神官長という男
「……リゼルディア」
その名を、男は唇の奥で、慈しむように、何度も呟いた。
静まり返った祭室の中。焚かれた香の煙が、白く揺れている。
ネリュスは、椅子に腰掛け、膝の上に手を組んだまま、ただ遠くを見つめていた。
「あなたは……まだあの頃の姿のままですね。
ほとんど、変わっていなかった。銀の髪も、首筋のほくろも、あの瞳の色も」
その口調は、まるで夢を見る恋人のようだった。
だが、そこに宿るのは恋慕ではない。
記憶のなかで固められ、歪んでいった“所有”と“崇拝”。
「わたしの記憶の中では……あなたは、あの夜、泣いていたのです。
震える手で、わたしの袖を掴んで。……わたしに、助けを乞うた」
彼は笑った。ぞっとするほど穏やかに。
「その姿が、どれほど……美しかったか。
あの瞬間、あなたは完全だった。無垢で、弱くて、守られるべき存在で――」
扉の外に気配がある。
気づいていながら、ネリュスは止めなかった。
「それを“育ててしまった”のですね、あなたの中の何かが。
知らない誰かのもとで、知らない世界で、あなたは少しずつ――わたしから遠ざかっていった」
そして囁く。
「……そんなのは、許されない」
ぎり、と組んだ指先が音を立てた。
けれど顔は、笑っていた。穏やかに、優しく。
「ねえ、リゼルディア。あなたは知らないでしょう?
わたしが、あなたを“選んだ”夜のこと。
あなたを初めて見たとき、神の光が降りたのですよ。
ああ……あれは、間違いなく“祝福”だった」
棚の奥、厳重に封じられた箱を開く。
中には――少女の髪を編んだリボンと、今でもかすかに血の香りを残す白い手袋。
それを、まるで宝石のように指先で撫でながら、彼は言った。
「ねえ、覚えていないのですか?
あなたの言葉も、熱も、声も、すべて――わたしの中にあるのですよ。
忘れてしまったあなたの代わりに、わたしが“覚えていてあげる”。
だから、もう大丈夫」
立ち上がり、祈りの台の前に立つ。
その姿はまるで、神官ではなく――“儀式を始める恋人”だった。
「あなたは、わたしの元へ帰ってくる。記憶も、魂も、身体も、すべて……」
彼は言葉を切り、目を閉じ、うっとりと微笑んだ。
「すべて、わたしのものになるのです」
まだリゼが幼く、“器”として扱われ始める以前。
そしてネリュスは、あくまで信仰を口実にしながら、心の奥底では――少女に“欲”を抱いてしまった。
その「始まり」の記憶――
その日、神殿の中庭は、まるで春のような光に包まれていた。
光の粒が舞い、静かな風が白い花弁を運んでいく。
石の柱に囲まれた静謐な空間。その中心に――ひとりの少女がいた。
「……あなたが、“リゼルディア”」
ネリュスは、彼女を見た瞬間、呼吸を忘れた。
まだ十にも満たない幼い年頃。
細い腕。小さな手。
けれど、まるで空気の密度ごと変えてしまうような存在感を持って、彼女はそこにいた。
銀の髪が陽を弾いて輝いていた。
肌は雪のように白く、その瞳は――空を切り取ったような灰色だった。
「うん……わたし、呼ばれてきたの。……ここで、“試される”って」
その声が、空気を震わせた。
高く澄んだその音に、ネリュスの心臓が鼓動を早めた。
――これは、神だ。
そう、思った。
その瞬間からだった。
信仰と、祈りと、そして――それ以外の“何か”が、同じ熱で燃え始めたのは。
「君はまだ、何も知らないんですね」
「……なにを?」
「世界のことも、命の重さも、祈りの意味も」
少女はきょとんと目を丸くし、首をかしげた。
「でも、わたし……歌は知ってるよ。お母さまが教えてくれた。
“光は闇に宿るもの”――そう、言ってた」
「…………ああ。すばらしい」
ネリュスは思わず、口元を押さえた。
その小さな口からこぼれる言葉が、すでに神意に近かった。
なのに、それが――
まだ、誰にも触れられていない。
誰の色にも染まっていない。
――欲しい、と思った。
その清らかさごと、この両手に閉じ込めてしまいたいと。
「あなたは特別です、リゼルディア」
「え……?」
「ですから……これからは、わたしの傍で学びなさい。祈りも、律も、世界の理も。
あなたには、正しい導きが必要です。間違ってはいけませんから」
少女は、しばらく考えるように視線を落として――
「……わたし、バカだから。誰かに教えてもらえるの、嬉しい」
そして、屈託なく笑った。
その瞬間――
ネリュスの中で、何かが決定的に壊れた。
「……かわいらしい。なんて、けなげで、純粋な……」
まるで、掌に舞い降りた白蝶。
壊さないように。
でも逃さないように。
いずれ“神”に捧げられると知りながら――
その前に、この手で育て、愛し、染めてしまいたい。
――祭室に戻る。
ネリュスは目を閉じ、あの春の陽を思い出しながら、そっと手袋を胸元に押し当てた。
「わたしは、あなたに触れてしまった。
許されるはずのない、祈りと欲望を同じ手で抱いた」
小さく笑いながら呟く。
「……だから、どうか、君の記憶が戻るその日まで。
せめて今だけは、“無垢なままの君”を……この祈りの中で抱かせてほしい」