瑠璃色のインセキュリティ
第三部:瑠璃色のインセキュリティ
1. 成功という名の濁流
『ルミナス・ジャパン』のコンペ勝利から三ヶ月。私の世界は、音を立てて作り替えられていった。
シニア・プランナーという肩書き。社内での羨望の眼差し。そして、私が手がけた「Restart」のメインビジュアルが、渋谷のスクランブル交差点の巨大ビジョンに映し出された日のこと。
私は一人、雑踏の中でそれを見上げていた。
画面の中の女性は、強い眼差しでこちらを見つめている。
かつて、大輝に「お前は俺がいないと何もできない」と呪いをかけられていた私ではない。
私は今、自分の力で、誰かの心を動かす光を作っている。
「……麻里さん、そんなところで立ち止まってたら、ファンに捕まっちゃいますよ」
背後から聞き慣れた、心地よい低音が響く。
振り返ると、そこには以前よりも少しだけ大人びた表情の涼介くんが立っていた。
フリーランスとして独立した彼は、今や業界でも注目の若手デザイナーだ。今日の打ち合わせでも、彼は私の意図を完璧に汲み取った、鋭くも温かいデザインを提示してくれた。
「涼介くん。……なんだか、まだ夢みたい。半年前にゴミ袋を抱えて泣いていた自分が、遠い昔のことみたいで」
「夢じゃありませんよ。麻里さんが泥を這って掴み取った現実です。……さて、次の打ち合わせまで一時間あります。少しだけ、エスケープしませんか?」
彼は私の手を取り、人混みを避けて路地裏のカフェへと滑り込んだ。
仕事モードから少しだけ解放される、私たちだけの時間。
2. 五歳の溝、沈黙の不安
カフェの隅、琥珀色の照明の下で彼と向き合う。
涼介くんは二十五歳。私は三十歳。
たった五歳。けれど、その「五」という数字が、時折、私の胸を鋭く切り裂く。
「麻里さん、さっきのプレゼン、本当にかっこよかったです。特に、ターゲットの孤独に寄り添うあの言葉。僕には到底思いつかない」
「……それは、私がそれだけ長く生きて、それだけたくさん失敗してきたからだよ」
自嘲気味に笑うと、涼介くんは少しだけ眉を寄せた。
「またそうやって、年齢のせいにする。経験は武器であって、負い目じゃないはずです」
彼の言葉は正しい。いつだって彼は、私を「一人のプロフェッショナル」として、そして「一人の女性」として、真っ直ぐに見てくれる。
大輝のような支配も、甘えもない。そこにあるのは、誠実で透明な信頼だ。
けれど、私の心の奥底には、毒液のような記憶が沈殿している。
『彼女はまだ二十三で、僕がいなきゃダメなんだ』
大輝が放ったあの言葉。彼は、私という「積み上げた時間」を捨てて、彼女という「空っぽの若さ」を選んだ。
もし、涼介くんの前に、もっと若くて、もっと無垢な女性が現れたら?
今の私のような「強さ」を持たず、守ってあげたくなるような、まっさらな二十代前半の女性が。
「……涼介くん、怖くない?」
「何がですか?」
「五歳も年上の女と付き合うこと。……周りの友達は、もっと若くて、悩みも少なくて、一緒にいて楽な子と遊んでるんじゃないの?」
気づけば、聞きたくなかった本音が溢れていた。
仕事ではあんなに強気でいられるのに、恋のことになると、私は途端に、大輝に捨てられたあの夜の惨めな女に引き戻されてしまう。
涼介くんはグラスを置き、私の目をじっと見つめた。
「麻里さん。僕は、楽をしたいからあなたを選んだんじゃない。……あなたの、その震えながらでも前を向く強さに、誰よりも惹かれたんです。若さなんて、ただの数字でしかない。僕は、三十歳のあなたが、世界で一番魅力的だと思ってる」
彼の言葉に嘘はない。それはわかる。
彼は誠実で、信頼できる。浮気の気配なんて微塵もないし、夜中に不安で電話をかける必要もない。
でも。
「信頼できる」からこそ、私は怖いのだ。
彼がいつか、私の「強さ」に疲れ、若さという無責任な安らぎを求めてしまう日が来るのではないか。
元彼が若い女に走ったという事実は、私の魂に消えない「呪い」を刻みつけていた。
3. 揺らぎの中の躍進
翌週、私はルミナスの新商品発表会のための地方出張に出ていた。
スケジュールは分刻み。地元のメディア対応、店舗の視察、そして夜は取引先との会食。
成功すればするほど、自由な時間は削られていく。
「麻里さん、顔色が悪いですよ。少し休んでください」
同行していた後輩の女子社員が心配そうに声をかける。彼女は二十四歳。大輝の浮気相手と同じ年齢だ。
透明感のある肌、迷いのない瞳。彼女を見ていると、自分がひどく「磨り減った存在」に思えてくる。
その夜、ホテルに戻ってから涼介くんにビデオ通話をした。
画面越しに見る彼の部屋は、資料やデザイン画で散らかっていた。彼もまた、私に追いつこうと必死に戦っている。
「麻里さん、お疲れ様。……元気ないですね。何かあった?」
「……ううん、ただの疲れ。涼介くんは? 仕事、順調?」
「はい。麻里さんに負けないように、新しいコンペの案を練ってるところです。……会いたいな。今すぐ飛んでいきたい」
彼の甘えるような声に、胸がキュッとなる。
「私も、会いたい」
その言葉を飲み込んで、私は「頑張ってね」と微笑んだ。
甘えるのが怖かった。重い女だと思われたくなかった。
大輝に「重い」と言われて捨てられた過去が、私の声を塞ぐ。
二十五歳の彼は、未来への希望に満ちている。
三十歳の私は、手に入れたものを守ること、そして失うことへの恐怖に支配されている。
この絶望的なコントラスト。
誠実な彼を信じたい気持ちと、裏切られた時のための予防線を張っておきたい臆病な自分が、心の中で激しくせめぎ合っていた。
4. 予期せぬノイズと、決意の萌芽
出張から戻った私を待っていたのは、更なる忙しさと、そして一通の不可解なメールだった。
差出人は、大輝。
『麻里、ルミナスのCM見たよ。……君が言ってた通り、本当にすごい場所にいっちゃったんだな。正直、今でも信じられない。
……実は、あの時の彼女と上手くいってないんだ。若ければいいっていうのは、僕の勘違いだった。中身のない相手といるのは、苦痛でしかなかった。
今更なのはわかってる。でも、一度だけでいいから、謝らせてくれないか?』
私はそのメールを読み、冷たい溜息をついた。
自分勝手にもほどがある。私が血を吐くような思いで手に入れたこの場所を、彼は「謝罪」という安っぽい免罪符で汚そうとしている。
けれど、同時に気づいた。
彼が「若いだけの女」に愛想を尽かしたのは、彼女に中身がなかったからじゃない。大輝自身に、彼女を育てる深さも、彼女を愛し抜く覚悟もなかったからだ。
「……私は、違う」
私は、自分のデスクにある鏡を見た。
そこには、三十年の月日を生き抜き、傷つき、それでも立ち上がってきた一人の大人の女性がいた。
この皺も、目の下のクマも、すべては私が戦ってきた証だ。
若さは、いつか失われる。
でも、私が積み上げてきたこの経験と、涼介くんと築き上げているこの信頼は、時間が経つほどに輝きを増していく。
私は大輝のメールをゴミ箱へ放り込み、即座に削除した。
そして、涼介くんにメッセージを送った。
『今夜、少しだけ贅沢なディナーに行かない? 私が、あなたに伝えたいことがあるの』
不安が消えたわけじゃない。
五歳の差は、これからも私を悩ませるだろう。
でも、私はもう、若さに嫉妬する惨めな女には戻らない。
私は「私」として、最高に輝く姿を彼に見せ続ける。それが、この恋を守る唯一の方法であり、私にとっての「最高の勝利」なのだから。




