香取くんが拐かされた!
慣れない生活と慣れない身体で疲れていた私は弟を抱っこして寝る事でよく寝過ぎてしまった。
雪哉はもう仕事に行ったんだね……あ、トイレに行きたい。どっぽん便所やだなあ、臭いし寒いし。でも一番困っているのは朝の屹立だ。尿意と角度に辟易しながら朝のルーティーンを終わらすと『真ん中の部屋』から人の気配がした。そーっと覗くと香取くんが文机に書類を広げて仕事をしている。賊に入られた場合は『真ん中の部屋』でしか対処できないから『真ん中の部屋』が無事でよかった。流石に平和ボケし過ぎている自覚もあるけど、天井に侵入されたのを経験してしまうと現実を受け止めるしかないね。
「おはよう香取くん、雪哉はもう出掛けたの?」
「おはようございます先輩、よく眠れましたか? 雪哉は今日は大蔵省に出向くけど昼頃には帰ってくるそうです。先輩、自分と二人じゃ寛げないかもしれませんが起きてる間はなるべく『真ん中の部屋』に居てくださいね。昼寝もここか、自分の部屋なら襖開けて……」
「雪哉にも何回も言われているから心得てるよ。それに香取くんとは長い付き合いなんだから身内みたいなもんじゃない。嫌な訳ないでしょ」
「タラララッタッター! 聖太朗は『後輩』から『身内』に進化した。聖太朗は『あまえる』を覚えた」
香取くんが私を和ませるためにおちゃらけてくれる。
「攻撃力が下がっちゃったw もし仕事のお邪魔じゃないならお茶淹れるけど飲む?」
「いただきます!台所に鉄の急須と湯呑と番茶をお盆に載せて置いてありますので。火の付け方わかりますか?」
ん?あれっ?この部屋の真ん中には手炙り火鉢があって、その中には五徳と鉄製のやかんが置いてあるよね。これ使うんじゃ?不思議に思って見ていると、
「あぁ、それはフェイクですよ。その火鉢が何か聞いたんじゃないんですか?」
「聞いたよ。動くんでしょ?」
「動きます!だから本物のやかんがそこにあったら危ないですよね?」
……私って注意深い方だと思ってたけど気のせいだったよ。23年間 勘違いしていて、ごめんなさい!
トイレ もとい、便所に引き続き、台所はもっと不便だった。 竈と七輪と火打石……どうすりゃいいんだ?これ。結局、火おこしチャレンジをクリアできなかった私は、火鉢からタネ火を貰って竃型の七輪で湯を沸かした。
転生時高校生だった二人がたったの3年間でこれだけの 生活力を身につけるなど、どれだけの努力があったのだろう?仕事をさがし、家を借り、生活用式を整える。その上、賊や番人達に襲われないよう様々な仕掛けが施されている。正直なところ、私だったら三年とたたず野垂れ死んでいただろう。二人とも凄すぎる! もう~ 抱き潰して頬ずりして顎で挟んでグリグリして褒めてあげたい。そんな事したら雪哉は喜ぶかも知れないけど、香取くんには全力でひかれちゃうんだろうな。あの子は昔からわざと はすっぱ風に振舞っているけれど、実はめちゃくちゃシャイな子だから……
二人をまとめてグリグリしている自分を想像してニヤニヤした後、一番何もできていない私が褒めてあげたいとか何様?と気づいて落ち込んだ。
お茶を飲みながら、香取くんは仕事を中断しておしゃべりしてくれた。彼のあいかわらず彼の語り口は軽くて楽しい。私も早くこの子達の役にたてるようにならなきゃね。
お茶を飲み終わったので、これ以上香取くんの仕事の邪魔をしないようにと、空の湯呑みをお盆にのせて立ち上がった。
「先輩、自分が洗います。井戸水冷たいですから!」
香取くんがすっと私の持っていたお盆を取り上げて台所に向かう。さすが3人兄妹の長男だね。優しさがハンパない。あ、そうか井戸水!使い方見なきゃ!
蛇口を捻るとお湯がでるという頃は、とても幸せな事だったんだね。
私、発火能力を頂くとかどう?どっかの大佐みたいに指をパチンってすると、火を飛ばせるの!火力が強過ぎたら香取くんに雨降らしてもらったらいいし!
心の中ではしゃいでいると
「先輩、約束のハグお願いします!」
と香取くんが照れた顔で微笑んだ。おおっ♡グリグリさせてくれるか少年! 私は嬉しくなって、おいで!とばかりに諸手を広げた。香取くんが嬉しそうに私の胸元に飛び込んできた。
そうだよねぇ、不安で緊張の毎日だっただろうし。
「綾先輩っ!もし自分が犬だったら今しっぽがちぎれそうなくらい振ってると思います!」
「犬ってw 初めて会った頃に比べて香取君は大きくなったよね。今じゃ大型犬だね。」
香取くんは私の胸元に無心ですりすりしている。あぁ、今生は男で良かったね。女だったらうっかり勘違いするところだったよ。雪哉にいつもしているように香取くんの髪を撫でながらフッと笑ってしまった。
私の息がかかった途端に香取くんの目が虚になって、突然口付けを……口付け?!……というか……
香取くんは朦朧とした様子で私の口周りをパクパクペロペロしている。意識無さそうだけど、犬がやるヤツじゃんこれ!大学の時に遊びに行った友人宅のわんこを撫でてたら顔中舐められたことがある、あれに似ている。さて、どうしよう?これって例の私の能力のフェロモンとかってやつだよね。さっきの無垢な感じが可愛すぎて離したくないけど、もし今、この子が我にかえったらかわいそうだ。そーっと離して何も無かった風にした方が……
無常にも『もし今』はすぐにやってきた。
「あっ……」
突然我にかえった香取くんが泣きそうに顔を歪めた。
「おっ、おれはなんてことを……」
「仕方ないよ。これも私の出してるフェロモンとかのせいなんでしょう?もしかして初めてだったの?ごめん、私のせいで初めてを奪ってしまったかな?」
こんなわんこの所業がファーストキスだったら可哀想過ぎる。火がついたようにバッと飛び退いた香取くんは、走って家から出て行ってしまった。なんかこれ、無理矢理女の子にちゅーをして泣かせてしまった男の図のようじゃない?
「こんな事で初めて男になった事を実感するなんて……ごめん香取くん。男どうしでキスとか嫌だよね……」
打ちひしがれていると天井から物音が聞こえた。
コロッコロコロコーーーッ
激しくビー玉が転がった音……間違いなく非常事態だ。
「只今より非常事態により、作戦コードAを実行します」心の中で呟いて指差し確認する。
まず手炙り火鉢の火を消す。……水差しの水をかける。私のせいで香取くんが仕事中の種類を置きっぱなしで出て行ってしまった。英国大使局の書類だ。わからないけど機密系なら置きっぱなしにするのはまずい。ささっと纏めて小脇に抱える。
そしてこれ!手炙り火鉢の下の引き出しを開けて閂のようなロックを解除して手炙り火鉢を北に向かって押す!よく蝋を塗ってあるらしく音もたてずに動いた。
おおっ!すごいすごい!
下に向かう急な階段が現れた。
私は素早く引き出しを元に戻し階段を数段降りて、火鉢の真ん中辺りにある溝に手をかけて火鉢を元の位置に戻した。さらに板でできているスライド式の蓋をぴっちり締める。なるほど、火鉢の五徳とやかんはフェイクとしてくっつけておかないと倒れてしまう。ずらしたってバレバレだもんね。
この部屋の床下は石灰を固めたコンクリートに似た素材で侵入を防いでいるって最初に来た日に聞いた。真ん中に穴が開いててもバレないわけだ。懐中電灯なんてない真っ暗な階段を一段づつ手探りで降りていく。せめてマッチと蝋燭が欲しい。マッチは最近日本にも幾つか工場がでてきたから、もう少しすると手が届く値段になるだろうって、さっき香取くんが言ってたね。早く普及して欲しいよ。音を立てない様にお尻でずりずり降りたから自信ないけど、たぶん一階分、2m半くらいは降りたんじゃないかと思う。もう下に下がる段がなくなったのでそーっと立ち上がって左手の方向に手探りで進む。
こんなもの作っちゃうなんて凄いよね。どうやって作ったんだろう?防空壕を利用してという言葉が頭をよぎったけど、防空壕が第二次世界大戦からの仕組みなら、この時代にはまだないだろう。何メートルか進むとうっすら明かりが見えた。突き当たりに階段があって登ると蔵のような所だった。
私はここで待っていればいい。雪哉か香取くんが来てくれるのを……
土中よりはやや明るいだけの暗い蔵のような所でじっとしていたらいつの間にか眠ってしまった。
蔵の入り口が開けられて眩しさに目を眇めていると、雪哉の声が聞こえた。
「姉さん!セータ……香取くんはどこ?」
「香取くんは、家を出て行って……」
「なんで?何があったの?誰か来た?帰ってきたら家の中めちゃくちゃで二人ともいないからっ、
僕心配で気が狂いそうだったよ!」
「めちゃくちゃ?」
「物色というよりも、何かをさがして荒らされたような跡だった。セータはどこにいるの?賊に入られたの?」
「何かをさがして……もしかしてこれかな?」
私は香取くんの仕事途中の書類が、出しっぱなしなのはまずいかと思って持ってきた事を説明した。
「セータが仕事中の書類をそのままにして外に出る訳がないだろう!何があったのっ?」
「あー、いや……大型犬を撫で撫でしたらペロペロされて、キャンキャンって逃げて……」
「姉さんっ!」
さすがに雪哉がものすごい勢いで怒っている。
「セータの命が危ないかもしれないんだよっ!はっきり喋って!一刻を争う事件だったらどうするの?!令和じゃないんだよ!」
わかってる。
でも香取くんの尊厳も守ってやりたいんだよ。
どうすればいい?
10/29 誤字脱字、わかりにくい言い回しを改変しました。