炎舞(えんぶ)
気鋭の昆虫学者が数々の難事件に挑む! 柏木祐介の事件簿、シリーズ第五話。
【登場人物/レギュラー】
柏木祐介(三十四歳) 昆虫学者 東京大学応用昆虫研究室の准教授
前園弘(三十二歳) 警視庁の鑑識官
堂島健吾(四十五歳) 警視庁捜査一課の警部補
澤村翠(二十八歳) 蛍の研究者
【登場人物/第五話】
平塚藤花(四十五歳) 舞踊家
倉田誠治(五十歳) 演出家 藤花の内縁の夫
大野清高(四十五歳) 舞台監督
里見克彦(三十五歳) 作曲家 藤花の元愛人
塚本拓也(二十一歳) 舞踊家 藤花の舞踊団の新人
玉蝉盗難事件から五日が過ぎた夕暮れ、柏木祐介は蛍研究者の澤村翠とともに、新宿御苑で行われる平塚藤花という舞踊家の野外公演の会場に足を運んでいた。燃え盛る炎の廻りを乱舞する蛾の姿を描いた速水御舟の名画『炎舞』に想を得た新作ということで、先日昆虫の走光性について翠と言葉を交わした際に、彼女も自分と同様にこの絵に魅了されていることを知った柏木が、公演の告知を目にして観劇に誘ったのだった。
平塚藤花は日本舞踊の名家の三女に生まれ、天賦の才で将来を嘱望されながらも、一門の芸を踏襲するのみでは飽き足らず、破門される形で家を飛び出し、長年にわたって自身の舞踊団を率いて活動してきた異才で、近年はヨーロッパ各地の演劇祭でも公演を行って賞賛を浴びてきた。
舞台から五列目の座席につくと、翠は入り口で買い求めたパンフレットを取り出した。表紙には言うまでもなく御舟の『炎舞』がキービジュアルとして用いられている。
「蛍観賞会のパンフレットの参考に?」と、柏木は微笑みながら翠に尋ねた。
「ええ。ポスターもすばらしかったし、きっとデザイナーさんのセンスがいいんだろうなって」
翠はそう答えると、柏木も見ることができるように、二人の間の肘掛けの上でパンフレットを開いた。冒頭のページには、古今集収録の詠み人知らずの短歌が一首掲げられていた。
夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつの思ひに よりてなりけり
※夏虫が身を滅ぼしてしまうのも、私を苛んでいるのと同じ、
恋の思いという火のためなのだ。
次のページには御舟の『炎舞』に対する藤花の賛辞があり、出演者、スタッフの紹介がそれに続いた。公演の内容や構成、演出に関する説明は一切なく、舞台はそれ自体で完結しているべきだという、演者の信念がうかがえた。
「古今集に載っているそうだけど、素直でいい歌だね」
「古今集はあまりお好きではないみたいですね」
「技巧が勝ち過ぎているものはちょっとね。万葉好きだった母親の影響かな。紀貫之も、仮名序の出だしや土佐日記は好きなんだけどね」
「『やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける』」
「うん。『生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける』」
「確かに名文ですよね。でも、歌論の部分は?」
「あの〈上から目線〉はさすがにねえ、一体何様なんですかって、言いたくなる」
「やっぱり! 実は、私もそうなんです」
そう言いながら、翠はいたずらっぽく笑った。
大半の観客が席に着くと、照明は通路を照らすものだけになり、篝火を模した赤橙色のネオンライトが随所に灯された。空に月は無く、近くにビル街はあるものの、舞台の設けられた風景式庭園は樹木が豊かで、夏の夜の濃厚な暗闇が辺りを包み込んでいた。
程なく、『炎舞』にも描かれている、朱色に黒斑の入った後翅を持つヒトリガ(火取蛾)や、全身が美しい青緑色のアオシャクなどの大型の蛾が、篝火のまわりを舞い始めた。
舞台は四方を客席で囲まれていて、壁も花道もなく、演者の出入りは暗転を利用して行うようだった。舞台の高さは優に二メートルを超えていて、木製の台座を使って段差をつけて配置した客席のどこからでもよく見ることができた。
開演五分前を告げるブザーが鳴り渡ると、照明は通路の篝火だけになり、舞台は完全な暗闇に包まれた。やがて、人声と電子音がミックスされた音楽が場内に流れ出すのと同時に、舞台の四隅の篝火が点灯され、舞台の中央では、人の背丈を遥かに越えた紅蓮の炎のホログラムがゆらめき始めた。
最初の舞踊は八人の踊り手による群舞だった。その中に主演の平塚藤花の姿はない。伴奏に使われている楽曲は、倍音唱法を駆使したスキャットに金属打楽器やキーボードシンセサイザーの電子音を加えた、西洋音楽とも民族音楽ともつかないユニークなもので、それに乗って八人がホログラムの周囲を巡るゆるやかな輪舞は、呪術的とも言うべき魅力に満ちていた。
踊り手の中で殊に目をひいたのは、塚本拓也という二十一歳の若者だった。中性的というよりは両性具有的な美しさの持ち主で、ファンの人気も舞踊団側の期待も高いのだろう。準主役に抜擢されたホープとして、パンフレットでも大きく紙面が割かれていた。
やがて舞台には塚本一人が残り、短いが充実したソロを踊った。そして、その踊りに誘われるように、舞台中央に設けられた迫を使って、炎の只中に平塚藤花が登場した。
観客は二人の官能的なデュオに完全に魅了され、陶然と舞台を見守った。柏木が何より驚いたのは、藤花の踊りの軽やかさだった。以前、祖母が日本舞踊の名取だという友人から、舞い手の技量は舞い終えた後の足袋の裏を見ればわかる。上級者は常に足の裏全体に体重が分散しているから、ほとんど足袋が汚れないのだという話を聞いたことがあったが、この名手は体重を消し去ることさえ可能なのではないかと思われた。
フィナーレの第三幕は藤花のソロで構成されていたが、それは見えない相手とのデュオのようでもあった。観客は彼女の眼差しや差し伸べた指の先に、消え去った青年の姿を目の当たりにしていたのだった。柏木の脳裏には、彼女は人間と恋に落ちた妖精で、人と妖精では時の流れ方が異なっているために、二人の仲が引き裂かれてしまったのだという考えが浮かんでいた。
クライマックスに向かって彼女はさらに狂乱の度合いを増し、どこへ向かうとも知れない複雑なステップを踏んだ果てに、後ずさりするようにして舞台中央の炎に身を投じて忽然と姿を消した。
数秒間の沈黙の後、我に返った観衆は熱狂的な拍手を贈ったが、程なくそれは困惑したざわめきに変わった。突然救護を求める叫び声が上がり、作業用の照明が灯された舞台を、青ざめた表情のスタッフが行き交い始めたのだ。平塚藤花は演出で姿を消したのではなく、彼女を乗せて下りるはずだった迫が先に下がっていたために、暗闇の中で口を開けていた奈落の底に転落したのだった。
事故のあらましを知ると、柏木は反射的に堂島警部補の携帯に電話をかけた。
「どうも、柏木さん、ちょうどよかった。つい今しがた宋文堅を逮捕したところなんです。ご協力いただいたおかげで国外逃亡を防げたし、玉蝉も取り戻すことができた。中国政府に返還することにはなると思いますが、代金は綾部夫妻のもとに戻りそうです」
「そうですか、それはよかった」
「すみません、いただいた電話で。いや、あまりにタイミングがよかったものですから。それで、ご用件は?」
「新宿御苑で平塚藤花という舞踊家の公演を観ていたんですが、主演の彼女が舞台の底に転落したんです。根拠を示すのは難しいんですが、事件の可能性があるような気がするものですから……」
「なるほど、わかりました。新宿警察署に電話を入れておきます。私もすぐそちらに向かいますよ」
通話が終わると、翠は気遣わしげな表情で柏木に尋ねた。
「これは事故ではなくて、何かの犯罪だとお考えなんですか?」
「まだよくわからない。ただ、何かがおかしいような気がしてね。事件性の有無で警察の調べ方も変わると思ったから、とりあえず堂島さんに電話したんだ。彼が来るまでに、もう少し頭の中を整理してみるよ。とにかく、転落した平塚さんが無事だといいんだけれど」
「ええ、本当に……」
人気のなくなった舞台に目を遣りながら、翠は沈んだ口調で答えた。
平塚藤花を乗せた救急車が出発するのと入れ替わりに、新宿署の警察官四名と堂島が到着した。柏木と翠は堂島の指示に従って、舞踊団の幹部の一人だという四十代半ばの男とともに会場の入り口で堂島達を待っていた。男は大野清高という名で、舞踊団の結成当初から舞台監督を務めてきたとのことだった。
「澤村さんもご一緒でしたか、お久しぶりです。せっかくの観劇がとんだことになりましたね」
「ええ、突然の出来事で、本当に驚きました」
「そちらは舞踊団の方ですね」
堂島は柏木のかたわらにいた大野に声をかけた。黒字に白抜きで『舞』という毛筆の文字がプリントされたTシャツを身に着けている。今回の公演のために揃いで作ったものらしく、裏方も接客係も、スタッフは全員がこのシャツを着ていた。
「ええ、舞台監督の大野です」
大野は落ち着いた口調で答えた。
「警視庁捜査一課で警部補をやっております、堂島健吾と申します。この舞踊団の代表者はどなたですか?」
「座長が平塚藤花、実際の運営は、彼女の実質的な夫で演出家の倉田誠治がやっていました。彼は今彼女に付き添って病院に行っています。他には古顔の私が一応幹部として、年間の活動計画などの主要な会議には参加することになっていました」
「運営面から舞台の進行までお分かりの方にご協力いただけるのは心強い。よろしくお願い致します」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
四人の警察官のうち三人は現場の検証にまわり、村田という名の巡査部長だけが堂島のもとに残った。
「後から前園って鑑識が来るから、現場はそのままに。とにかく団員達の話を聞いておいてくれ」
堂島は三人に背後から声をかけると、大野に柏木との関係をかいつまんで説明した。
「では、単刀直入にうかがいますが、事故の原因について思い当たることはありませんか?」
「事故が起きてしまった以上、問題があったことは確かなんですが、少なくとも現時点では、何がまずかったのかよくわかりません」
大野はため息まじりにそう答えながら、堂島達を照明や舞台装置のコントロールユニットが置かれている、舞台と客席の間のブースに案内した。
「照明も迫もここからリモート操作しているんですが、すべて音楽のタイムコードとシンクロさせてオートプログラムを組んでいるです。演劇のようにアドリブで段取りが変わったりしないし、舞踊では音楽の流れが絶対ですからね。迫は危険だから、いつでも手動操作に切り替えられるようにはしてありますが、昨日の通し稽古も順調だったし、今日の舞台はさらに完璧に進行していました。迫の動きにしたところで、デュオの入りで彼女を運び上げたらそのまま、あとは大詰めで彼女が乗ったら下ろすだけと、いたってシンプルだ。常識的には、事故なんて起こるはずがないんですよ」
「リモートはワイヤレスのようですが、混信の可能性はありませんか?」と柏木が尋ねた。
「ええ、それが一番怖いんで、前回の野外公演から超音波によるコントロール装置を使っているんです。赤外線や通常の電波などより指向性が高いので」
「我々の方でシステムをチェックしても構いませんか?」と堂島が言った。
「もちろんです。音源とプログラムを入れたUSBメモリーをお渡しします」
「助かります。資料の準備は、鑑識が指紋を取り終えてからお願いします。不審な者がここの機材に触れた可能性がありますから」
「わかりました」
大野がそう答えた時、彼のスマートホンに電話が入った。
「倉田からだ。失礼します」
大野は着信画面を見てそう言いながら、柏木達から数歩の距離を取って電話に出た。
「倉田? ああ、俺だ。どうだ藤花さん。そうか……。こっちは警察が来て、現場を調べている。ああ、まだしばらくかかりそうだ……」
数分のやり取りの後に通話を切ると、大野は柏木達のもとに戻って通話の内容を告げた。
「藤花さんが亡くなりました。頸椎骨折と脳挫傷で、ほぼ即死の状態だったらしい。今しがた、医師が最終的に死亡を確認したそうです」
「残念です。類い稀な才能の持ち主でいらしたのに」と堂島が言った。
「ええ、まったく……。倉田はいったんこちらに顔を出すとのことです。すぐそこの慶大病院ですから、十分もすれば戻ると思います」
会話はそこで途絶え、重苦しい沈黙がその場を支配した。やがて、堂島が柏木に尋ねた。
「ところで柏木さん、今回の転落事故のどのあたりに、事件の可能性を感じておられるんですか?」
「まだ、明確な証拠と呼べるようなものは見つかっていないんですが、まず気になったのは、藤花さんが転落した瞬間の様子なんです」
「と言いますと?」
「迫が下がっていることにはすぐ気づいたはずなのに、驚いたり怖がったりしている気配がまったく感じられなかった。あまりに突然だったというだけのことなのかもしれませんが、彼女の体が宙に舞った瞬間、僕の目には、彼女が微笑んでいるように見えたんです。まるで、事故を自ら望んでいたか、少なくとも予期していたかのようだった」
「言われてみればその通りだったのかもしれない。あの時、観客はしばらく誰も、事故が起きたことに気づかなかった」と、大野が考え込みながら答えた。
「もちろん、彼女がそれだけ踊りに没頭していたというだけのことなのかもしれません。もっと決定的なものに触れたような気がしているんですが、まだよくわからないんです。すみません、曖昧なことしか言えなくて」
「いえ、柏木さんが決定的なものに触れたとお感じになるなら、きっとその通りなんですよ」
堂島はそう答えると、大野の方に向き直って尋ねた。
「藤花さんの交友関係について、ご存じのことがあったらお聞かせ願えますか」
「そうですね……、芸術家にはありがちなことだと思いますが、彼女の創作の原動力は恋愛でした。つまり、倉田という二十年連れ添った夫はいても、恋の相手はいつも他にいたということです」
「で、今の恋人は?」
「今日の舞台でデュオを踊った塚本拓也です。この一、二年で頭角を現してきて、今回ついに相手役に抜擢されたわけですが、才能が開花したから彼女の目にとまったのか、彼女との恋愛がその才能を目覚めさせたのか、どちらかよくわからない感じでしたね。彼女との関係がプラスに作用したのは確かですが……。彼女との恋愛は、常に何か霊感のようなものを相手に与えるんですよ。ほら、そこの里見克彦もそうだ。この公演の伴奏音楽の作曲者です」
大野はそう言うと、先程から右手側の最前列の座席にすわったまま、無人の舞台を見つめている三十歳半ばの人物を目で示した。
「彼女とつき合っていたのは五年程前でしたかね。彼女の公演のための曲を作って注目を浴び、映画音楽を手がけるようになった。最近では海外からの依頼まであるそうですよ」
「で塚本は今どちらに?」
「出演者の控室です。聞き取りを行うのは少し待っていただけますか? かなりショックを受けていますので」
「わかりました。デュオを踊っている時、迫の状態はどうだったか、こちらが確かめたいのはほぼその一点ですし、そう急ぐ必要はありません。話は戻りますが、恋人同士が敵対することは?」
「ないと思います。彼女は複数の相手と同時に交際することはしませんから。『すべてを汲み尽くせ』、それが彼女の恋愛のモットーですね。そして時が来ればきれいに別れ、倉田のもとでしばし休息した後、新たな恋を始める……。別れた後で彼女を憎んでいる者はいないと思います。里見のように、皆彼女の良き協力者なっていますから。今や国際的バレエダンサーのⅯ・Nや歌舞伎役者のS・Hだって、彼女が共演しようと声をかければすっ飛んできますよ」
「ということは、彼らも藤花さんと?」
堂島が驚きの声を上げた。
「ええ。もちろん彼らがまだ若手で、独身の頃の話です」
大野がそう答えた時、演出家の倉田誠治が姿を現した。年齢は藤花より五歳ほど年上の五十歳位だろうか。
「こちらが警察の方々?」と倉田はやや物憂げな口調で大野に尋ねた。
「そうだ」
「警視庁捜査一課の堂島です」と堂島が話を引き取って言った。
「そして、新宿警察署の村田巡査部長。それから、昆虫学者の柏木准教授とご友人の澤村翠さん。柏木さんには数々の事件の解決にご協力いただいておりまして、捜査関係者の一人とお考えいただいて結構です。お二人は観客として舞台をご覧になっていました。私のところに事故を通報してくださったのも柏木さんです」
「初めまして、倉田誠治です。柏木准教授のお名前は、テレビのニュースでうかがったことがあるように思います」
「それで、柏木さんによれば、藤花さんが転落する瞬間、微笑みを浮かべているように見えた。まるで、事故が起こることを予期していたかのようだったそうなんだよ」と大野が倉田に言った。
「なるほど、さすがだな……」
倉田はつぶやくようにそう言いながらうなずいた。
「と言いますと?」
そう尋ねる堂島に、倉田はじっと目を注いで答えた。
「実は、私も柏木さんと同じような印象を持っていたんです。迫が下りていることは、足裏の感触で即座にわかったはずなのに、彼女は微笑んだままだった」
「一体どういうことなんでしょう?」
「よくわかりません。もともと謎の多い芸術家でしたが……」
「藤花さんが自殺した可能性については、どうお考えになりますか?」と柏木が尋ねた。
「その類の願望を抱いていたことは確かですが、彼女のようなタイプの芸術家にはありがちなことで、本当に実行に移したのかとなると、考えにくいように思います。そもそも本番中に彼女が迫を下げるなどということは、ほとんど不可能でしょう」
「不躾な質問で恐縮ですが、彼女の交友関係について、夫として不満を持っておいでではありませんでしたか?」
「どう説明したらいいんでしょうね……」
倉田は堂島の問いに苦笑を浮かべながらも、冷静な口調を変えずに答えた。
「彼女の夫であるということは、彼女と恋人との関係を容認することと同じなんですよ。藤花は、恋愛の延長として結婚を望み、家庭を築いて子を生す、といった存在ではない。常に誰かを愛し、霊感に震え、舞う……。彼女にとっては、それが生きるということなんです」
「ありがとうございます。芸術家を理解するのは手に余りますが、あなたがいらしたからこそ平塚藤花さんの芸術があったことだけは、私にもわかったように思います。話は変わりますが、公演中はどちらに? やはり大野さんとご一緒でしたか?」
「いえ、あのあたりの席で見ていました」
倉田はそう言いながら柏木達の席より五列ほど後ろの座席を指差した。
「本番が始まってしまえば、演出家はお役御免ですからね。観客の一人として舞台を観るのが習慣なんです」
「よくわかりました。どの質問にも誠実にお答えいただいて、本当に助かりました」と堂島は言った。
現場での捜査は堂島や新たに到着した前園らに任せて、柏木は翠とともに一足早くこの場を離れることにした。倉田の話ではすでにテレビや新聞の報道陣が集まってきていて、倉田も十五分後に舞踊団の代表として会見に臨むことになっていた。現時点で犯罪の可能性に言及する予定はなく、柏木と警察関係者が一緒にいるところを記者たちに見られることは、何としても避ける必要があった。
「こちらが公演の画像データです。編集前なので、五台のカメラの映像がそのまま入っています」
大野はそう言いながら、USBメモリーを柏木と堂島に一本ずつ手渡した。
「ありがとうございます。堂島さん、僕はとにかくこれをチェックしてみます。何か見つかったらすぐご報告しますから」
「了解しました。こちらも、プログラムのチェック等で進展があればすぐご連絡を差し上げます。あ、そうそう、澤村さん、ひとつお願いがあるんですが」
「何でしょう?」
「柏木さんのお力を拝借しなければならない事件が最近たて続けに起こっていましてね、我々は本当に助かっているんですが、もともと研究で多忙な方だ。オーバーワークにならないように、気をつけてあげてください」
「わかりました」
堂島の言葉に、翠は少しはにかみながら微笑んだ。
「では、お二人ともお気をつけて」
「前園君によろしくお伝えください」
舞台の中央で穴の底をのぞき込んでいる前園の姿に気づいて、柏木はそう付け加えた。
その夜、柏木は書斎で、五台のカメラの画像データをパソコンに取り込み、マルチ画面で再生しながらチェックを続けていた。彼がドアをノックする音に応えると、翠がアイスコーヒーのグラスを載せた盆を手にして入ってきた。
「コーヒーをどうぞ」
「ありがとう」
柏木はアームチェアを回転させて翠の方に向き直ると、コーヒーを受け取った。
「ビデオをご覧になっていかがでした?」
翠は書斎の中央に置かれた革張りのスツールに腰をおろしながら尋ねた。
「これといったものはまだ何も。この一件が単なる事故でないことだけは、改めて確信したけどね」
柏木はそう言うと、パソコンのキーボードをたたいて、一枚の静止画像を翠に示した。それは転落の瞬間を、照明用の柱に取り付けられたカメラが真上からとらえたもので、背面からその身を奈落の底に投げ出そうとしているかのような体勢で、藤花は陶然とした笑みを浮かべていた。
「これが不慮の事故に遭遇した人の表情だなんて、一体誰が考えるだろう」
「藤花さん、まだ踊り続けているみたいですね」
「でも、彼女が何を考え、どんな気持ちでいたのかということになると、僕にはまったくわからない。倉田さんはわかっているのかもしれないけどね。藤花さんのことを話す時の彼は、夫というよりも、芸術活動の同志という感じだった。何にしても、僕があの時触れたような気がしたものは、もっと客観的に事件の真相を教えてくれるはずのものなんだ。今はとにかくそれを見つけないとね」
「頑張ってくださいね。あ、でも、無理は禁物です」
「そういえば、堂島さんからさっきお目付け役を仰せつかっていたね。心配ないよ。こうして話し相手になってもらえるだけで、いい気分転換になる」
柏木はそう答えると、再びアイスコーヒーのグラスを手に取った。
「うん?」
ストローに伸ばしかけた手を止めると、柏木はそのまま考え込んだ。
「どうかなさったの?」
「ストローのまわりに泡が……。さっきまでなかったし、泡立つほどかき混ぜてもいない。もしかすると……」
柏木は急いでパソコンに向かい、映像のタイムコードを確かめた。翠に静止画像を見せた後は、マルチ画面の動画再生がそのまま続いていて、今は藤花が迫で登場してから十一分が経過したところだった。
「君が来て五分といったところかな」
柏木はつぶやくようにそう言いながら映像を五分前に戻すと、音量を上げてもう一度再生を開始した。
二分後、つまり藤花の登場から八分後の場面にさしかかった時、ストローの周囲に細かな泡が生じ始めた。
「どういうことなんですか?」
柏木と一緒にグラスを見つめていた翠が声を上げた。
「超音波にストローが共振しているんだ。僕らには聞こえないけれど、かなりの音量だろうね。大野さんが非圧縮の音声を入れてくれていて助かったよ。圧縮フォーマットの音だったら、可聴域でカットされてしまうから気づけなかった」
柏木はタイムコードをメモすると、マルチ画面を個々のカメラの画像に切り替えて、一つ一つ丹念にチェックしていった。
「あったぞ! これがあの時触れていた〈決定的なもの〉の正体なんだ」
柏木は声を弾ませてそう言うと、画面の奥の方にかろうじて写りこんでいた、篝火のまわりを飛び交う蛾の群れを指差した
翌日の午後七時、柏木は澤村翠とともに新宿御苑の舞台を再び訪れた。彼から連絡を受けて、堂島警部補がもう一度現場検証を実施する決定を下したのだった。
「柏木さん、お待ちしていました。澤村さんもご足労いただきありがとうございます」
二人を舞台上で迎える堂島の傍らには、新宿署の村田巡査部長と、演出家の倉田誠治の姿があった。
「今、大野氏が最後の調整を行っているところです。まもなく始められますよ」
コントロールブースで助手に指示を与えている大野に目をやりながら堂島が言った。
客席を照らす照明は消えたままだったが、舞台を上部から照らすメインの照明と、舞台中央の炎のホログラム、四隅の篝火を模した照明はすべて点灯され、すでにヒトリガなどがその周囲を飛び交っていた。
やがて、準備を終えた大野が舞台に上がってくると、堂島はこれから行われようとしている検証の内容を説明した。
「昨晩、柏木准教授から迫が下りた原因が明らかになったとのご連絡をいただきまして、その確認をするためにこうしてお集まりいただいたわけです。客席の照明はなく、演者は登場しませんが、音響、舞台照明などは昨夜の本番同様に進行させます。柏木さん、再現するのは藤花さんのソロパートが始まって七分たったところからでよろしいんですね?」
「ええ、それで結構です」
「では、大野さん、お願いします」
大野は堂島の言葉にうなずくと、コントロールブースに残っている助手に右手で合図を送った。音楽が流れ始めると、柏木は周囲の人々に声をかけた。
「篝火のまわりを飛んでいる蛾を見ていてください。彼らの飛び方が乱れたら、迫が下りる合図です」
数十秒後、それまでめいめいが円を描くように飛んでいた蛾の群れに突然乱れが生じた。あるものたちは飛ぶことを放棄してぽとりと落下し、またあるものたちは急旋回したり左右に揺れ動くように飛んだりして、瞬く間に篝火の周囲から姿を消した。
「ここだ」
柏木の言葉を合図に皆の視線が舞台中央に注がれる中で、炎のホログラムの下の迫が、ゆっくりと下降し始めた。
「一体何が起こったんですか?」と大野が尋ねた。
「超音波の作用です。伴奏音楽の中に、迫を作動させる信号がまぎれ込ませてあったんですよ。会場中のスピーカーからあらゆる方向に大音量で流されたから、どれかが迫の超音波センサーに届いたんでしょう」
「あの蛾の動きは?」
「ヒトリガのような夜行性の蛾の多くは、捕食者のコウモリが発する超音波に対して回避行動を取るんです」
「なるほどそういうことか……。しかし、よく気づかれましたね」
「僕も蛾の動きをそれほどはっきりと見ていたわけではありません。ただ、聴覚細胞は反応しなくても、超音波によって鼓膜は振動しているわけだから、圧迫感のようなものは感じていたのかもしれませんね。それと同時に特殊な現象が起こったせいで、何かがあったという印象が、意識の底に残されたということでしょうか。いずれにしても、公演の映像をチェックしている時に、アイスコーヒーのストローが超音波に共振してコーヒーを泡立てなかったら、真相に到達するのは難しかっただろうと思います。大野さんが非圧縮の音声を入れておいてくださったおかげですね。圧縮データでは超音波はカットされてしまいますから」
「それで、誰が音源に細工を?」
首を傾げながら尋ねる大野に、柏木は穏やかな口調で答えた。
「倉田さんです。鑑識の報告によると、伴奏音楽のデータが入ったUSBメモリーには、倉田さんの指紋しか残されていなかった。以前うかがった大野さんのお話しでは、USBメモリーは大野さんが素手でコントロールユニットに差し込んだはずなのにです。つまり、その後で倉田さんが、超音波信号の入ったメモリーに差し替えたことになる。同じメーカーの製品で外見は全く同じですが、別物なんです。倉田さんは演出家という立場上、必要な音素材は簡単に用意できたし、音源を編集するスタジオだっていくらでもご存じのはずだ」
「ええ、おっしゃる通りです」と、倉田はうなずきながら答えた。
「ですが、僕に解明できたのはここまでです。残された映像を見ると、藤花さんは事故に遭うことを予期していたようでした。それどころか、最期の瞬間には微笑みさえ浮かべていた……。倉田さん、藤花さんは自殺で、あなたはそれに手を貸した、ということなんですか?」
「いえ、違います。私は年甲斐もなく嫉妬にかられ、今回の犯罪を思いついた」
「しかし、藤花さんの浮気はいつものことじゃないか、なんでまた今回に限って」と大野が声を上げた。
「別に言い訳するつもりはないんだが……」
倉田は舞台中央にできた穴の上で燃え盛る炎のホログラムに目をやりながら話し始めた。
「彼女はあえて僕の嫉妬心をかき立てようとしていたような気がする。あの演技力で、塚本との親密な関係をこちらに見せつけていたんだ。もっとも、これは後から考えたことで、彼女が転落するまではひたすら嫉妬に狂い、死を願っていたよ」
倉田はそこで言葉を切ると、柏木と堂島のほうに向き直った。
「柏木さん、堂島さん、お手を煩わせて申し訳ありませんでした。すぐに真相をお話しすべきだったんですが、考えをまとめることができなくて……」
「倉田さんは誠実だったと思いますよ。証拠を隠滅する機会はいくらでもあったはずなのに、何もなさらなかった。僕にはやはり、今回の事件は藤花さんの自殺に近い性質のものだったような気がします。彼女がなぜ死を望んだのか、何か思い当たることはありませんか?」
「二年程前ですが、藤花が何かの折に、自分はまもなく一世一代の舞を舞うことができそうな気がする。もちろんそれはすばらしいことだが、その後のことを思うと恐ろしくもある、といった意味のことを言ったことがあります。頂点を極めてしまえば、後は下りが続くだけだとね。世阿弥が言うように、たやすい演目に彩りを添えながら『少な少な』に演じて、老境を楽しむことができればよいのだが、そんな気持ちになることは決してないだろうと……。今回の舞台で藤花が何を考えていたのかはよくわかりません。ただ、彼女は一世一代の舞を舞いおおせた。それだけは確かです。柏木さん、おかげで心の整理がつきました。ありがとうございます」
倉田はそう言って深く頭を下げた。
堂島はそっと倉田に近づくと、小声で同行を求める旨を伝え、倉田は無言でうなずいた。
「では柏木さん、我々は一足お先に失礼します。倉田さんからうかがいたいことが色々とありますので。それと、藤花さんの自殺願望を裏付けるような日記や手記が残されていないか確認しておきます。遺書が見つかることだってあるかもしれません。長年夫であり同志であった相手が、単なる殺人犯として扱われるのをそのままにするような人物とは思えませんし……」
堂島はそう言い残すと、村田と二人で倉田を導いて舞台を去った。続いて大野が事件の経緯を伝えるために団員達のもとに向かうと、舞台上には柏木と翠の二人だけが残された。しばらくの沈黙の後、柏木は篝火のまわりに戻ってきていた蛾の群れを見つめながら翠に言った。
「速水御舟『炎舞』が見たくなってきたな……。翠さん、今度一緒に行きませんか?」
「ええ、是非」
柏木とともに蛾の群れを見つめながら、翠は優しく微笑んだ。
次回リリースの『蜘蛛の糸』(7/10アップロード予定)で、シリーズ第一期完結となります。
完結に向け、第一話『冬の蝶』の冒頭にプロローグを付しました。