚に見えているもの、視覚に捉えられている空間全てに細やかな皹が入った。歪みが俺の見ている世界を破壊する。
ーーーーその時、”思考回路”が過剰な反応を示した。
1度は完全に沈着し、その後は能力を大きく制限されていた回路。
制限無く複雑に張り巡らされるも、大半の通り道は甘いパルスによって閉ざされてしまっていた。
……そこに、一気に衝撃が走る。
荒れ狂う電撃が正常に働いている回路の道を乱雑に駆け抜ける。
正常に動作している箇所には明らかに過負荷が課せられる。暴風の様に吹きすさぶ電撃の嵐に、回路一本一本が破裂を危惧して悲鳴を上げた。
ふさぎ込んでしまっている部分は全部”ぶっ壊して”開通させた。
圧倒的電撃の衝撃波は回路をズタズタに破壊しながら突き進んで行く。
先に回路の道があって、しかし手前が塞がっているのなら。
電撃の風は過負荷をかけ、無理矢理に壁をぶっ壊して通り道に戻した。
一瞬のうちに駆け抜けたそれは、パルスによる嵐の様だった。電気信号と呼ぶにはあまりに強暴で乱暴な衝撃波だ。
一度”侵された”通り道をリセットする為に、強力な衝撃でスイッチを無理矢理入れ直した。
その際、いくつかの正常な回路が破裂した。
---その際、詳しく確認出来なかったがーーーー。
ーーーー破裂した回路から漏れた”パルス”は、自分でも管理出来ていない廻廊に入り込んだ……気が……。
……どことも知れぬ場所まで運ばれて行った様なーーー---……。
ーーーー、暴風の様な電流の全破壊が終わった頃。
”ぶっ壊された”ことで通りが良くなった箇所に、傷口を確認するかの様に正常なパルスがなぞられていく。
ズタズタになった神経回路をなぞり直し、所持し管轄する回路全ての存在を確認した。
再起動がかかった。
ズタボロながらも清潔な回路に、改まった正常なパルスが流れ込んだ。
ーーーーピリリと”思考”が切り替わったのを感じて、今度こそ俺の意識は現実に戻る。
ーーー、ーーー目の前の視界が一気に開けた。