計算違い
赤尾晴香が人事部長の誘いに乗り、愛人となって3年が経つ。
今日も退社後に待ち合わせて、夕食をともにし、ホテルに来ていた。
情事後の気怠い雰囲気の中、晴香は話を切り出す。
「部長、お願いがあるのだけど」
「なんだ?宝石でも欲しいのか。それとも洋服か?」
人事部長は社長の娘を妻とし、将来重役間違いなしと言われており、使える金も豊かである。
「いえ、それも欲しいけれど、そろそろ結婚しようと思うの。
私も20代の後半になるし、親もうるさくなってきたわ。
人事部には社員のデータが揃っているでしょう。
真面目で出世しそうな若手社員を選んで、私との結婚を薦めてよ」
「自分の愛人に結婚相手の紹介をさせるとはしっかりしているなあ。
お前は結婚してほしいとか馬鹿げたことも言わない、いい娘だ。
オレがよりすぐって、いいヤツを見つけてやろう」
人事部長は約束通り迅速に行動し、部下に若手社員の有望株を選抜させた。
「コイツはどうだ?大学も入社後の実績も抜群だ。
仕事に熱中してまだ恋人はいないが、目をつけている女性社員はいるようだぞ」
と部長は一枚の写真を見せる。
「うーん、出世しそうだけど、顔がイケメンではないわね」
「おいおい、これにイケメンも条件をつけられるとかなり難しいぞ。
だいたいそういう奴はもう相手がいるしな」
そう言いながら、部長は結婚後も晴香との関係を継続させるべく、イケメンは外していた。
「まあいいでしょう。許容範囲ではあるわ。
あとは、上手く彼に私のことを紹介してね」
黒田克明は人事部長からの呼び出しと聞き、何事かと身構えた。
仕事は順調で、私生活も問題はない。
何の用だと思いながら部長室に入ると、思わぬ縁談の話であった。
「以前に秘書をしていた赤尾晴香から結婚相手を探していると相談されて、成績優秀な君が思い浮かんだのだ。無理にとは言わんが、一度付き合ってみたらどうだ」
黒田も周りに結婚し始めている同期も出てきていて、そろそろ相手を探してもいいかと考えていた。
赤尾晴香といえば、社内でも有名な美人だが、交際を申し込まれてもすべて断ってきた高嶺の花と聞く。
「僕で釣り合うかはわかりませんが、彼女がいいと言うなら会ってみましょう」
克明と晴香はそれから初デートをすることとなった。
(意外とちゃんとした格好ね)
仕事人間と聞いていたが、克明はそれなりに見れる格好で待ち合わせ場所にやって来て、デートプランも立てていた。
晴香は思ったより楽しいデートになり、少し驚く。これまでの人事部長との逢瀬が人目を憚るものだったのが知らず識らずにストレスだったようだ。
(部長には色々と教えてもらったり奢ってもらったけどそろそろ潮時かもね)
晴香は人事部長が好きだったわけでもなく、お金持ちのオジサンとの暫くのアヴァンチュールのつもりだったので、いい思いもさせてもらったし、もう真っ当な暮らしに戻ろうかと考えた。
克明とのデートが増えるにつれ、部長の誘いも断ることが増えてきた。
人事部長も、美人でスタイルのいい晴香を惜しいと思うが、保身のためには深入りはしない。また、次の女を作ればいいことだ。
結婚式も近くなってきた頃、ホテルの一室で情事後に晴香は言う。
「約束通り、今日で最後ね。
これからは克明を引き立ててね」
「わかったが、また機会があればいいだろう」
と部長は未練ありげに肩に手を伸ばすが、晴香は払いのける。
「仲人がそんなことをしていいの?それより結婚祝いをくださいな」
「ああ」
部長は封筒に入れた札束を渡す。
式では紹介した縁で部長夫妻が仲人を務める。
「今日から他人ですから」
晴香の言葉に部長も言う。
「お前こそいらないことを言うな」
お互いに不倫の証拠は持っているが、立場のある人事部長の方が弱い。
結婚祝いという名目で手切れ金を出さざるを得なかった。
それから2年が過ぎ、克明は地方の部署の責任者に抜擢される。
ここで現場を経験し、本社に栄転するという出世コースである。
「晴香、喜べ。登竜門と呼ばれるところに異動だ」
「それはおめでとう。出世間違いなしね」
二人は仲良くやってきたが、まだ楽しもうとの晴香の意向で子供は作っていない。克明は美人で明るい晴香に満足していたが、早く子供が欲しかった。
「地方勤務なら本社ほど忙しくもない。
向こうで子供を作って育児をしよう」
「えー、私は仕事もあるしこっちに残るわ。」
晴香は本社のままである。
仕事を辞めて、地方で専業主婦なんて真っ平ごめんである。
「向こうで仕事を見つければいいだろう」
「こっちに友達もいるし、地方では遊ぶところもないわ」
初の夫婦喧嘩となり、克明は不満のまま単身で赴任した。
晴香が独り残った後、人事部長は直ぐに連絡してきた。
他の女を作ったが、晴香には遠く及ばなかったのだ。
部長に色々なところに連れて行かれ、贅沢を覚えた晴香は、克明との生活では一流レストランやブランド品を買い漁るわけにもいかず、部長の誘いは渡りに舟だった。
晴香は克明のいない数年間遊べば子供を産んで育児をするつもりで、部長にも最初にそう断った。部長も危ない橋はわたりたくないのでそれに同意する。
それに晴香は、克明が戻ってくれば、本社の中で若手のトップが行くポストも約束させる。それで罪悪感も薄まった。
再び始まった逢瀬は二人にとって焼けぼっくいに火がついた状況で、克明が戻るまでという期間限定であることが一層燃えさせる。
燃え上がる気持ちと克明がいないということが二人の警戒心を甘くした。
人事部長と晴香の親しげな様子は次第に社内で広がり、単身赴任先で克明の耳にも入る。
流石に優秀と評価されるだけあって克明は用意周到だった。
探偵に頼むとともに、社内の同期と連絡を取り二人の様子を探らせる。
そして定期的に晴香の家で部長が過ごしていることを知る。
ある日、いつものように晴香の携帯に部長からメールが入る、
「今日はお前の家でどうだ?」
「いいわ」
晴香は返信し、家での夕食の準備などのために早退する。
晴香が帰った後の職場では、女性職員の間でこんな会話が始まる。
「旦那は単身赴任、子供はいない。それで何をいそいそと嬉しげに帰っているのかね」
「そういえば人事部長は今日定時に帰ると言われていましたが、どこに帰るのやら。この前は定時に帰ったはずなのに奥様から電話がかかってきてましたね。残業と家には言われているようで、言い訳に困ります」
みんなで嘲笑する。
部長が晴香の家で風呂に入り、夕食を食べ、ベッドで愉しんでいるところに、ガチャと鍵の開く音がする。
「晴香、帰ったぞ。今日は会社の仲間と会ったので連れてきた」
克明の声とともに、ドヤドヤと数人がお邪魔しますと入ってくる。
部長と晴香は動転して凍りつく。
「あれ、どこに行った?メシを食ったあとがあるんだが」
バンと戸を開けられ、克明と会社の同僚が寝室に入ってきた。
「キャー」
克明の同僚の晃子がベットで裸でいる二人を見て悲鳴を上げる。
「おい、人事部長じゃないか」
「どういうことだ」
同僚たちが口々に騒ぐ中、克明はスマホを取り出し、同僚に「奴らをこれで映してくれ」と頼む。
「部長、ここは俺の家なんだがここで何をしている?
晴香、お前、人事部長とは俺との結婚前からの付き合いだな。
部長と不倫を続けるために本社に残ったんだな」
二人を問い詰める克明の言葉に、部長は無言で項垂れ、晴香は「違うの」としか言えない。
克明はもう一つのスマホを出して、どこかに電話する。
「奥様、ご無沙汰しております。黒田でございます。
実は今日帰宅すると、部長がうちの妻と裸でベッドにおられまして驚いております。
信じられないとは思いますが、お疑いならご主人の携帯におかけください」
直ぐに部長の背広から呼び出し音がする。
「部長、出なくていいんですか」
薄笑いを浮かべながら克明はそのスマホを取ると、「奥様、部長は出たくないそうなので私が出ました」と言った。
そしてスマホをスピーカーにすると部長夫人の声が聞こえる。
「あなた、よくも仲人した部下の妻に手を出しましたね。多少のことなら目を瞑るつもりでしたが、こんなことをする人とは暮らせません。即刻出ていってください。直ぐに父にも話しておきます」
プープーと切れる。
それを聞き、部長は「終わった」とガックリする。
更に克明は別のところに電話する。
「ハラスメント通報委員会ですか。
社員である僕の妻が人事部長と浮気をしていまして、これはハラスメントには当たらないのでしょうか。
また、妻と浮気をするために、職権を乱用して僕を地方に飛ばした疑いもあります。会社の処遇に不正があったと提訴することも考えています」
電話の向こうは監査室のようだった。
突然の告発に大慌ての様子が伺える。
さて言うべきことは言ったと克明は二人に向かい、言う。
「部長、いや、もうすぐ元部長ですか。慰謝料の請求は後ほど致しますので覚悟してください。さっき言ったとおり、会社とともに不当な人事処遇と提訴もしますので、法廷で会いましょう。
ああ、この妻とこの家は差し上げますよ。よほどお気に入りなのか、主人のように寛いでおられるので。あとは家賃も払ってください」
「晴香、当然離婚するが、財産分与はそれぞれの名義分でいいな。
子供が居なくて良かったよ。部長の子供を育てさせられていたかもしれない。
きれいな花には毒がある。勉強になった」
「待って。あなたの処遇を良くするように部長に頼んでいたの。
愛しているのはあなただけよ!」
晴香の言葉に克明は吐き捨てるように言う。
「誰がそんなことを頼んだ!この会社での好処遇のすべてが疑わしい。
俺は恥ずかしくてこの会社にはいられない」
克明は同僚に頭を下げて、「つまらないものを見せて済まない。しかし、身を守るためだ。何かあれば証言を頼む」と言う。
晃子が「汚らしい二人。社内でも噂になっていたもの。黒田さんがかわいそうだわ」と慰める。
克明と同僚が去り、呆然とする部長と晴香が残された。
その後の展開は早かった。
部長は離婚され、懲戒解雇で、克明から多額の慰謝料を請求される。
裁判では、仲人もし、人事で飛ばしたことが悪質だと例を見ない額を支払うこととなる。
更に克明は会社に対しても、浮気をするための不当な人事を認めたと提訴する。
途中で、週刊誌に『一流会社の呆れた人事。人事部長が愛人の夫を飛ばして浮気三昧』などと面白おかしく書かれ、会社は酷いイメージダウンを負った。
そのため、克明に和解料を払うとともに、人事部長個人の責任だと部長を提訴する。
部長は破産し、行方知らずになる。
浮浪者の中に似た人相を見たという人もいる。
克明は会社を退社し、異動先の地方に定住し、起業して成功した。
その隣には、会社の同僚だった晃子がいた。
晴香は、マスコミの報道で、上司と通じて夫を飛ばした浮気美人妻と有名になり、通勤以外は家に閉じこもる生活になった。
会社も針の筵だが、行く場所もなく、俯いて耐える毎日だった。
(ずっと計算通りだったのに、どこで間違えたの?)
そんなある日、退職して克明に付いていく晃子が社内を挨拶に回っていた。
晴香は会いたくないので給湯室にいたが、そこに晃子がやってきた。
「赤尾さん、ありがとう。あなたのおかげで好きな人と結ばれるわ。
入社してから克明とだんだん親しくなっていったのを、横から奪われて本当に腹が立ったけど、あなたが馬鹿なことをしてくれて助かった。
私も、あなたや部長の調査をしたり、彼や社内に上手く触れ回ったり大変だったけど甲斐があったわ」
それを聞き、晴香は自分の不幸は彼女のせいだと掴みかかるが、ヒョイと躱される。
「ごめんなさいね。私の身体は克明のものだから、小汚い人には触らせられないの」
勝ち誇ったように去っていく晃子を、晴香は「ちくしょう」と涙を流し、見送るしかなかった。