はじまりの祠
朝の森は、いつもと変わらない……はずだった。
エルヴァンティスは腰に短剣、肩に弓をぶら下げて、いつものように狩りに出ていた。
ルステア村の外れに広がるこの森は、魔物こそ出るけど、慣れてしまえば静かで落ち着いた場所だ。
「……足跡、か。こっちに逃げたな」
地面に残るかすかな痕跡。魔物の気配は薄い。今日は大物には出くわさないだろう――そう思っていた、まではよかった。
ふと、風が止まった。
鳥の声も、葉擦れの音も消える。空気が、ぴたりと張りつめた。
「……なんだ、この感じ」
嫌な予感がした。狩人の勘ってやつだ。こういう時は、素直に従った方がいい。
注意を払いつつ、森の奥へ進む。すると――
木の根元。小さな小川のそばで、何かが倒れていた。
「……人?」
白い服。長い銀髪。
泥にまみれた少女が、ぐったりと倒れていた。
「……冗談だろ」
慌てて近づいて、脈を確かめる。生きてる。熱もあるし、呼吸もしてる。
けど目を覚ます気配はない。
――まさか、この森で迷った?
いや、それにしては……服が妙に綺麗だ。刺繍とか、素材とか、明らかに“いいとこの娘”って感じだし。何より――
ばちり。
唐突に、少女のまぶたが開いた。
そして、目が合った。
「……おはよう、ございます?」
少女はぼんやりとした声でそう言って、首を傾げた。
「え、あれ。あなた……誰?」
「いや、それはこっちのセリフだ」
エルは思わず言い返していた。
「……は?」
「お前、なんでこんな森の中で倒れてたんだよ。服も汚れてるし、顔色悪いし……本当に大丈夫か?」
「え、あ。えっと……わたし……」
少女は眉をひそめて、首を傾げる。そして――
「…………わたし、誰?」
「……は?」
今度はエルが固まる番だった。
「えーっと、その、名前は……あれ? リ……リゼル……ディア?」
「リゼルディア、か」
「うん……たぶん。それしか出てこないの。頭が、ふわふわしてて……」
記憶喪失、か。
そんな都合のいい話、と思いたいが――この森で倒れてた時点で、普通じゃないのは確かだった。
「じゃあ、リゼって呼んでいいか?」
「うん。そっちの名前は?」
「エル。エルヴァンティス。ルステア村の狩人だ」
「エル、ね。……へえ、なんかカッコいい名前」
「……茶化してるのか?」
「え? 本気で言ってるんだけど?」
屈託のない笑顔でそう言われて、エルは少しだけ面食らう。
……なんなんだこの子。こんな状況で、よく笑えるな。
「とにかく、歩けるか? 村まで案内する」
「たぶん、うん……あいたたた……ごめん、ちょっとフラつくかも」
「ほら、腕。支えてやる」
「ありがとう、エル。優しいんだね」
「……必要だからやってるだけだ」
口では素っ気なく言ったが、エルはしっかりリゼの腕を支えた。
その手は、少し震えていた――寒さのせいか、それとも別の何かか。
だがその時、森の奥から――
「……ヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」
乾いた、気持ちの悪い笑い声が、風に乗って聞こえてきた。
風の向こうから聞こえる声に、リゼがびくりと肩を震わせた。
「……今の、なに?」
「黙れ。動くな」
エルは手を離し、すぐさま腰の短剣を抜いた。獣の気配――それとは違う、もっと不気味で、人間に近いけど“何かが違う”気配がする。
森の奥。木々の間から、何かが歩いてくる音。
ぬちゃ、ぬちゃ、と濡れた泥を踏むような不快な足音。
そして――見えた。
「……あれは……」
人型だ。だが、あまりにも歪んでいる。
骨のように痩せ細った体。ひどく伸びた腕。頭には祈りの冠のようなものが歪んで刺さり、血が滲んでいる。
目は虚ろに笑い、口元はだらしなく開いたまま。
「“神サマ”……いらっしゃる……すぐそこ……ヒヒヒヒ……」
「“器”……見つけたァ……ねェ、ちょうだい……」
リゼの方を見て、狂ったように笑っていた。
「ッ、リゼ、走れ! すぐ後ろに下がれ!」
「な、なにあれ……なんでこっち見て……?」
震えるリゼを後ろに庇うように、エルは立ちはだかる。
だが、ただの魔物じゃない。この“何か”は――
「くくく……器を……神のところへ……捧げなきゃ……」
「……チッ、面倒なことになった」
エルの手が短剣を握り直す。戦うしかない。
だが次の瞬間、リゼの身体がふわりと淡く輝いた。
魔力。無意識の発動。
そして、その光に呼応するように――
森の奥、封じられた古びた石の祠が、音を立てて開かれた。