屑③
◆
黒籾の森は王都東端に位置する森だ。
常緑樹の枝葉が陽光を呑み込むように重なり合った暗鬱な樹海。
距離的には街の中央門から馬車を走らせればおよそ三、四時間といった所である。
街の冒険者ギルドは、その黒籾の森に関わる大小の依頼が引きも切らず舞い込む事情から、冒険者専用の連絡馬車を一日二往復で運行している。
運賃は依頼受領者であるなら銅貨二枚という価格設定だ。
ザジは依頼書を懐にねじ込み、ギルドを出たその脚でまっすぐ馬車置き場へ向かった。
(今からなら夜になる前に帰れるだろう)
冒険者の証となるメダルを御者に見せ、馬車に乗り込む。
すると幌の内側にはすでに一人の女が腰掛けていた。
青銀に燻した小札鎧を身にまとい、膝上まで露わなスリット入りの脚当をさらす女剣士である。
漆黒の髪を高く束ね、切れ長の双眸に月光めいた光を湛えた美貌の持ち主だった。
(へへ……こいつは景気がいいじゃねぇか)
ザジはぺろりと唇を舐め、下卑た視線を女の太腿へ這わせた。
あの太腿にほおずりしたらどれほど気持ちがいいか、などと考えていると自然下腹部に熱がたまってくる。
が、そんなザジのべとついた視線はすぐに察知されてしまったらしく、女は即座にザジを睨みつけた。
「……何を見ている?」
温かみなどまるでない、しかし澄んだ冬の空気の様な声だった。
ザジは鼻の下をこすり、「言いがかりはよしてくれよ」と苦笑を滲ませるが、その視線は依然として太腿の柔肌に吸いついたまま微動だにしない。
女の睫毛がぴくりと震え、指が柄頭に滑った。
刹那、ザジは両手をひらひら掲げ、へらへらと歯を見せた。
「待て待て、誤解だぜ。……ただよ、この馬車に乗ってるってぇことは目的地は黒籾の森だろう? そんな軽装じゃ魔狼にがぶりと噛みつかれちまうから、心配して見てただけさ」
「大きなお世話だ」
女剣士は鼻で笑い、黒銀の様な髪をかきあげて言う。
「この鎧には風の魔法が付与されている。身を軽くし、飛び道具を弾く。貴様こそ、そんな安物の革鎧で魔狼の牙を防げると思っているのか?」
「見かけ倒しの魔法細工より、百戦錬磨の俺様の勘の方が頼りになるってもんよ。俺にはよ、玄人の凄みってモンがあるんだ。お嬢ちゃんこそそんな傷一つついていない肌じゃあ大して修羅場をくぐっちゃいないんだろう? ええ?」
ザジという男は大抵の場合において見当はずれのしょうもない事を言う。
しかしこの時ばかりは的を得ていた。
女剣士の肌は陽に灼けるでもなく白磁を思わせるほど滑らかだった。
疵一つ見当たらない点も妙だ。
そもそも冒険者という稼業は、剣戟の煤や野営の煙、怪物の爪痕に晒され続けるがゆえに肌理が荒れ、古創が地図のように刻まれるのが常である。
にもかかわらず彼女の肌はそんな職業的宿命から著しく乖離していた。
それはつまり、女剣士が常軌を逸する達人か、あるいはド素人のドルーキーである事を意味する。
とまれ、ザジの言は典型的な負け惜しみに聞こえたのだろう、女剣士はフッと嘲笑の笑みを浮かべた。
それにムッとくるザジ。
(ちっ、気位の高い女狐め。組み敷いてやってよ、その太腿に歯形を刻んでやったらどんな声を上げるかね……)
◆
やがて、ひどく気まずい沈黙を残したまま馬車は黒籾の森の入口に差しかかった。
音を立てて馬車が停まる。
見ると、冒険者用の古ぼけた看板が立っており「ここから先は自己責任」との文字が嫌に大きく彫り込まれていた。
ザジが外に出ると女剣士もまた無言で荷降ろしを済ませ、ちらりとザジを睨むように横目をやったが、何も言わずに森の入り口へと歩き出していく。
本来なら「同じ目的地なのだし、一時的に手を組むか」と持ちかけるのが冒険者の通例であったが、二人は眼も合わせないままだ。
「ふん……てめぇから頼んでくればこちとら考えないでもなかったのによ」
生意気な奴だぜと呟きながら、ザジは去っていく女剣士の脚をこれでもかと舐め回しつつ見送る。
そうして女剣士が樹影の向こうに完全に消えたところで、ザジは木の幹に近寄っておもむろに陰茎を取り出し──豪快に立ち小便をし始めた。
「ふぅ……」
満足げな吐息を漏らしながら、森の空気を吸い込む。
(もう少し奥まで踏み込んじまえば、こんなとこでションベンこくのも命懸けだからな……こうやって浅いとこで用を足しておくのが玄人の所作ってモンよ)
ザジは己の行為を得意気に総括すると、だらしなく揺らした股間をしまい、力強く腰を叩いた。
「さぁてと、次はクソ犬の居場所だが……」
静かに地表を観察すると、微妙に擦れた跡や草の倒れ方などを確かめては、獣の通り道を推し量る。
「なるほど……」
粘土質の土に残る足跡や折れた枝の位置を見定め、歩幅を計測していくザジ。
(やつらは群れで動くことが多いが、間引きのために数が散らばってる可能性がある……こりゃあ下手すりゃ四方八方から飛びかかられるかもな)
獲物に喰いついた魔狼は遠吠えで周囲の個体に状況を知らせる。
それによって分散した群れが再集結し、多勢に無勢とばかりに襲い掛かられる可能性があった。
(向こうか)
そういってザジは更に森の奥へ足を踏み込んでいった。