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溶け出す夏に恋をする

作者: 玲瓏


「     」

と微かに聞こえたような気がした。夏のジリジリとする暑さと、生ぬるい風でかき消されてしまった。遠くには大きな入道雲が空高くわたしを見下ろしている。カランッというラムネを開けたような音から始まった15回目の夏。私は、ある1つの作品に恋をした。

 

 日常にありふれる夏の帰り道。いつもと変わらない田舎道に飽き飽きしながら歩き進める。まだ7月上旬だというのにジリジリとわたしを

照りつけている。鬱陶しい暑さに嫌気がさし、少し木陰で休んでから帰ろうと思い近くの木の下に入った。葉が風になびきそよそよ心地良い音を奏でている。

 しばらくその音に耳を傾けていると微かにカランッというラムネを開けた時のような、ガラス製の何かが落ちたような、そんな音がした。

 何か落としたかと思い木のわけ入り足元を探す。それらしきものは落ちておらず空耳だったのかと、ふと前を見ると小さな道があった。

 人1人がギリギリ歩けるような小さな道で、決して歩きやすくはないが問題なく進める程度だ。おそらく、昔この道を作った人がいてしばらくは使っていないため廃れてきていたのだろう。特に何かが気になったわけではないが光が筋のように差し込み幻想的な雰囲気に妙に惹かれ歩み出した。

 しばらく歩くと小さな古い建物が見えた。廃れてきているが洋風な建物で、屋根や壁には小さな装飾が施されている。誰かが住んでいるのかと思ったがそんな様子はなく、あたりはただ静まり返りわたしの呼吸をする音、葉がなびく音だけが聞こえる。誰のかもわからない建物に申し訳ないと感じつつも、好奇心が抑えきれずに扉を開けてしまった。

 カランと爽やかな音がしてまるでこの中だけ別の世界のような気がした。中はやはり静まり返り誰もいない。入ってすぐのところには「刹那の美術館」と書いてあった。

 人の家ではなかったことに少しだけ安堵した。外観は廃れていたため絵ももう飾ってはないのだろうと思い、帰ろうとしたが何かに、誰かに呼ばれるような気がして奥へと進む。

 目の前にあったのはたった一枚の絵だった。その絵はまるで今にも溶けそうな色彩で、輪郭がはっきりしているのに輪郭が掴めないようなそんな曖昧で、明確で、ただただ美しい絵だった。その絵と目が合った瞬間わたしはたった一枚の絵に恋をしてしまった。

 その絵は、わたし自身の思い出が映し出されたような不思議な感覚を与え、夏の日差しにただただ照りつけられるように焦がれるだけだった。

 わたしは次の日から、暇があるたびにその美術館に通い続けた。建物の持ち主には申し訳ないと感じつつも、あの絵に会いに行きたいというか想いを抑えきれなかった。

 友人はわたしの尋常な情熱を心配したが、そんな心配が耳に入らないほどわたしは夢中になっていた。

 気がつけば家にいるより居心地が良く休日は一日中絵の前にいるようになった。夏休みということもあり、前よりも絵に寝中するようになった。

 昨日と同じ絵のはずなのに毎日違って見えて、明日が来ることが心から楽しみに思えるようになった。あの絵に出会ってから夏の鬱陶しい暑さも少しは悪くないかもと思えるようになった。

 ある寝苦しい夜、まだ夏も終わらない暑さの中で夢を見た。あの絵がわたしに向かって暖かく微笑み、わたしを溶かしていくようなそんな夢だった。あまりの心地よさに夢と現実の境界線も曖昧になり、そのまま夢に堕ちていった。

 次の日、夢のことが気になりいつもより早く、絵に会いに行った。まだ朝も早く窓から差し込む光が絵を照らしている。

 光の輝きによっていつもより美しく見えるはずなのになぜか、今までのような曖昧さや明確さ、惹かれる感じが薄くなったような気がした。きっと気のせいだろう、光でいつもより明るいから色味も違って見えるのだろう、そう心にいい聞かせた。

 けれどその次の日もまたその次の日も、会いに行くたびにあの溶け出すような色彩が曖昧だけど確実に失われていくようになった。夏も終わりが近づき始め、もう蒼々とした空に入道雲は見えない。

 夏休みももうあと数日で終わってしまう。絵に夢中になっていて、自分が受験生ということがすっかり頭から抜け落ちていた。元から成績が悪い方ではなかったが、最近はあまり勉強をしていなかったため成績が落ちてきていたのは明らかだった。流石にまずいと焦り出すが、どうしても絵が気になって勉強が手につかない。自分が簡単だと思い込んでいた問題が全くわからず、周りの友達の勉強している様子を見て、どうすればいいのかもわからずただただ不安と焦りだけが残った。

 色が失われているということに気がついてからも、あの絵から離れることはできなかった。どうしても初めて見た時のあのはじけるような感覚が忘れられず、前よりももっと絵の近くにいるようになった。

 夏休みも最終日の夜、明日からまた日常に戻ることへの不安や、友達だけが進んでいて自分は置いて行かれて行かれるのではないかという焦りを抱え苦しくなってしまい、そっと家の抜け出してあの美術館へ向かった。

 絵を見ると月の光によって青白く美しく照らされ、あの人同じようにただただ焦がれていた。すると一瞬絵が光り絵の中に入り込んでしまっていた。

 突然に出来事に理解が追いつかなかったが、目の前のただただ美しい景色を前にそんなことはどうでも良くなった。このまま絵の中にいればこの美しい景色に囲まれて、明日に学校を不安に思う必要もないのだと。だんだんと自分が絵の世界そのものに溶けていくような感じがした。

 しかし、その瞬間ふとこの世界はただひたすらに美しいが、現実のような暖かみや幸せ、ありふれた日常、不安、焦りが一つもないと気づいてしまった。美しさに隠された虚無のようなものがだんだん自分に襲いかかるようなそんな気がした。

 あの夏の鬱陶しい暑さも、置いて行かれるような不安感も、なぜかそれがとても愛おしく感じた。

 目の覚ますと自分が寝てしまっていたことに気づく。やけにリアルな夢に頬をつねり夢ではないことをゆっくりと理解し安堵した。

 絵を見つめてみると色を失いただのキャンパスになってしまっていた。あの時の恋をしたような感覚ももう薄れてしまい、惹きつけられるようなものも無くなってしまった。ただひどく懐かしさを覚え、そっと絵を撫でる。もう終わりにしよう。自然と涙が溢れ、キャンバスに涙の後だけが残る。そっとぬぐい、美術館を後にした。もう扉を開けた時のようなカランッという音はしない。

 急いで支度をし走って学校へ向かう。友人たちは、遅刻ギリギリの自分を心配してくれている。こんな日常がいつまでも続けばいいのになと想ったが、半年後にはそれぞれの道へ進む寂しさにまた目元が熱くなる。けれどできるだけ残り半年一緒にいられることを楽しもう。

 そして夏の終わる合図をするような空を仰ぎ15回目の夏に起きた不思議な体験はわたしだけの秘密にしていようと決めた。涼しくなってきた風を感じつつまだ暑いこの日常を愛おしく想う。きっとわたしの恋は誰よりも暖かく儚く素敵な恋だった。

 もう弾けるような音は聞こえない。

 

 

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