灰の中から昇る太陽
第一部:灰の中から昇る太陽
1. 牙を研ぐ日々
大輝と別れてから一週間。私の生活から「色」が消えた。
いや、正確には「彼好みのパステルカラー」が消えたのだ。
二十代の後半、私は無意識のうちに自分を「大輝の所有物」として最適化していた。部屋には彼が落ち着くと言ったベージュのラグを敷き、クローゼットには彼が「女の子らしいね」と笑った膝丈のスカートが並ぶ。
仕事が終われば、真っ先にスーパーのタイムセールへ駆け込み、彼の健康を考えた薄味の和食を作る。それが幸せだと信じ込もうとしていた。
けれど今、ゴミ袋三袋分に及ぶ「彼の残骸」を捨て去った部屋は、殺風景だが驚くほど風通しがいい。
私は、二十九歳の最後の悪あがきを始めた。
「部長、例の『千歳屋』の再生案件、私に担当させてください」
月曜の朝、広告代理店『アド・クリエイト』の制作部長、石川のデスクに私は立っていた。
千歳屋は創業八十年の老舗和菓子店だが、経営難で広告予算もほとんどない。偏屈な店主のせいで、社内では「関わったら最後、精神を病む」と恐れられている案件だ。
「……麻里くん、正気か? 君はもっと、大手の化粧品メーカーの進行管理とか、そういう安定した仕事の方が向いているだろう」
石川部長の言葉には「女なんだから、そんな泥臭い真似をしなくても」というニュアンスが透けて見えた。以前の私なら、その配慮に甘えていただろう。でも、今はその優しさが、自分を檻に閉じ込める鎖に見えた。
「安定なんて、もう要りません。自分の手で、死にかけの商品を生き返らせてみたいんです。それができないなら、この会社に私の居場所はありません」
私の声に、フロアの視線が集まる。大輝との別れで何かが吹っ切れた私の目は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。
2. 老舗の壁と、孤独な潜伏
千歳屋の店主・源三さんは、噂以上の難敵だった。
「広告? どこの馬の骨ともわからん奴に、うちの暖簾を汚されてたまるか!」
何度足を運んでも、塩を撒かれんばかりの勢いで追い返される。
私は、作戦を変えた。
スーツを脱ぎ捨て、動きやすいデニムとスニーカーに履き替えた。毎日、開店前から店の前を掃除し、客が来れば「おはようございます!」と声をかける。
源三さんが仕込みを始める早朝四時、私は工場の裏口に座り込み、ただ黙って彼の作業を見つめた。
「……何しに来やがった」
三日目の朝、ようやく源三さんが口を開いた。
「何も。ただ、源三さんの手を見ていただけです」
「手だと?」
「指先にタコができて、爪の間まで小豆の香りが染み付いている。その手が作る羊羹が、古臭いという理由だけで消えていくのが、私は許せないんです」
源三さんの手が、一瞬止まった。
「……勝手にしろ。だが、邪魔だけはするな」
そこから私は、店を手伝いながら、徹底的なフィールドワークを行った。客層、動線、街の空気。夜は会社のデスクで、過去の成功事例をあさり、千歳屋に足りない「現代の言葉」を探し続けた。
3. 25歳の「同志」との邂逅
そんなある日の夕暮れ。
店のショーケースを熱心に覗き込んでいる青年がいた。
清潔感のある白いシャツに、機能性の高そうなバックパック。整った顔立ちだが、どこか影のある、知的な瞳。
「ここの羊羹、断面のグラデーションが完璧ですよね。まるで夕暮れ時の空みたいだ」
彼がつぶやいた言葉に、私は思わず身を乗り出した。
「わかりますか? 源三さんは火加減だけで、この色を出しているんです」
彼は驚いたように私を見た。
「あ、すみません。独り言です。僕は瀬尾涼介と言います。……実は、デザインを仕事にしたかったんですけど、今はIT企業の営業をやっていて」
話を聞くと、彼は二十五歳。学生時代は美大でデザインを専攻していたが、現実的な選択として安定した企業に就職したという。けれど情熱を捨てきれず、週末は個人の活動として、地域の商店や友人のロゴデザインを請け負っているのだそうだ。
「営業の仕事も嫌いじゃないです。でも、心の一箇所が、いつも乾いてる感覚があって。……この店の羊羹を見た時、久しぶりに『作りたい』って思ったんです」
涼介くんの言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
私も、大輝との結婚という「安定」のために、自分の情熱を押し殺していたから。
「涼介くん。私と一緒に、この店を救わない? 予算は出せない。でも、あなたのデザインが、この街の景色を変える瞬間を、私が見せてあげる」
私の無謀な誘いに、涼介くんは戸惑ったように笑った。
「……年上の女性にそんなこと言われたら、断る理由がないですね」
こうして、三十歳を目前にした崖っぷちの会社員と、夢を燻ぶらせた二十五歳のサラリーマン。奇妙なタッグが結成された。
4. 小さな革命:限定羊羹「琥珀月」
私たちは動いた。
私は、これまでの事務職で培った「緻密なスケジュール管理」と、フィールドワークで得た「主婦層のインサイト」を企画に詰め込んだ。
涼介くんは、本業が終わった後の深夜、私の言葉を魔法のようなビジュアルに変えていった。
彼が持ってきたパッケージデザインを見た時、私は鳥肌が立った。
「琥珀月」と名付けられた限定商品は、伝統的な和紙を使いつつも、ロゴは極めてモダン。
「古い」を「クラシック」へ、「地味」を「マチュア(成熟)」へ。彼のデザインは、源三さんの魂に新しい時代の服を着せた。
「……これ、うちの羊羹か?」
源三さんが、震える手で試作の箱を持った。
「そうです。源三さんの技術は、今の若い世代にも必ず響く。私たちがそれを証明します」
プロモーションは、SNSを中心とした草の根活動。
涼介くんが撮影した「映える」写真は瞬く間に拡散された。私は街のカフェや雑貨店を一軒ずつ回り、この羊羹を「自分へのご褒美」として置いてほしいと頭を下げた。
そして迎えた、地元のお祭りの日。
「……嘘だろ」
開店一時間前。店の前には、百人を超える行列ができていた。
主婦、女子大生、そしてかつての常連客。
「インスタで見ました」「素敵なデザインで、一目で気になって」
そんな声が飛び交う中、羊羹は飛ぶように売れていく。
「麻里さん、見てください! 完売です!」
涼介くんが、タブレットの売上データを見せながら駆け寄ってきた。その瞳は、出会った時の影が嘘のように、輝きに満ちていた。
「やったね、涼介くん。……ありがとう」
「僕の方こそ。麻里さんの執念に、火をつけられました」
祭りの終わり。夕闇の中で、私たちは小さなハイタッチをした。
それは、大輝と交わしたどの抱擁よりも、私の心を満たしてくれた。
5. 過去からのノイズ、未来への決意
その夜、打ち上げを終えた私のスマホに、一通の通知が届いた。
大輝からだった。
『麻里、最近頑張ってるって聞いたよ。なんか、昔の君とは全然違うな。……少し、会えないか? 彼女とも、価値観の違いというか……色々とあって』
かつての私なら、この通知を見た瞬間に、全てを投げ出して彼のもとへ走っていただろう。
「彼女と上手くいってない」という言葉に、優越感を抱きながら。
けれど今、私の指先に迷いはなかった。
「……ダサい」
口をついて出たのは、一言。
彼は、自分の人生を自分で切り拓こうとせず、常に誰かに依存して、誰かに自分を全肯定してもらいたいだけなのだ。
対して、私の隣で一緒に戦った涼介くんは、たとえ回り道をしていても、自分の情熱に正直であろうともがいていた。
私は大輝の連絡先を表示し、そのまま「ブロック」をタップした。
画面から彼の名前が消える。
同時に、私の胸の中にあった最後の淀みが、スッと消えていくのがわかった。
「麻里さん、どうしました?」
隣を歩く涼介くんが、不思議そうに覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない。ただ、明日からの仕事が楽しみだなって思って」
「いいですね、それ。次はもっと大きいこと、やりましょうよ」
涼介くんの屈託のない笑顔が、夜道に溶け込んでいく。
三十歳まで、あと一週間。
最高の誕生日に向けて、私の物語は加速し始めた。




