獅子系男子とイベリコちゃん
ここは、とある平行世界。
通常の人間の他に、獣人や魚人や鱗人、はたまた虫人や木人といった多様な種族が存在し、祖は違えど同じ人類として共に社会生活を送っている。
そんなパラレル日本の、ごく一般的な公立高校の昼休み。
賑やかな教室の一角で、人間の女生徒がクラスメイトであるライオンの獣人男子に声を掛けていた。
「獅子谷くん、ちょっと来てもらっていい?
委員会のことで話があるんだけど」
「あぁ、うん」
身長一八九センチのガッシリとしたモフモフ男子、獅子谷レノを呼び出したのは、体重七十二キロのぽっちゃり系女子、伊部莉子だ。
いかにも肉質の良さそうな名前だが、彼女は豚の獣人ではなく純粋な人間である。
「えっと、伊部さん? どこに向かってるの?」
「うん、もうちょっとだから」
小さな背に誘われるまま歩を進めるレノだったが、やがて、明らかに人気のない場所へと導かれている様子に不信感を抱いて、当然の疑問を投げかけた。
しかし、明確な答えは返らず、怪訝に思いながらも、強者である獅子は危機感なく少女を追い続ける。
最終的に、現在は使われていない焼却場の裏手で立ち止まった莉子。
彼女は周囲を軽く見渡した後、申し訳なさを滲ませた顔で振り向いて、同時に目的を告げる。
「ごめん、委員会の話っていうのは嘘なんだ。
実は、獅子谷くんに一つ内緒のお願いがあって……」
「僕に、お願い? 伊部さんが?」
彼らはクラスこそ同じだが、ソレもたった二月程前からのことで、現在までまともに交流を図った事実もない、知り合いというにも微妙な間柄だ。
だからこそ、想定外の切り出しにレノは困惑した。
逆に、莉子は彼の反応を予測していたのか、非常に落ち着いた面持ちで自身の願望についてを語り始める。
「うん、あのね?
獅子谷くんの丸まった背中を見てると、とにかく負ぶさりたくて仕方がなくなるんだけど……今から、いい?」
「はい?」
突拍子のない話が耳に飛び込んで来て、思わず長い鼻筋に皺が寄った。
ちなみに、彼女の言う丸まった背とは、単純に彼の猫背癖を示している。
「いや、よくないよ。
会話らしい会話もコレが初めての単なるクラスメイトな距離感かつ男女の間柄で、いきなりやっていいコトじゃないでしょ常識的に考えて。
出来れば我慢してくれないかな」
教室では基本、物静かな男子なのだが、混乱する気持ちもあってか、必要以上に拒絶の言葉を連ねてしまうレノ。
「そんなっ……お願いだよ。
お尻を向けられるとカンチョーしたくなる小学生男子ぐらいウズウズするんだよぅ」
だが、それでも莉子はめげなかった。
両手を祈る形に組んで、彼女は上目遣いで獅子の黒目をのぞき込む。
「それは本当に例えとして適切なの?」
レノの瞼が呆れの色も露わに細められた。
しかし、少女に堪えた様子はない。
「ねえ、脚でホールドまではしないからさ」
「当たり前のことを、さも妥協しましたみたいに言わないで」
「メリットがなくて嫌なんだったら、支えるフリして揉むぐらい全然オッケーだし」
「僕を何だと思ってるんだ」
「なに、って、高校生男子でしょ?」
「間違ってないけど、単語の解釈に致命的な齟齬がある気がする」
「彼氏やら片想いの相手もいないし、美人局とかでもないから警戒しないで」
「怖っ。前半はともかく、後半は学生から出る発想じゃなくない?」
ズレた同級生から意味不明な供述を繰り返され、獅子獣人は顰め面の中心部、己の眉間を指の肉球で揉みほぐす。
「はぁ、勘弁してよ」
「うう……ど、どうしても? 絶対ダメ?」
もはや遠慮を投げ捨てた彼が深いため息を吐けば、身長一五六センチのぽっちゃり系女子は、みるみる瞳に涙を溜めていった。
歪む表情を隠しもしないのは、彼女の美意識の低さの現れか、魂胆あっての見せつけか。
「ちょっ、待っ、嘘でしょ。
こんなことぐらいで泣かないでよっ」
「だって、の、乗っかりたい、背中ぁ」
さすがに女性を泣かせたとあっては居たたまれないようで、レノは慌てふためき両手を宙にさまよわせている。
それから、しばし牙を開閉させていた彼は、最終的に己のタテガミを右手で乱暴に掻きむしってから、ヤケクソ混じりに莉子の望む答えを口にした。
「っあー、もう! 分かった、分かったって。
今回だけだからねっ」
「えっウソ優しっ。好きになっちゃうかも」
途端、驚きと喜色を混ぜ合わせた面様で、いかにも頭の悪そうな軽々しい発言を繰り出す少女。
「……伊部さんさぁ」
「へへへ」
再び深い深いため息を吐くレノを前に、彼女は幼子の如き無邪気な笑みを零していた。
「んんー、太陽の匂いぃ。心がポカポカするんじゃあ」
「タテガミ嗅がないで。セクハラだよ」
焼却炉を囲むコンクリートの一角と剥き出しの地面との段差に座り込んだ獅子の背に、莉子が曲げた両腕を押し付け伸し掛かっている。
流石に首にしがみつくような形での密着は、レノが全力で常識を説きつつ嫌がることで回避した。
「そういえば、布団を干した後のお日様の香りの正体って、ダニの死骸の臭いとかよく言われてるよね」
「なぜ今その話をしたの?」
「実際は、布団の繊維に含まれる化学物質の励起によるものってのが正しいんだって」
「だから、なんで今そういう話をするの?」
「獅子谷くん、私の脳内には現在進行形で沢山の幸福物質が放出されているよ」
「マイペースってレベルじゃないでしょ、伊部さん」
苦い顔をしながらも、大人しくされるがままになっている獅子系男子。
長いのか短いのか、それから約十分ほど経過した頃合いに、そこそこ満足したらしい莉子が広い背を離れた。
間を置かず、彼女は巨体の正面に回り込み、厚めの唇から薄っぺらな感謝の意を示してくる。
「いやー、堪能したぁ。ありがとありがと。
んじゃあ、また次、辛抱できなくなったらお願いするねー」
「はい? 僕は今回だけって言……伊部さんっ」
不都合な言葉をスルーするためか、単に行動力の問題か、莉子はレノの反応を待つことなく、駆け足でその場を立ち去って行った。
結果、ひとり焼却場に取り残された若き獅子は、校内に予鈴の音が鳴り響くまで、ただ唖然と固まることしか出来なかったのだという。
「獅子谷くんって、けっこう女子と距離あるっていうか。
意図的に避けてるトコあるよね」
奇妙な頼まれ事から約一ヶ月後。
レノはまたも莉子の策略で例の場所に連れ込まれ、自身の背を貸し出す羽目に陥っていた。
委員の話という名目で呼び出されている以上、強固に断るのも即座に踵を返すのも不自然だ。
また、人目ある道中のどこかで前回のようなやり取りをして、妙な噂や揶揄の的になるのをレノは避けたかった。
当然ながら、彼は目的地に到着してすぐに、一度だけの約束だと言って彼女の懇願を拒絶した。
しかし、いつまでもあの手この手でしつこく喰らいついてくる莉子の面倒臭さに負けて、最終的に約十分の我慢を選択してしまう。
受け入れさえすれば、しばらく静かであることが確定しているが、ここで逃げてしまえば、いつどこでどのように絡まれるか分かったものではないと、そんな憶測もレノが抵抗を諦める後押しとなった。
「不躾に何なの?」
背だけが目的であるのなら黙って堪能していれば良いものを、莉子は体勢と同じダラけた口調で獅子を構ってくる。
しかも、それらは軒並みレノの心をささくれ立たせる性質を持っていながら、さりとて、怒りを抱く程ではないという絶妙なバランスを保っていた。
「異性の存在に慣れてなくて挙動不審になっちゃうとか、恐怖症とか、嫌悪してるとかでもなく。
ただ、明らかに男子相手より線を引いた感じっていうか、女子だと途端につれない人になるというか」
「……伊部さんは、それを指摘してどうしたいの」
「別にぃ? そうだよね、って。前から思ってたこと言っただけー。
理由とかにも興味ないし」
「えぇ……」
そこそこ一般的な感性の持ち主である獅子にとって、彼女は凡そ理解不能な生き物だった。
もちろん、性別差などというチャチな理由では断じてない。
「あのね、たとえ本当のことでも、口にされたら嫌な気持ちになる場合があるんだよ。
人に話す内容は考えないと、あんまり奔放に振舞ってると、いつか周りに誰もいなくなっちゃうよ」
幼い子どもを諭すように、彼は危うい同級生へと忠告を送る。
けれど、これをどう受け取ったのか、莉子はいかにもヘラヘラ笑っているのだろうという声色で、なおも獅子の精神を逆撫でしてきた。
「あっは、獅子谷くんは優しいねぇ。
でも、ダイジョーブダイジョーブ。
私だって相手を選んでやるぐらいの知能はあるさー」
「……それって、僕がナメられてるってこと?」
彼女のあんまりなセリフに、さしものレノも喉から小さな唸りを上げる。
だというのに、ぽっちゃり少女は彼に対して微塵の恐れもみせず、相変わらずの緩さで薄い舌を軽快に回した。
「いやー、どっちかというと、甘えちゃってるのかも」
「甘え?」
予想外の単語が耳に飛び込んできて、把握が追いつかず獅子はキョトンと瞼を瞬かせる。
「そうそう。獅子谷くんはさー、好きで背中丸めてるじゃん?
気の弱い人が無意識に曲げちゃってるのとか、猫科のサガってのとも違ってさ」
「え、なんで、ソレ」
唐突に、隠していたつもりの事実を暴かれ、レノは反射的に巨体を竦ませた。
背に乗っている莉子が彼の動揺に気付かないワケもないのに、彼女はソレを一切スルーして、己の所見のみを放出し続ける。
「なんでも何も、見てたら分かるってぇ。
一部の先生はよく獅子谷くんに背筋のばせーとか、せっかくの恵まれた体がもったいないーとか、わざわざ呼び止めて指導してるけどさぁ。
本人がやりたくてやってんだから、悪い癖だとか矯正とか、見当違いも甚だしいよねぇ」
「……いや、まあ」
同意を求めるような声色に、レノはただ曖昧な応えで濁すことしか出来ない。
「で、だから、何てったら伝わるかな。
獅子谷くんの丸まった背中からは、安心オーラというか、ある種の頼りがいというか、ここにいれば絶対に生命を脅かされないっていう、本能的な、安全地帯だっていう感覚があって、結果、負ぶさりたい衝動とか、発言の甘えに繋がってくる、みたいな?」
彼女の中では、これでも前後を関連付けての順序立てた説明になっているようだ。
が、肝心の彼はひたすら頭上に疑問符を浮かべまくっている。
やがて、ため息ひとつと共に考えることを諦めた獅子獣人は、ひとつだけ判明した事実を牙の隙間から投げ落とした。
「……色々と晦渋だけど、とりあえず、伊部さんがかなり動物的な生き物であることは理解したよ」
「せやろか」
「そーでしょ」
不毛な会話を交わし終えて間もなく、本日の負ぶさりタイムが終了する。
前回同様、次もよろしくと厚顔に言ってのける莉子に対し、断固として拒絶するだけの気力は、もはやレノの中には残っていなかった。
そして、更に約一月後。
本来、夏休みの最中ではあるが、夏期講習なる学校行事に参加していたため、当然のように彼は彼女から常の誘いを掛けられた。
焼却場はゴミ倉庫の日陰に入っており、暑いから移動すべき等という案はどちらからも出ていない。
腰を落ち着け、いつものようにぽっちゃり女子を背に乗せた獅子は、珍しく彼女より先に一つの話題を提供する。
「今更だけどさ」
「んー、なにー?」
「伊部さんは、僕みたいな体の大きな男と一応外とはいえ二人きりで密着する状況に対して、女子として恐怖とか感じないの?」
真っ当な思考回路を持っていれば、必然的に抱く類の疑問だ。
しかし、尋ねるタイミングとしては、当人の宣言通り、遅きに失しているだろう。
まぁ、季節的に両者薄着で、体温や肉質を顕著に感じ取れてしまうという、年頃の男子にとって非常に悩ましい状況がきっかけなので、そういった意味ではタイムリーでもあるのだが。
「うーん。獅子谷くんてば、かなりの良識派男子だからなぁ。
女子に下世話な視線を向けてる場面なんて見たことないし、男子がそーいう話題で盛り上がってる時も距離を置いて絶対まざらないし。
そもそも、恐怖を感じなきゃいけないような相手なら、最初からこんなことに誘ってないっていうか」
「表向きどんなに紳士に振舞ってたって、裏の顔は分からないじゃないか」
本能タイプの同級生が想定外にまともな論を返してきた事実に内心で驚きながら、それでも足りぬ浅い考えをレノは脅すような低い声で指摘した。
が、もちろん、これで怯えるような莉子ではない。
「えー? でもさぁ、最初、すぐ断ってきたじゃん。
私、アレで獅子谷くんは大丈夫だって確信したんだよ?
実際、こうしてても安心感しかないし」
「……君、簡単すぎない?」
「そーかなぁー」
彼女なりの判断基準があり、今ある信頼はその結果であると、そう示されて、レノは奇妙な面映ゆさと口惜しさを感じて、小さな悪態を吐く。
「女の子なんて、どうしたってか弱いんだから、もっと危機感持ちなよ」
「はは、心配性のお父さんみたい」
「笑いごとじゃないってのに」
「大丈夫、大丈夫。
獅子谷くん以外の男子と、こんな無防備に触れ合ったりしないから」
「……なんだかなぁ」
そんなセリフは気のある相手にでも言えばいい、と喉から出かかった棘を、レノはため息に変えて打ち消した。
普通というカテゴリから大きく外れるこの少女が、一般的女子のような遠回しに好意を匂わせる真似などするはずもない。
彼女に恋情も愛情も抱いてはいないが、それでも年頃の少年らしく勝手に深読みして浮足立ちそうになる心を、レノは即座に鎮静化させる。
クラスでは変わらず知り合い以下の距離を保っており、とどのつまり、莉子が飽きれば今日にでも失われる程度の儚い関係性でしかないのだ。
彼の推測を裏付けるように、この日も彼女は一切の未練を見せることもなく、望みを遂げれば颯爽といずこかへ駆け去った。
下手な雑念に囚われぬよう注意しつつも、もはや月に一度の恒例行事と化した密会で、獅子獣人は不明瞭な同級生の解像度を上げんと対話を試みる。
「一体どう育てられたら、伊部さんみたいな不思議な子になるんだろうね?」
「ふふーん。我が家は賑やかだよぉ。
お調子者の父とお調子者の母とお調子者の兄と賢い猫とビビリの犬がいて、毎日愉快に暮らしてるから」
つまり、似た者一家ということだ。
全員揃えば、いつの間にやら即興のミュージカルやコントが開催されてしまうような姦しさで、犬もよく巻き込まれては、構われて嬉しいのか元気に尾を振っている。
唯一、猫だけは毎度迷惑そうに高所へと退避しているが。
「うん、ワケもなく血筋を感じるというか……ちょっと疲れそうなお宅だなぁ」
彼も、いち猫科の獣人として、後者に共感を覚える立場のようだ。
「人には向き不向きがあるもんねぇ」
「そういう問題なの?」
さすがに、そうした猫まで引っ張り出して来るような鬼畜さは、莉子含め伊部家の誰も持ち合わせていない。
騒がしい自覚があるからこそ、皆、棲み分けの大事さを良く理解しているのだ。
「で、獅子谷くんのご家族は?」
会話の自然な流れとして、同様の質問がレノに返される。
「あー………………僕の父は、さ」
「ん?」
すると、彼は迷いを含んだ小さな唸りと数秒の沈黙を挟んで、いかにも沈んだ声で独白じみた語りを始めた。
「自分がライオンの獣人だからっていうのを言い訳にして、ろくに働きもせず、あちこちで浮気を繰り返したり、簡単に暴力を振るったりするような、最低の男なんだ」
「ははあ」
「母さんは昔からずっと辛そうにしてたよ。
でも、息子の僕がいくら言っても、離婚はしないって、愛してるんだって、今もひたすら堪えてる。
結局、近くで支えてる僕より、都合よく利用するだけの父の方が好きなんだ。
仕事だって何だって優秀ですごい人なのに、どうしてあんな男に執着するのか、心底理解できなくてね」
「それはそれは」
いつかにレノが莉子から指摘された「女子と距離を取っている」というのも、父のように見境なく異性を侍らす男にならないためであり、母を通して女性そのものに彼が無意識の不信感を抱いているからだ。
重ための暴露が唐突に展開されているにも関わらず、ぽっちゃり女子は特に動揺もなく、日常の雑談ノリで適当な相槌を入れている。
「僕は、だから、絶対に父みたいなクズにだけはなりたくなくて……」
「わざわざ陰キャぶって生きてるわけかぁ」
「言い方」
「えー、オブラートに包んだって事実は変わらないじゃん」
空気を読まない少女が、とんでもない場所へと話を着地させた。
レノは静かに過ごしているだけで、別段、人見知りも物怖じもしないので、彼女の表現には大きく語弊がある。
「……はぁ。なんで伊部さんに、こんな話をしちゃったんだろう」
とは言いつつも、軽くあしらわれたことを獅子獣人はありがたくも感じていた。
これまで頑なに秘していた己の心情を吐露し、僅かだが胸のつかえが下りたような気にさえなっている。
「君には欺瞞ってモノがないからかな」
加えて、互いに顔が見えない状況や、いつでも切れる親しすぎない関係性が作用したのだろう。
「ええー?
嘘を吐かなそうって意味なら、ソレは勘違いだよ?
私、必要性があれば迷わないタイプだし。
実際、獅子谷くんを呼び出す時だってさぁ」
莉子は珍しく不満気な声色だ。
過大評価を受けたと考え、誤りを正そうと焦っているのかもしれない。
「いや、ちょっとニュアンスが伝わってないかも。
えっとね、僕は君を、不要と判断する限りは常に正直でいたい人なんじゃないかと思ってる」
「あぁー、んー……まぁ、そういう風に言われると頷くトコあるかなぁ。
誠実でいたいってのは大げさだけど、ストレス溜まるし、極力避けたいよね、自分自身も含めて、誰かを騙すような真似はさ」
「……うん、そうだね」
静かに頷き合う二人の間に、しんみりとした空気が流れている。
が、そんな時も長くは続かず、ぽっちゃり女子は急に何かに気付いたようにハッと目を見開くと、右拳を握り込みつつ、こう告げた。
「いかん、いかーんっ。
真面目になりすぎちゃあコレ、いかんですよ。
あッ、どうせ一度の我らが人生、悩む暇ありゃ踊らにゃ損損♪」
「ナニソレ?」
「私のオリジナル座右の銘」
「へ、へぇー」
「分かりやすく引くじゃん、このこのぉ」
「別に引いたワケじゃ……って、肩を揉まないで。
セクハラだよ、伊部さん」
「ええじゃないか、ええじゃないか」
「幕末じゃないんだよ」
悪びれない少女の態度に、獅子の口から控え目なため息が零れる。
けれど、今日のやり取りを経たことで、この素っ頓狂な同級生のハタ迷惑な負ぶさり要求を厭う気持ちは、もう彼の中のどこにもなくなってしまっていた。
平凡な日常が幾度も繰り返され、また、次の月が訪れる。
「ねぇ、こうやって毎度コソコソ人気のない場所に呼び出すのって、一応、僕の立場に気をつかってくれてたりする?」
前回、莉子に対しての感情が正寄りへと変化したことで、レノは遅蒔きながら、一つの真実に辿り着いていた。
「え? そりゃ、そうでしょ。
未だ青き若人らの集う学び舎だよ?
私は気にしないけど、教室とか廊下でやったら、絶対、獅子谷くんに不都合が発生するじゃん。
自分の欲望を満たしたいだけなのに、そゆトコで迷惑掛けるとかさぁ……ねえ?
さすがにそこまで考えなしじゃないって」
そう。彼女は他人の目などまるで意に介さない。
呼び出しは、あくまで彼への気遣いだったのだ。
ソレを悟った刹那、レノは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
「僕の……両親の話が、広まったりもしてないみたいだし」
「は? 普通、他人の事情を勝手にベラベラしゃべらなくない?
私のこと、どれだけアホの子だと思ってるの?」
侮りの過ぎる言われ様に、さしもの少女も困惑で眉を顰めている。
レノの方も失礼を承知の確認であったため、不快を示されたことに慌てる真似はしない。
「ごめん。ちょっとだけ誤解してた。
あんまり発言が明け透けだから、君はもっと全面的に配慮の足りない人なのかと」
本気で謝るつもりがあるのか、無礼を重ねる獣人男子。
「獅子谷くんも大概言うよねー」
しかし、莉子は彼の懺悔を受け入れ、笑って許した。
すでに歪みが正されているのならば、もはや彼女にとってはどうでもいい過去の話にすぎないのだ。
「伊部さんにだけだから」
「へへっ。特別扱いじゃん、照れる」
「……ポジティブな君が羨ましいよ」
お約束の如く、獅子は軽いため息を吐く。
その姿に何を感じ取ったのか、ぽっちゃり少女は右手を伸ばして、彼の耳と耳の間に生えるタテガミをおもむろに撫で始めた。
「よしよし、大丈夫大丈夫。
自分で気苦労の多い人生にしちゃってる不器用な獅子谷くんも可愛いよ」
「は? なんだよ、ソレ。
僕はどんな顔をすればいいんだ」
低く俯いて、逞しい両腕のカーテンで頭部前方をスッポリ覆うレノ。
そもそも、彼女は背に乗り上げており、彼が正面を向いている以上、隠す必要性は皆無なのだが、ソコは気分の問題ということなのだろう。
「好きな顔をしなよ。
獅子谷くんが笑っても泣いても怒っても、私はそうかと受け入れるだけさ」
「ズルい。ズルい人だ、君は」
「かもねぇ」
近付いて、優しくして、期待を持たせて……なのに、クラスメイトとしてのラインを越えようとはしない異性の同級生。
いつまでもハッキリしないままの希薄な関係性が、今のレノには酷くもどかしかった。
彼の言葉の意図を真には理解しないまま、莉子はただ空気を読んで、その場しのぎに頷いている。
「……僕は悔しいよ」
「なにが?」
「この時間が一番自然体でいられると気付いてしまったことが」
「んん?」
だから、これはレノから彼女という水面に投じる一石だ。
結果がどうなるのかは、受け手の判断に委ねられている。
「普段、表に出さないけど、本当の僕は心が狭いし、イヤミな性格で……だから、家にいても友人といても常に自分を抑えてイイコを演じてる。
かといって、一人でいると鬱屈した考えに苛まれがちで……。
その点、君は何を言っても猫じゃらしみたいにフワフワ受け流してしまうから」
「気兼ねなく話せると」
「うん、まあ、あんまり認めたくないけど」
決定的な言葉を避けているのは、素直になりきれない性格のためか、拒絶された際の保身のためか。
「格下扱いされてるなー、コレ」
「え。いや、逆だって……敵わないんだよ、色んな意味で」
「えー? そーかなー?」
進展は、なかった。
莉子がわざと惚けたのか、単に鈍いのかは、不明だ。
獅子獣人が教室でも少女の姿を目で追うようになると、思いの外、互いの視線は交差した。
その度に、彼女は周囲に気付かれない程度、僅かに瞼を細め微笑を返す。
これを不思議だとは、彼は考えなかった。
伊部莉子は最初からレノのことをよく言い当てていたのだから。
本人が気付かなかっただけで、以前から彼女はよく彼を観察していたのだろう。
日が経つごとに、レノの中の莉子への想いが明確な形を取り、また積み重なっていった。
しかし、それは彼にとって歓迎すべきことではない。
あの父と毋の子である獅子谷レノは、誰より己自身を信用していなかった。
だから、本当にもう無理だと、感情が巨体に収まりきれなくなる程に育ってしまった時、彼は彼女を約束の地へと呼び出したのだ。
自分が暴走する前に、全てを壊してしまうために。
「何か、思い詰めてるみたいだけど……どうしたの?」
獅子獣人の纏う深刻な空気に、莉子が慎重な態度で口を開く。
「……伊部さん。悪いんだけど、もう僕とこうして二人きりで会うのは止めて欲しいんだ」
「えーっと、どうしてかな?」
いつもであれば、即座に嫌だとダダを捏ねる場面だが、彼女もそこまで軽率ではないらしい。
「伊部さんといると思い知るから。
……僕がケダモノだという事実を」
「んん? ごめん、分からない。
そのココロは?」
少し申し訳なさそうに莉子が問う。
レノの中の冷静な部分が、彼女はこんな顔もするのだなと、新しい発見に小さな喜びを覚えていた。
「獅子谷くん? 大丈夫?」
「ああ、うん、大丈夫。
僕は……僕は、君を……」
憂慮の光を含んだ瞳に促され、いささか躊躇いつつも、獅子は少女へ向けて、その獣性を露わにする。
「君を愛したくて、仕方がないんだ。
追い詰めて、飛びかかって、噛みついて……君という人を自分だけのツガイにしたい」
「わお、情熱的ぃ……って、なんでそんな泣きそうな顔してるかな」
「僕……僕は……っ」
レノの唐突かつ熱烈な告白に、ポッと頬を染める莉子だったが、彼が悲壮な表情をしていることに気付いて、一転、眉尻を下げた。
「あのさ、前にも言ったけど、獅子谷くんの好きにしていいんだよ」
「えっ?」
本性を現せば怖がられるとばかり思っていた凶獣は、当の獲物からの急すぎる許しに驚き固まってしまう。
「想いも衝動も、全部全部、受け入れてあげるから。
獅子谷くんになら、ううん、獅子谷くんだから、私、何でもしてあげたいの」
彼の理解が追いつかぬ内に、まるで当然ことのように笑って、莉子はそう告げた。
ここまで言われれば、衝撃に鈍ったレノの頭にも、彼女の真意は浸透する。
「……は? え? は? なに?
前にも、って……あんな、いかにもその場限りのノリみたいな、軽く吐き出されたセリフに、そんな、そこまでの意図があったなんて、よ、読み取れるわけないじゃないか。
普段ムダに明け透けなくせに、分かりにくいんだよっ」
安堵や困惑の他、様々な感情がごちゃ混ぜになって、結果、逆ギレぎみにぽっちゃり女子を責めてしまう獅子系男子。
対して、莉子は慈しみのこもる苦笑を浮かべながら、肉付きのよい両手で彼の大きな右手を取り、胸の高さまで持ち上げた。
「獅子谷くんはさ、怖いんでしょ?
気持ちのままに動いたら、お父さんみたいに酷い男になるんじゃないかって。
どんなに自分に言い聞かせたって、あの人と血が繋がってる以上、不安は拭えない。
だから、振られて、離れたかった……違う?」
彼女の考察にレノは息を呑み、次いで、弱ったように肩を落とす。
「……っどうしてそう、余計なコトにばかり鋭いかな、伊部さんは」
「ふふ。いつだって獅子谷くんのこと、見て、聞いて、考えてるからね」
「はあ?」
「大丈夫。いけないラインを超えそうになったら全力で止めてあげるから、解放しちゃいなよ、自分の中の獣をさ。
もし、失敗しちゃっても、私の責任にしていいし。
それに、こっちだって獅子谷くんが欲しいんだから、下手に我慢されても困るんだよね」
ケダモノに誘惑を仕掛ける少女は満面の笑みだ。
己の身がいかに危険かを認識していないのか、と考えかけて、レノは首を横に振る。
彼女は単に、最悪のパターンすらも受け入れる覚悟でいるだけなのだ。
「っあぁ、くそ。なんで無駄に男前なんだ。
伊部さんの言葉で納得してしまう自分が、救われたような気になってる自分が、僕は何より悔しいよ」
空いている左手で、頭上のタテガミをくしゃりと握る。
そんなレノに、莉子は挑発的な表情を浮かべ、更に追い討ちを掛けるべく言の葉を重ねていった。
「獅子谷くんも、変なトコでプライドの高さ発揮する人だよねぇ。
ほら。腹が決まったんならさ、御託はもういいから、来なよ。
獲物は目の前だ」
掴んでいる右手を引っ張って、彼女は獣に行動を促す。
「っ無責任に煽ってくれて……もう、どうなったって知らないからな」
直後、レノは、もはやヤケクソとばかりに太い左腕で柔らかな肢体を抱き込んだ。
そして、その勢いのまま大きく口を開き、鋭い牙を見せつけながら、莉子の唇に噛みついていく。
やがて、彼女が声を奪われながらも、懸命に両腕を伸ばし逞しい首に回せば、お返しとばかりに、獅子の長い尾が白い足に巻きついた。
「……んん。ふふ、好きだよ、レノくん」
「は? ちょっと、急に可愛くなるの止めてよ。
バカバカ、莉子のバカ、怖いもの知らず」
と、まあ、こうして正式にお付き合いを始めた獅子谷レノと伊部莉子の二人は、間もなく、暇があれば彼の背に彼女がぶら下がっているような、大層頭のおかしいバカップルと化したのだという。
中には苦言を呈する者もいたようだが、共に勉学に励むことで上昇したテストの点数やレノの巨体を盾にした脅し、また莉子の観察眼で相手の弱みを握ることで、ほどなく全てを黙らせた、という話である。
「あ、ソレ、悩む暇ありゃ踊らにゃ損損♪」
「えーと、ええじゃないか、ええじゃないか?」
獅子系男子とイベリコちゃん
おしまい