砂の城が崩れる音
序章:砂の城が崩れる音
「……別れてほしい」
恵比寿の駅ビルに入る、少しおしゃれなイタリアン。二十九歳。一ヶ月後に三十歳の誕生日を控えた私、麻里にとって、その言葉は予想だにしない方向から飛んできた毒矢だった。
目の前に座る大輝は、五年経っても変わらない、少し垂れ目の優しげな顔をしている。私が選んだ紺色のシャツを着て、私が誕生日に贈った時計を左手首に巻いている。その彼が、私の五年を一瞬で無に帰す言葉を口にした。
「別れる……って、どういうこと? 私たち、そろそろ結婚の話をするんじゃなかったの?」
喉の奥が引き攣れる。パスタの茹で上がる香りが、急に吐き気を催すような異臭に変わった。
大輝は視線を泳がせ、テーブルの端にあるナプキンをいじりながら言った。
「他に、好きな人ができたんだ。……彼女と、将来のことを考えたいと思ってる」
「彼女……?」
頭の中が真っ白になる。将来。その言葉は、私がこの五年間、彼と一緒に育んできたはずのものだった。
私の二十代。仕事に悩み、体調を崩し、それでも大輝がいれば大丈夫だと思って乗り越えてきた時間。彼が昇進試験に落ちたときも、一番そばで励ましたのは私だ。彼の好みに合わせて髪を伸ばし、料理を覚え、彼の転勤の噂が出たときは、キャリアを捨てる覚悟さえ決めていた。
「誰なの? その彼女って」
「……同じ会社の、後輩なんだ。二十三歳の」
二十三歳。
その数字が、鋭利な刃物となって私の胸をえぐった。
私がもう二度と手に入れることのできない「若さ」という唯一の武器を、その女は持っている。それだけで、私の五年間は敗北したというのか。
「いつから?」
「……半年、前から」
半年。その言葉に、私は椅子から転げ落ちそうになった。
半年間。彼は私とデートをし、私の手料理を食べ、私の隣で眠りながら、その若い女のことも抱き、将来を語り合っていたのだ。
「二股……だったってこと?」
「結果的には、そうなるかもしれない。でも、麻里には感謝してるんだ。本当に、これまで支えてくれてありがとうって……」
「感謝……?」
その言葉が、私の導火線に火をつけた。
「感謝って何? 五年も付き合って、結婚を目前にして、半年も裏切っておいて、最後に『感謝』の一言で清算できると思ってるの? 私の二十代を、あなたの『感謝』なんていう安い言葉で踏みつけにしないで!」
周囲の客がこちらを盗み見るのがわかったが、どうでもよかった。
大輝は困ったように眉を下げた。その「いい人」を崩さない態度が、何よりも汚らわしく見えた。
「麻里なら、僕がいなくても一人でやっていけるだろ? 彼女はまだ若くて、僕がいないとダメなんだ」
使い古された、最悪のテンプレート。
「一人でやっていける」と言われる強さを身につけるために、私がどれだけ努力してきたか、この男は何もわかっていない。
右手が震えた。思い切りビンタをして、この整った顔を歪ませてやりたい。
けれど、私はぐっと拳を握りしめた。ここで泣き喚いて彼を殴れば、私はただの「捨てられた哀れな三十路前の女」として彼の記憶に残るだけだ。
それは、死んでも嫌だった。
私はゆっくりと深呼吸をし、椅子を引いて立ち上がった。
バッグを肩にかけ、冷徹な視線で大輝を射抜く。
「……大輝。今の言葉、一生忘れないで」
「麻里……?」
「私を振ったこと、死ぬほど後悔させてあげる。あなたが二度と手の届かない場所まで、私は上り詰めるから。地獄の底から、指をくわえて見てなさい」
言い放ち、私は一度も振り返らずに店を出た。
家に戻ると、視界に入るものすべてが大輝の残骸だった。
洗面所の歯ブラシ、クローゼットに掛かった予備のジャケット、本棚に並ぶ共通の趣味の漫画。
私は大きなゴミ袋を三枚、乱暴に広げた。
「ふざけんな……ふざけんな!!」
叫びながら、それらをゴミ袋に投げ込む。
所詮、若い女にしか興味のない、中身のスカスカな男だったのだ。そんな男に、私は五年間も人生を委ねようとしていた。
「三十歳? 上等じゃない」
ゴミ袋の口を、これ以上ないほどきつく縛る。
鏡に映った私の目は、泣き腫らしてはいたが、かつてないほど鋭い光を宿していた。
泣くのは今夜で終わり。
明日からは、私を捨てたことを呪うような、最高に輝く私になってやる。
冬の夜の冷たい空気の中、私は自分自身に、そして見えない敵に対して、静かに、けれど激しく宣戦布告した




