1 踊り子の少女
拝啓。
創造主様、あなたがボツにしたこの世界は、今日も相変わらず「灰色」です。
僕の目には、そう映っています。
空も、大地も、人々が住むレンガ造りの家並みも。
すべてが彩度を失い、古いモノクロ映画のように沈殿している。
まるで、世界全体が「もう終わりでいいよね」と諦めているみたいだ。
「……おいクロ、危ねえぞ! 右だ右! 人がいる!」
耳元でギャーギャー喚くのは、肩に乗った継ぎ接ぎだらけのぬいぐるみ、パッチだ。
僕は言われた通りに右へステップを踏み、正面から歩いてきた通行人を避ける。
僕の虚ろな瞳には、人間の姿形は見えていない。
そこにあるのは、灰色の景色に滲む、ボンヤリとした「薄い影」だけ。
彼らがどんな顔で、どんな服を着ているのか。
僕には認識する権限がない。
「すまない、パッチ。……影が薄すぎて、気づかなかった」
「まったくもう! お前、その目でよく『世界編纂者』なんて大層な仕事ができるよな!?」
「視力は関係ないさ。僕に必要なのは、表面的な形じゃない」
僕は、オペラグラスの位置を直しながら、スラム街の奥へと視線を向けた。
――ズキン、と網膜が熱くなる。
灰色の視界の奥底で、そこだけが鮮烈に「発光」していた。
「……見つけた。極上の『赤色』だ」
「旦那様、あそこの酒場ですね」
腰のホルスターに差した万年筆――トガキが、ひとりでに震えて空中に文字を書く。
『深度:Aクラス。成分:憤怒および渇望。……ふむ、なかなか純度の高いインクが取れそうですな』
「ああ。久しぶりの特ダネになりそうだ」
僕は背中の巨大な白い本を背負い直し、その「光」の方角へと歩き出した。
世界がどれほど灰色に塗りつぶされようとも、人間が抗うその一瞬の輝きだけは、誰にも隠せやしないのだ。
♢
酒場の中は、腐った酒と汗の臭いが充満していた。
僕の目には、客たちは「灰色のモヤ」の集合体にしか見えない。
彼らの話し声も、ノイズのように耳障りだ。
「踊れ! もっと足を上げろ、このドブネズミ!」
瓶が割れる音がした。
舞台の中央で踊っていたのは、一人の少女だった。
彼女だけは、はっきりと見えた。
ボサボサの髪に、泥と垢にまみれた肌。
服なんて呼べないようなボロ布を纏っている。
だが、その胸の奥から、燃え盛るような「ルビー色の炎」が噴き出していた。
「うわぁ、ひでぇ……。なぁクロ、助けてやろうぜ? あの子、足から血が出てるぞ」
パッチが僕の肩で涙目になる。
だが、僕は首を横に振った。
「よく見ろ。彼女は助けなんて求めてない」
少女の目は、客たちを睨みつけていた。
媚びることも、泣くこともしていない。
その瞳の奥にあるのは、強烈な殺意と、渇望。
——あいつらを見返したい。
——こんな場所で終わってたまるか。
そのドロドロとした「醜い感情」こそが、この死にかけた世界で唯一、美しい色を放っている。
「……いいな」
僕はニヤリと笑い、客を押しのけて舞台の前へ進んだ。
「おい、邪魔だぞ!」
怒号を無視して、彼女の足元に一枚の羊皮紙を放り投げる。
踊りが止まった。
「……何これ。哀れみなら、他をあたって」
少女が低い声で唸る。
まるで警戒心丸出しの野良猫だ。
「哀れみ? まさか。僕は君の踊りが気に入らないだけだ」
僕は彼女の血に濡れた足を指差した。
「ステップは悪くない。だが、舞台が狭すぎる。天井が低すぎる。……そんな薄暗い箱の中で、君の魂が燃やせるわけがない」
「はあ? 何が言いたいのよ」
「その紙を見てみろ」
彼女がいぶかしげに羊皮紙を拾う。
それは、この街の裏手にそびえ立つ岩山——『雲突き山』の地図だ。
「そこに行けば、最高の舞台がある。君が本当に踊るべき場所だ」
「馬鹿じゃないの。あそこは断崖絶壁よ。死ねってこと?」
「死ぬかもしれないね。でも、ここで一生ドブネズミとして踊るよりは、マシなんじゃないか?」
彼女の目が揺れた。
ちょうど先ほど、店主から「明日からクビだ」と告げられたばかりだったのだろうか。
それとも、客たちの嘲笑に心が折れかけていたのか。
彼女は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、僕を睨んだ。
「……あんた、私が逃げると思ってるんでしょ」
「さあね。逃げるも踊るも君次第だ」
僕はそれだけ言い残し、背を向けた。
怪我は治してやらない。
魔物除けの加護も与えない。
編集者である僕が与えるのは、ただの「機会」だけだ。
「旦那様、確率的に無駄です。あの娘の体力では登頂成功率15%。途中で野垂れ死んで、せっかくの『赤色』が無駄になりますぞ」
トガキが小言を言うが、僕は無視して店を出た。
「賭けてもいい。彼女は登るよ。……あの醜い『意地』がある限りね」
♢
翌朝。
雲突き山の頂上付近。
「はぁ、はぁ……ッ! あの男、殺してやる……!」
少女——ライラは、岩肌に爪を立てて這い上がっていた。
昨日の今日だ。
準備なんてあるわけがない。
裸足の足は岩で裂け、鮮血で赤く染まっている。
爪は剥がれ、泥と血が混じり合って、見るも無惨な状態だった。
「ひっ、うう……見てらんねぇよぉ!」
岩陰からこっそり覗いていたパッチが、顔を覆って号泣している。
トガキですら、沈黙してインクを漏らしていた。
彼女を動かしているのは、希望なんて綺麗なものじゃない。
自分を馬鹿にした客への復讐心。
そして、「本当の舞台」とやらを見届けなければ死んでも死にきれないという執念だ。
最高だ。
その「負の感情」こそが、彼女をここまで連れてきた。
そして、彼女は最後の一歩を踏み出し——山頂の広場に出た。
「……あ」
ライラの瞳が、限界まで見開かれる。
悪態が、喉の奥で消えた。
そこには、昨日の雨が巨大な水たまりを作り出し、鏡のように広がっていた。
ちょうど今、稜線から太陽が昇る。
燃えるような朝焼けが水面に映り込み、空と大地の境界線が消滅していた。
360度、すべてが「空」。
世界が、茜色と黄金色に燃えている。
その圧倒的な自然の芸術の中に、ライラはたった一人で立っていた。
「……すごい」
彼女は自分の足元を見た。
血と泥で汚れ、世界で一番醜いと思っていた自分の足。
それが今、空を踏みしめている。
黄金の光の中に溶け込んでいる。
彼女の中の「惨めさ」が、朝日に焼かれて蒸発していく。
代わりに込み上げてきたのは、震えるほどの高揚感。
「——踊らなきゃ」
誰に言われるでもなく、ライラは腕を上げた。
金のためじゃない。
自分らしく生きるために。
バシャッ、と水飛沫が宝石のように跳ねた。
彼女が回るたびに、汗と涙と血が、光の粒となって空に舞う。
それは、どんな宮廷舞踏会よりも気高く、どんな宝石よりも鮮烈な「生」の輝きだった。
「……頂いたよ。極上の『名場面』だ」
僕は背中の本を開いた。
ページの上を、万年筆のトガキが走る。
スラムの踊り子が、天空の鏡で世界を従えて踊る瞬間。
その魂が放つ、ルビーのような情熱の赤色を、余すことなく記録する。
「うおおお! すげぇ! すげぇよライラぁ!」
パッチが大はしゃぎで飛び跳ねる。
やがて、太陽が完全に昇りきると、ライラはその場に崩れ落ちた。
大の字になって、空を見上げている。
その顔は泥だらけだったが、憑き物が落ちたように笑っていた。
僕は本を閉じた。
「さて、行こうか」
「えっ、声かけないのかよ!? 『よくやった』とかさぁ!」
「野暮なこと言うなよ。彼女の人生の主役は彼女だ。……エキストラは、退場する時間だよ」
彼女の人生は、何も変わらないかもしれない。
山を降りれば、また灰色のスラム生活だ。
けれど、彼女の魂にはもう、一生消えない「太陽」が焼き付いている。
その輝きがあれば、彼女はもうドブネズミじゃない。
僕は空を見上げた。
灰色の空に、ほんの少しだけ、赤色が混じった気がした。
さあ、次はどんな醜くて美しい人間が、僕を待っているだろうか。
第1話を読んでくださり、ありがとうございます。
本作は、年末年始の期間にお届けする連載小説です。
‖更新について 基本的には毎日更新を目指しますが、執筆の進み具合によっては隔日となる場合もございます。
年始までのひととき、お時間がある時にお付き合いいただけますと幸いです。




