夢
「ふふっ、見てエル! あの雲、魚に似てない?」
「……どこがだよ」
「ほら、あの角度。ヒレっぽいでしょ?」
「……まあ、言われりゃ見えなくもないけどな」
広がる草原の上、風が気持ちよく吹いていた。
空は高く、雲は白く、そしてふたりは道の途中だった。
エルとリゼ。
ファルナ王国の北東に向かう街道を、少しずつ進んでいる。
「ねぇ、エル。こうやって歩いてるとさ、旅してるって感じするよね」
「実際してるからな」
「もー、そういう返しばっかり。もうちょっと楽しもうよ、せっかくなのに」
「お前は元気だな。昨日の夜、寒い寒いって震えてたのに」
「それはそれ、これはこれ!」
リゼは胸を張って歩く。
その後ろ姿は軽やかで、どこか無邪気だった。
「……でも」
ふと、リゼが立ち止まる。
空を見上げながら、小さくつぶやいた。
「初めて通るはずの道なのに、なんでかな……すごく懐かしい気がするんだよね」
「……」
エルはその言葉に、何も返さなかった。
けれど――彼の手が、そっとリゼのリュックを引いて前を向かせた。
「変なとこで立ち止まんな。転ぶぞ」
「う、うん。ありがと」
リゼは照れくさそうに笑って、また歩き出す。
日が傾きはじめ、ふたりは道から少し外れた木立にテントを張った。
焚き火を囲んで、干し肉を炙りながら、火の粉が舞い上がる。
「……ねえ、エル」
「ん」
「この先に、何があるんだろうね。わたしの記憶のことも、あの教団のことも」
「知らねぇよ。でも、少なくともお前を狙ってくる奴はまた現れる。そういう目をしてた」
「……あの人、怖かった。あんな風に、わたしのこと“器”だなんて」
「お前はお前だ。それ以外の何者でもねぇ。少なくとも、今の俺にはそう見えてる」
焚き火の音が、静かにふたりを包む。
「エルってさ、たまに優しすぎるよね」
「うるせぇ。寒いなら寝袋に入ってろ」
「……入る。けどさ」
火の光に照らされたリゼの表情が、少しだけ曇っていた。
「――わたし、本当は“わたし”じゃなかったらどうしようって、ちょっと怖いんだ」
その言葉は、夜風に溶けていった。
――静かな光の中に、立っていた。
白い部屋。高い天井。花の香りと、焚香の甘い煙。
目の前には、誰かがいる。大人の男。顔は、影になって見えない。
けれど、その人は――笑っていた。
「君は、とても美しい。……“完璧”です」
その声は、やさしかった。
けれど、ぞっとするほど、冷たかった。
手が伸びてくる。やさしく、髪に触れようとする。
嫌だ。けれど、身体が動かない。
「だいじょうぶ。すぐに思い出せますよ。わたしが、君を選んだ日のことを」
耳元で、囁き声。
「ほら、君は神の器。祈りのかたち。そのすべてが、愛おしい……」
そこで――夢が、割れた。
「っ……!」
リゼは跳ね起きた。寝袋の中、息が乱れていた。
胸が苦しい。背中に汗がにじんでいる。
けれど、思い出せない。
誰の声だったのかも、どんな夢だったのかも。
「……エル……」
焚き火のそば。静かに目を閉じて座るエルの姿を見つけて、リゼは胸を撫で下ろした。
その背中が、なぜか――あたたかくて、泣きそうだった。
焚き火はまだ、細く揺れていた。
エルはそのそばで、短剣を手入れしながら、夜の気配に耳を澄ませている。
「……エル、起きてたんだ」
「おう。お前が寝言で『にんじん嫌い』とか言うからな。目が覚めた」
「……うそでしょ!? わたしそんなこと言ってた!?」
「バッチリ。しかも語尾に『ふんっ』って付けてた」
「ふんっ!? うそーっ!」
リゼは真っ赤になって寝袋の中でうずくまる。
その様子を見て、エルの口元がわずかに緩んだ。
「……ま、夢の中でくらい好きに生きろ。現実じゃ好き嫌い言わせねぇけどな」
「こわ……旅が終わる頃にはわたし、野菜ソムリエ並みに克服してるかも……」
「なら、そのうち料理も頼めるか?」
「え、そっちは……うーん、火の扱いはエルが担当で」
「台所爆破の再来はごめんだからな」
「うぅ……わたし、ほんとに迷惑ばっかりだよね……」
「……そんなこと、思うな」
焚き火の音にまぎれるように、エルがぽつりと呟いた。
「むしろ、お前がいないと銃が動かねぇ。そっちのが困る」
「……え?」
「お前が横にいる。それだけで、俺は戦える。
それだけで――“助かってる”んだよ」
その言葉に、リゼは一瞬、何も言えなかった。
けれど――目元が少しだけ緩んで、小さく笑った。
「……ありがと、エル。ちゃんとがんばるから。野菜も、料理も、魔法も」
「順番おかしいだろ」
「ふふっ、最重要は火加減だから!」
焚き火が、ぱちぱちと笑うような音を立てた。
こうして、ふたりの初めての夜は――ようやく静かに、朝へと向かっていった。