開けてはならぬ宿の扉
その日、空は雲に覆われていた。
太陽は早く沈み、風は冷え、街道はどこか灰色がかって見える。
馬車も人通りも少ない宿場町――リネグラの入り口で、エルとリゼは足を止めた。
「……人、少ないね」
「日が暮れるのが早いからな。旅人もみんな、もう宿に入ってるか」
リゼは少し肩をすくめる。どこか、空気がひんやりしていた。
「でも、ちょうどいいかも。今日はちゃんと屋根の下で眠れるんだよね?」
「ああ。地図に記されてた“白鐘亭”って宿がある。評判は悪くなかったはずだ」
「名前かわいいじゃん。おしゃれそうだよね、白鐘亭」
ふたりは坂を下り、灯りの少ない町並みを抜けて、
一軒の宿屋の前に立つ。
白鐘亭。
外壁は白く塗られているが、長年の風雨で少しくすんでいた。
ドアの前には“営業中”の札。そして、扉の上には――
鈍く、白銀の小さな鐘が吊るされていた。
「……音、鳴ってないね」
「……宿の名にしては、妙な静けさだな」
ギィ、と扉を開ける。
中に入ると、空気は暖かく、灯りも柔らかだった。
けれどなぜか、誰の話し声もしない。
受付にいた中年の女性が、ふたりを見ると軽く頭を下げる。
「ようこそ、白鐘亭へ。おふたりで?」
「はい。泊まりたいんですけど……空いてますか?」
「ええ、空いております。ただ――」
受付の女性が、声をひそめた。
「……お部屋をご案内する前に、お願いがございます」
エルとリゼが顔を見合わせる。
そして、受付が静かに言った。
「廊下の奥に、ひとつだけ開いていない扉がございます。
その扉だけは――決して、触れないでくださいませ。
目を向けることも、耳を傾けることも、できれば避けていただけると」
その口調は丁寧で柔らかい。けれど――妙な重みがあった。
「……なにがあるんですか?」
「何も。何も、ございません。
ただ、そこは“誰も入ってはならない部屋”なのです。昔から、ずっと」
リゼは目を丸くした。
「わたし、そういうの苦手かも……いや、気になるって意味で」
「お前、絶対触るなよ」
「触らないよ!? たぶん、たぶんね!」
こうして、ふたりは“白鐘亭”の二階の部屋に案内された。
その廊下の奥、ひとつだけ――鍵のかかった扉が、ぴたりと閉じられていた。
まるで、眠る何かの“目”のように。
夜。
白鐘亭の部屋の中は、静かだった。
窓には薄いカーテンがかかっていて、風もなく、暖炉の火も落ち着いている。
エルは椅子に腰をかけ、メンテナンス中の銃を拭いていた。
リゼはベッドに座り、地図を広げて口を尖らせている。
「……明日はどこまで進む予定?」
「少し東へ回る。街道が分岐してるから、遠回りにはなるが、魔物の少ないルートを通る」
「ふーん、なるほど。わたし的には“うまいごはんにありつけるルート”が最優先だけどね」
「その情報はお前の胃袋しか知らねぇだろ」
「ふふっ……うーん、でも」
リゼは視線を地図から離して、ぽつりと言った。
「気になるよね、さっきの扉」
「……まだ言ってんのか」
「だってさ、普通そんな言い方されると、余計気になるじゃん?
“見ないでください”“聞かないでください”なんて、もう……気にしてくださいって言ってるようなもんでしょ」
「そういう扉に限って、開けるやつが最初に消えるんだよ」
「うわあ……フラグっぽいこと言うのやめて?」
エルはため息をついて、銃を置いた。
「少なくとも、今のところは音も気配もない。問題はないだろう」
「……んー……そっか」
リゼはふぅとひと息ついて、ベッドにごろりと寝転んだ。
部屋には暖かい静けさが戻り、眠気がじわじわと――
――コツン。
「……ん?」
聞こえた。
それは、ノック音だった。
はっきりと。廊下の奥から、木の扉を叩くような音。
「……いま、聞こえたよね?」
リゼが上体を起こし、エルの方を見る。
エルは動かない。だが、鋭く視線を扉の方へ向けている。
――コツン。コツン。
二回、短く。
そして、しばらくの間――沈黙。
まるで、中から何かが外に“気づいてほしそうに”叩いているような、控えめな音。
「……ねぇ、誰か……」
リゼが声を出しかけた瞬間。
――ギィ……
扉がきしむ音がした。
廊下の奥からだ。誰もいないはずの扉が、微かに揺れている。
「……エル」
「リゼ。出るな。声も出すな。何が来ても、“扉”を見ないでいろ」
エルの声は低く、確信的だった。
リゼは息をのむ。
何かが動いている。廊下の奥。誰かが――こちらに気づいた。
……でも、その足音は、しばらくしてふっと消えた。
空気が、元に戻る。
「いまの……」
「見に行くなよ」
「うん……」
その夜、ふたりは交代で見張りながら過ごした。
リゼは何度も眠りかけては、耳をすませ、外の音に意識を向けてしまった。
扉は、開かなかった。
けれど――あの音は、確かに“こちら”に向けられていた。
朝。
白鐘亭の窓から差し込む光に、リゼは目を細めて伸びをした。
昨晩の静けさとは打って変わって、今日は穏やかな陽射しが広がっている。
「……おはよう、エル。早いね」
「ああ。昨夜は気が張ってたからな。寝つけたか?」
「うん……寝たには寝たけど……変な夢、見たんだ。わたし、あの扉の前に立ってた」
言いながら、リゼは自分の足を見下ろす。
「夢だったのかな。でも、なんか……ほんとにそこに立ってたみたいな気がして」
「気のせいだ。ちゃんと俺が交代で見張ってた。お前は動いてない」
「……そっか。よかった」
安心したようにリゼは笑った。
だが、朝になっても――廊下の奥の“気配”だけは、まだ残っている気がしていた。
荷造りを終え、ふたりは部屋を出ようとしていた。
そしてリゼは――ふと、足を止めた。
「……ちょっとだけ、見てくる」
「おい、やめ――」
「見るだけ、絶対開けないから!」
小走りで向かったその先。
白鐘亭、二階の最奥。鍵のかかった白い扉。
まるで“そこ”だけ空気が冷たい。
何も聞こえないはずなのに、耳がそちらを向いてしまう。
「……やっぱり気になる。中に、誰かいる気がして……」
手を伸ばしかけたそのとき――
「触れるなって言っただろ」
後ろから伸びたエルの手が、リゼの肩をつかんで止めた。
「約束したよな」
「……うん。ごめん」
そっと振り返ると、扉は静かにそこに佇んでいた。
ただの“部屋の扉”のはずなのに――まるで、呼吸をしているかのように感じた。
出発前、ふたりは受付の女性に声をかけた。
話を聞くべきだと、思ったから。
「……昨夜、ノックの音がした。あの扉、何かあるんですね?」
受付の女性は、しばし沈黙したのち、うっすらと微笑んだ。
「おふたりとも、よく眠れましたか?」
「まあ、なんとか……ですが、あまり気持ちのいい夜じゃなかったです」
「そうでしょう……お話ししましょう。あの部屋のことを」
そして語られる、“白鐘亭”の過去。
不思議な子どもと、その部屋。
内側から鍵をかけ、消えた子ども。
今も毎晩、誰もいない部屋からノックが聞こえること――
「その子は、誰かを待っているのです。
だから、“誰でもいい”人には開けてほしくない。……きっと、そうなんです」
「……今朝も、何もなかったように見えました」
「ええ。何も起きませんでした。あなたたちが“扉を開けなかった”からです」
語り終えた受付の笑顔は、やさしく、少しだけ……寂しげだった。
「じゃ、出発しよっか」
「ああ。さっさと離れるに限る」
ふたりは宿をあとにする。
一泊だけ――ただそれだけだった。けれど、何かに触れたような感覚が、胸に残っている。
街道を少し歩いたところで、リゼがふと立ち止まった。
「……ねえ、エル」
「ん?」
「……あの窓、見て」
白鐘亭の二階――曇りガラスの向こうに、小さな影が立っていた。
その“誰か”は、リゼの方へ手を振っていた。
ゆっくり、静かに、何度も。
白く細い手。表情のない影。
……それでも、“笑って”いた。
「エル……あの子、まだ……」
エルが振り返る。
「……誰もいねぇぞ」
「え?」
「窓、空っぽだ」
けれどリゼには、確かに見えていた。
最後に、もう一度だけ――笑って、手を振る姿が。
「……あの子、バイバイって言ってた」
そして、そのままふたりは旅路へ戻っていった。
もう、振り返ることはなかった。
――その窓の向こうで、“あの子”が首を傾げていたとしても。