3 虚言の少年 2
夜の帳が下りると、気温は急激に下がった。
街外れの丘の上にある廃墟。
かつて音楽堂だったその場所は、天井が抜け落ち、冷たい風が容赦なく吹き込んでいた。
レオは、妹のミナを背負ってここまで登ってきた。
肩で息をして、足は震えている。
けれど、妹を降ろした瞬間、彼は「嘘つきの仮面」を被り直した。
「さあミナ、着いたよ。ここが王宮の音楽ホールだ」
「わあ……。風が通って、涼しいのね」
ミナが、崩れかけた壁の方を向いて微笑む。
その顔色は土気色で、指先はもう透け始めていた。
世界の白紙化が、彼女の足元まで迫っている。
レオは震える手で、部屋の中央に残されたピアノに向かった。
塗装は剥げ、弦も錆びついている。
まともな音が出る保証なんてない。
(やるしかない。……俺の嘘で、ミナを繋ぎ止めるんだ)
レオが鍵盤を叩く。
ポロン、と調律の外れた、間の抜けた音が響いた。
弦が死んでいる。
音が伸びず、すぐに風にかき消されてしまう。
プロが聞けば耳を塞ぐような、あまりに貧相な音色だ。
だが、ミナは嬉しそうに手を合わせた。
「素敵……! お兄ちゃん、上手!」
その言葉を聞いた瞬間、レオの目から涙が溢れ出した。
泣きながら、彼は必死に鍵盤を叩き続ける。
もっと、もっと夢を見せなきゃいけない。
こんな瓦礫の山を、世界で一番美しい王宮だと思わせなきゃいけない。
岩陰で見ていた僕は、小さく息を吐いた。
「……トガキ。仕事だ」
『承知いたしました……』
トガキが空中に素早く記述を書き込む。
<演出:月光の乱反射。対象:散らばったステンドグラスの破片>
<追加:音響空間の拡張。残響時間3.5秒>
次の瞬間。
世界が変わった。
まずは光だ。
天井の穴から差し込んでいた月明かりが、床のガラス片に当たって爆発的に拡散する。
廃墟の中を舞う埃までもが、光の乱反射を受けて金粉のようにきらめき、まるで雪のように舞い始めた。
そして、音。
レオが叩いた錆びついた音が、消えずに空気を震わせた。
ボロボロの壁や崩れた天井に音が反響し、幾重にも重なっていく。
それはまるで、最高級のコンサートホールで弾いているかのような、深みのある荘厳な響きとなってミナの耳に届いた。
風の音すらも、美しい伴奏のように溶け込んでいく。
「わあ……っ!」
ミナが声を上げた。
見えないはずの光が肌を温かく包み、降り注ぐような音のシャワーが全身を震わせる。
「すごい……。音が、降ってくるみたい……!」
レオが顔を上げる。
自分の指から紡ぎ出される音が、魔法のように美しく響き渡っている。
涙でぐしゃぐしゃの彼の視界いっぱいに、あり得ないはずの光と音の乱舞が映り込む。
それはあまりに美しく儚い光景だった。
レオは、僕がいる岩陰を一瞬だけ見た気がした。
そして、ニカっと笑い、鍵盤を強く叩いた。
「――聴いてくれミナ! これが、王宮の演奏会のフィナーレだ!」
ジャァァン! と和音が力強く響き渡る。
残響がいつまでも、いつまでも消えずに夜空へと昇っていく。
その瞬間、僕の目には見えた。
レオの全身から立ち上っていた「濁った紫」から、不純物が焼き払われていくのを。
嘘も、見栄も、劣等感も、すべてが「妹への愛」という熱で純化され、透き通っていく。
後に残ったのは、王者のガウンのように気高く、どこまでも澄んだ「ロイヤルパープル」。
「……綺麗だ」
僕は思わず呟き、背中の本を開いた。
筆が走る。
嘘つき少年が、たった一人の観客のために、神様すら騙してみせた一世一代の名演。
トガキが、ページの余白に注釈を入れる。
※注釈:
対象:レオ
成分:『献身』
解析:彼の嘘は、世界で一番優しい「真実」だった。
「頂いたよ。……殿下」
クロの小さな呟きは吹き抜ける風に乗せられ、誰の耳にも届かず消えた。
♢
翌朝。
レオとミナが帰った後、その音楽堂があった丘の一帯は、静かに白い霧に包まれた。
「白紙化」だ。
音楽堂も、あのピアノも、最初からなかったかのように消滅した。
だが、レオは生きている。
ミナの手を引いて、少しだけ胸を張って歩いている。
彼の胸の中にある「紫色の輝き」がある限り、彼女が世界から消えることはないだろう。
パッチが鼻をすすりながら呟く
「……ギリギリだった。レオ良かったなぁ」
パッチは目を潤ませながらクロを覗き込む。
「なぁ、知ってたのか?あそこがもう消えちまうって」
「いや、知らなかったよ」
「そうなのか!じゃあ、間にあってほんとによかったな!」
『パッチ、貴方は毎度感情移入しすぎですよ』
「いいじゃないか!」
トガキとパッチは何度目かの言い合いを始めた。
こうなると止めても意味ない。
「クロはどう思う?」『旦那様はどう思われますか?』
そして、こうして僕に意見を求めてくる。
全く、息ピッタリじゃないか。
「はぁ、喧嘩するなら置いていくぞ」
パッチとトガキは慌てて謝罪してくる。
これも、もう何度も繰り返しているやり取りだ。
(…変な奴らだ、全く)
クロはどこか楽しそうに微笑んで、次の街へと歩き出した。
世界の終わりは、すぐそこまで迫っている。
♢
X●前
『旦那様、この生き物はあまりに感情的すぎます。旦那様の仕事に支障をきたす可能性が高いです』
腰に差したトガキが、インクを滲ませて深刻そうに告げる。
「そうかい?」
僕は少し離れたところで、置いてあるご飯を、目を輝かせてみているパッチに視線を向ける。
ぬいぐるみだから食べることはできない。
けれどパッチは、湯気の温かさや匂いを、全身で楽しんでいるようだった。
『感情的な存在がそばに居ては影響を受ける可能性が高いと過去のデータが言っております。その場合、旦那様があの御方に…』
「トガキ」
トガキの言葉を止めるように被せた。
視線をパッチから外し、揺らめく焚き火の炎を見つめる
「感情的な存在がそばに居ることは危険かもしれない。…でも、感情は宝だ。」
『宝、ですか』
「あぁ、それがどんなに醜くても、哀れでも、高潔でも何も変わらない。そのどれもが、大切にされてしかるべきだ。だからこそ僕たちはそれを集めてる。」
僕は夜空を見上げた。
星は変わらず、美しく輝いていた。
「その点、人は素晴らしい。感情が豊富だ。いつどんな時でも感情に揺れている。感情が溢れている瞬間しか、この目に色を移せない僕にとって、全ての感情が美しい。…そんな色をたくさん持っている人々を見るのは本当に興味深い。」
僕は目を閉じて噛みしめるように言葉を紡いだ。
「…だから、パッチは変わる必要はない。パッチが感情的で危険だとしても、それが…良い所なんじゃないか。あの子がいるから、僕の旅物語は、より色付くんじゃないかな。」
そう話すクロが浮かべる表情は、トガキが見てきた世界編纂者の中でもっとも優しい表情だった。




