新しい風、新しい私
第二部:新しい風、新しい私
1. 三十歳の朝、鏡の前で
二〇二六年一月。
その日は、かつての私にとって「終わりの日」になるはずだった。
三十歳の誕生日。
大輝と一緒に、都内の夜景が見えるレストランで指輪を渡され、二十代という「若さの市場価値」から滑り込みで「結婚」という名の安全地帯に逃げ込む――そんな臆病なシナリオを、私は数年前から勝手に書き上げていた。
けれど、実際に迎えた一月二十日の朝、私は一人でいた。
「……よし」
鏡に向かって、短く切った髪を整える。
目元には、これまでの私なら選ばなかった、少し強気なバーガンディのアイシャドウ。
かつての私が見たら「大輝はこういうの好きじゃないよ」と忠告しただろう。けれど、今の私には関係ない。これは私のための鎧だ。
机の上には、昨夜遅くまで練り上げた新しい企画書がある。
千歳屋の成功は、社内で小さな、けれど確かな旋風を巻き起こした。
「事務の麻里さんが、あの頑固な源三さんを動かしたらしい」「売上を五倍にしたらしい」
そんな噂は、尾ひれがついて制作部のフロアを駆け巡った。
その結果、私に舞い込んできたのは、国内最大手コスメブランド『ルミナス・ジャパン』の新ライン「Restart」のコンペティションへの参加権だった。
ターゲットは、人生の転機に立つ三十代の女性たち。
「おめでとう、三十歳の私」
私は、誰からの祝福よりも誇らしい気持ちで、自分自身にそう告げた。
スマホを確認すると、何件かのおめでとうメッセージの中に、涼介くんからのものがあった。
『誕生日おめでとうございます。麻里さんが三十歳になる今日、一緒に仕事ができることを光栄に思います。……夜、少しだけ時間もらえませんか? お祝いさせてください』
大輝からの連絡は、ブロックしたままだ。
今の私にとって、過去の亡霊に割く時間は一秒もなかった。
2. プロフェッショナルの共鳴
コンペの準備は、想像を絶する過酷さだった。
『ルミナス・ジャパン』が求めているのは、単なる美しさではない。挫折や葛藤を知り、それでもなお前を向く「意志のある美」だ。
「……これじゃ、まだ弱い」
深夜二時の会議室。私は涼介くんと向き合っていた。
彼は昼間、IT企業の営業として走り回り、夜は私のプロジェクトのパートナーとしてデザインを練り上げるという、ハードな日々を送っている。
「麻里さん、デザインのトーンをもっと落としませんか? キラキラした応援歌じゃなくて、深夜に一人で鏡を見た時に、静かに自分を許せるような、深い青とゴールドのコントラストにしたい」
涼介くんがタブレットを差し出す。
そこには、凛とした空気感の中に、ぬくもりを感じさせる繊細な光が描かれていた。
二十五歳の彼が、なぜこれほどまでに「大人の女性の孤独」を理解できるのか。
「……涼介くん、どうしてこの色を選んだの?」
「麻里さんを見てるからです」
彼は真っ直ぐに私を見た。
「麻里さんが、大輝さんとのことを吹っ切ろうとして、必死に、でも少しだけ震えながら立っているのを見てきたから。……その姿が、どんなモデルよりも綺麗だと思ったんです」
心臓の鼓動が、一気に速くなる。
大輝は私のことを「支えてくれる便利な道具」として見ていた。
けれど、涼介くんは私の「弱さ」を含めた「生き様」を見てくれている。
「……私、大輝を後悔させるために頑張ってるんだと思ってた」
私は不意に、心の奥に溜まっていた本音を漏らした。
「でも、違う。私は、私を好きになりたいだけなんだ。彼を見返すのは、そのための通過点に過ぎないんだって、今、気づいた」
涼介くんは優しく微笑み、私の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「その気持ち、全部企画にぶつけましょう。僕が、世界で一番かっこいいビジュアルにして支えますから」
年下の彼の手は、驚くほど熱く、力強かった。
私たちはその夜、朝焼けが街を染めるまで、一つの企画を作り上げた。
3. 圧倒的なコンペティション
コンペ当日。
『ルミナス・ジャパン』の本社会議室には、名だたる大手代理店の精鋭たちが集まっていた。
私の会社からは、私と石川部長、そして社外スタッフという名目で涼介くんが参加した。
私の番が回ってきた。
正面に座るのは、業界でも「鉄の女」と恐れられるルミナスの宣伝部長、高城氏。
私は震える手でリモコンを握り、最初のスライドを映し出した。
そこには、キャッチコピーが一つだけ。
『二十代の私を、私は、今日捨ててきた。』
会場がざわつく。
私は、自分自身の経験を、一言一言に魂を込めて語り始めた。
「これまでの化粧品広告は、『若さを保つこと』や『誰かに愛されること』を約束しすぎてきました。でも、私たちが提案するのは、裏切られた夜、鏡の中の自分を愛せるようになるための『武装』です。三十歳は、若さを失う年齢ではありません。自分を縛っていた他人の価値観を捨て、真に自由になれるスタートラインなんです」
プレゼンの後半、涼介くんが手がけたビジュアルが投影された。
それは、深い夜の闇の中で、一筋の光を浴びて立ち上がる女性の瞳。
その力強さと繊細さに、高城部長の眼鏡の奥の目が、初めて大きく見開かれた。
プレゼンが終わった瞬間、静寂が訪れた。
数秒後、高城部長がゆっくりと口を開いた。
「……麻里さん。あなた、この企画のために、何を失いましたか?」
私は一瞬だけ、大輝の顔を思い浮かべた。そして、すぐにその記憶を消し去った。
「何も失っていません。ただ、自分にとって不要なものを整理してきただけです」
高城部長の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「……素晴らしい。後日、連絡します」
会議室を出た瞬間、膝が震えて崩れそうになったのを、涼介くんが咄嗟に支えてくれた。
「麻里さん、最高でした。……本当にかっこよかった」
「ありがとう、涼介くん。……あなたがいなかったら、この色は出せなかった」
4. 予想外の「再会」の形
コンペの手応えを感じながら、私は会社に戻ろうとしていた。
すると、ロビーのカフェに、見覚えのある背中を見つけた。
大輝だ。
隣には、あの日イタリアンレストランで名前を挙げられていた、若い彼女――美咲が座っている。
どうやら、大輝の会社もルミナスの別の案件で出入りしているようだった。
けれど、そこにいた二人の姿は、私が想像していた「浮気をして幸せそうにしているカップル」とは程遠かった。
大輝は、スマホをいじりながら不機嫌そうにコーヒーを飲んでいる。
美咲は、そんな彼の顔色を伺うように、必死に話しかけていた。
「ねえ、大輝くん。今週末のデート、どこに行く? 私、新しいカフェに行きたくて……」
「……仕事が忙しいって言っただろ。適当に決めておけよ。麻里は、いつも予約とか全部やってくれたんだけどな……」
大輝の口から出た私の名前に、私は足が止まった。
彼は、美咲に対しても、かつての私にしていたのと同じように「依存」し、自分の思い通りにならないと不機嫌になるという幼稚な振る舞いを繰り返しているのだ。
一方の美咲も、若さゆえの自信はどこへやら、自分を押し殺して彼に尽くそうとしている。
その姿は、数ヶ月前の私の写し鏡だった。
私は、彼らに近づくこともせず、ただ遠くからその滑稽な景色を眺めた。
ビンタ? 罵倒?
そんな必要さえない。
彼は、自分自身の傲慢さという沼の中で、勝手に沈んでいくのだ。そして、新しい彼女もまた、彼の本性に気づき、やがて疲弊していく。
「……さようなら、私の停滞していた五年」
私は、彼らの視線がこちらに向く前に、踵を返した。
その時、涼介くんが私の横に並び、自然に私の肩を抱いた。
「麻里さん、あっちに美味しいケーキ屋があるんです。三十歳の誕生日の本番は、これからですよ」
「……ふふ、そうだね。行こう」
私は一度も振り返らなかった。
私を捨てたことを後悔させる?
そんな小さな目標は、もう過去のものだ。
私は、彼が一生かかってもたどり着けない、もっと高い場所へ行く。
私の足取りは、かつてないほど軽かった。




