雨音の合唱
観測史上最長の豪雨が続く町。在宅で仕事をする私の耳に、雨音に混じって奇妙な音が届き始める。それは大勢の人間が何かをすするような不気味な合唱。音は日増しに大きくなり、家を包囲する。ついに玄関のドアが叩かれ、声が聞こえる。「水をください」と。
その夏、私たちの町は、灰色のカーテンに閉ざされていた。観測史上最長となる連続降雨記録を更新し続ける雨は、もう二週間以上、太陽の光を地面から遠ざけている。世界から色彩という概念が失われ、全てが湿ったモノクロームに変わってしまったかのようだ。
私はフリーランスのライターで、ほとんどの時間を自宅の書斎で過ごしている。社会との接点は、メールと電話、そして週に一度の買い出しだけ。一人でいることには慣れているし、むしろ集中できる環境を好んでいた。だから、降り続く雨も、最初のうちは、思考を妨げる雑音を遮断してくれる天然のホワイトノイズのように感じていた。あの、忌まわしい音を聞くまでは。
異変は、雨が特にその勢いを増す夜に、決まって訪れた。
「ず…、ずずっ…」
それは、雨が屋根や窓を叩く音の向こうから、微かに聞こえてくる音だった。何かをすするような、粘着質で湿った音。最初は、隣の家の住人が夜食に麺類でも食べているのだろう、くらいにしか思わなかった。あるいは、古くなった排水管を水が流れる時に、そんな音が出るのかもしれない。そう、私は合理的な説明をつけようと試みた。
しかし、音は毎晩のように聞こえ、しかも、それは日に日に悪化していった。一つの音源から発せられているのではない。
「ずる…、ずずずっ…、ずっ…ずるる…」
何十人、いや、もしかしたら何百人もの人間が、私の家の周りを取り囲み、一斉に何かをすすり上げている。そんなおぞましい情景が目に浮かぶような、不気味な合唱。音は家の周りをぐるぐると、まるで獲物を探す獣のように徘徊しているように感じられた。東側の窓際で聞こえたかと思うと、数分後には西側の壁の向こうから。そして、深夜を過ぎる頃には、決まって玄関の前で、ぴたりと止まるのだ。
眠れない夜が続いた。私は警察に相談の電話をかけた。震える声で、夜な夜な聞こえる不審な音について説明したが、電話口の若い警官はあからさまに面倒臭そうな声で、「雨音の聞き間違いでしょう。不安なのは分かりますが、こちらも人手不足でして」と、まともに取り合ってはくれなかった。当然の反応だ。自分でも、正気ではないのではないかと疑い始めていた。だが、音は確実に存在するのだ。私の耳に、脳に、こびりついて離れない。
私は、音の正体を突き止めようと躍起になった。高性能なマイクを買い、音のする方へ向けて録音を試みた。しかし、再生してみると、聞こえるのはザーザーという激しい雨音だけ。あの不快な「すする音」は、一切記録されていなかった。まるで、私にしか聞こえない音であるかのように。その事実は、私をさらに深い孤独と恐怖の淵に突き落とした。
ヘッドフォンで耳を完全に塞ぎ、大音量でクラシック音楽を流してもみた。しかし、無駄だった。ベートーヴェンの壮大な交響曲の隙間から、チャイコフスキーの繊細な旋律の向こうから、あの「ずる、ずる」という音が、まるで幻聴のように、いや、幻聴ではなく、頭蓋の内側から直接響いてくるのだ。
そして、昨日の夜。運命の夜がやってきた。
雨足はさらに強まり、町の広報無線が、ついに避難勧告が発令されたことを告げていた。近所の川は、もう氾濫寸前だという。外は、風と雨が狂ったように荒れ狂い、家がミシミシと軋む音がする。世界の終わりの前夜祭のようだった。そして、あの音も、これまでで一番大きく、鮮明に、すぐそこで聞こえていた。
「ずるるるっ…!ずずっ…!ずるっ…!」
それはもう、家の外壁一枚を隔てただけの場所から聞こえてくる。まるで、壁に耳をぴったりとつけて、大勢が何かをすすっているかのようだ。恐怖でソファの上で体をボールのように丸めていると、
ドン。ドン。ドン。
玄関のドアが、ゆっくりと、しかし重々しく叩かれた。
心臓が喉から飛び出しそうになり、呼吸が止まる。こんな記録的な豪雨の中、避難勧告まで出ているこの状況で、訪ねてくる人間などいるはずがない。セールスでも、近所の回覧板でもない。それは、絶対に、この世の者ではない。
私は、音を立てないように、四つん這いになって廊下を進み、震える手でドアスコープを握りしめた。息を殺し、レンズの向こう側を覗き込む。レンズは雨粒に濡れ、視界は酷く歪んでいたが、それでもはっきりと分かった。
ドアの前に、黒い人影のようなものが立っている。一つじゃない。男も女も、老人も子供もいるように見える。いくつもの、何十もの影が、ドアの前に密集し、雨に打たれながら、じっとこちらを、家の中を窺っている。
「ずる…」
ドアの向こうから、すすり泣くような、すするような声が聞こえた。
「水を…どうか…水をください…」
か細い、老若男女の入り混じった、いくつもの声が重なり合って、一つの不気味な響きとなって聞こえる。彼らは、喉が渇いて、渇いて、たまらないのだという。その声には、切実な、しかしどこか怨念めいた響きがあった。
「こんなに…こんなに雨が降っているのに…どうして…」
私が震える声で呟くと、ドアの向こうの声たちは、まるで私の独り言を聞き取ったかのように、一斉に、静かに、しかしはっきりと答えた。
「この雨は、飲めないのです」
「これは、私たちの涙だから」
「かつて、この土地で、水に飲まれた者たちの、渇きと悲しみの涙だから」
「私たちの体から、流れ落ちた、最後の水分だから」
理解できなかった。理解したくもなかった。その言葉の意味を考えてしまえば、正気ではいられない。私はその場にへたり込み、両手で強く耳を塞いだ。しかし、声も、すする音も、そして断続的に続くドアを叩く音も、止むことはなかった。それは、永遠に続くかと思われた。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふと、全ての音が止んだ。悪夢から覚めたかのような、唐突な静寂。聞こえるのは、先ほどまでの狂騒が嘘のように、幾分勢いの弱まった雨音だけだ。
恐る恐る、もう一度ドアスコープを覗く。人影は、綺麗さっぱり消えていた。
安堵のため息をつき、全身の力が抜けていくのを感じた、その瞬間だった。
視界の隅、ドアの下の、わずかな隙間。そこから、黒い水が、じわりと、音もなく染み込んできた。それはインクを垂らしたように、あっという間に玄関のたたきに広がり、リビングのフローリングにまで達する。
そして、その黒い水たまりの中から、にゅるり、と、まるで泥の中から現れるように、青白い手が一本、伸びてきた。その手は、ためらうことなく、へたり込んでいる私の足首を、氷のような冷たさで、ぐっと掴んだ。
「見つけた」
家の中に、あの合唱が、今度はすぐ側で、私の耳元で、鳴り響いた。
「ずるるるるるるるっ!」
無数の手が、床から、壁から、天井から染み出した黒い水たまりの中から現れ、私の体に絡みついてきた。私は、悲鳴を上げる間もなく、じわりと広がる闇の中へと、ゆっくりと引きずり込まれていった。
後日、避難勧告が解除された後、連絡が取れない私を心配した親族がこの家を訪れた。家の中は、奇妙なことに、どこも濡れておらず、荒らされた形跡もなかったという。ただ、私の姿だけが、どこにもなかった。
しかし、その家では、それ以来、誰も住んでいないはずなのに、雨の日になると決まって、家中の蛇口やシャワーから、黒く濁った水がとめどなく溢れ出すのだという。