第1話:平凡な町にて
緑に覆われた大地が、果てなくどこまでも広がっている。時折吹く風のさまを示すかのように、膝ほどの高さまで伸びたその緑の草は緩やかに波打つ。
蒼かった空は朱く、どこまでも高い。刻を知らせるかのように、彼方で見える鳥の鳴き声が草原に聞こえていた。
閑寂なこの地には一本、道がある。
芝生ほどの短さに刈り取られた草が、緩やかに右へと曲がりながら道を形成していた。
その道に、二つの影がある。
前を行く白を基調とした車椅子に身を預ける影はティナであり、数歩ほど後ろを歩く長身の影はマキのものだ。
マキが麦藁帽子に巻き付けられた黒いリボンが風に靡く姿に意識を集めていると、突然、ティナの頭上で文字が横に走った。
『町だー』
視線を遠くへ移すと、反発する緑と朱の中心に灰色が浮かんでいるのに気が付く。それを町だと脳が理解するのに一瞬の間を開け、マキは小さく息を吐いた。
マキは焦点を手前に戻し、ティナに声をかけようと口を開く。が、数秒前までそこにいた彼女の姿は既になく、静かに口を噤んだ。
下り気味の道を目で辿ると、小さくなっていくティナの姿が見える。マキは額に手を当て、急ぐことも無く彼女を追って歩き始めた。
『遅いよー』
僅かな喧騒が聞こえてくる町の入り口で立ち止まっていたティナの元に辿り着くと、そう文字を表して彼女は頬を膨らませた。
マキは何か言おうとしたが、その前にティナの額を軽く二度小突く。
『――何で?
「いや、何となく、ね」
不思議そうな表情で額に手を当てるティナに、マキは笑いながらそう答えた。
「そんなことより、行くぞ」
首を傾げてたティナの頭に手を置き、マキは町へと移動する。
門を潜ると足元は土から石畳へと変わる。周りに立ち並ぶ建物は下見板張りの外壁に、窓は張り出しとし、他全てが同形式で統一されていた。
町に入って直ぐ正面には奥へと伸びる大通りがある。街路沿いには様々な種の店が構えられ、また、屋台を用いて営業もされていた。
今まで見たことも無い色や形をした果物や野菜、奇抜な模様が目を引く服などが屋台に飾られて興味をそそられるが、マキはそれらを無視して先へと進んでいく。が、隣から邪魔が入ってそうはいかない。
『ねぇねぇ、ちょっと見ていこう』
「いや、無理」
歩みを止めたマキは、袖を掴んでくるティナの懇願をきっぱりと拒否する。
『えー、せっかく着たんのに……』
「そんなこと言われてもな。疲れてるから夕飯のついでに休みたいんだけども」
うーん、とティナは唇に指を添え、少し間を開けてから頷いた。
それからマキは奇形な果実ばかりを集めた屋台を恋しそうに見つめていたティナを連れ、近くに合った喫茶店へと向かう。
木製の扉を押し開けると上部に取り付けられていた呼び鈴が揺れ、音を鳴らす。鈴の音が響き渡る店内は薄暗く、不規則に並べられた円卓群の奥にはカウンターが見えた。
マキは近くのテーブルにある椅子を横にずらし、反対の席へと座る。その開けられた空間にティナが入ると、直ぐにトレイを持ったスーツ姿の青年がやってきた。挨拶を済まし、水の入った透明のコップと御絞りを置いて彼は笑顔を作る。
「ご注文が決まりましたら呼んで下さい」
言い、男性は軽く会釈をして立ち去ろうと一歩退いた。だが、そこで足が止まった。ティナが彼の右袖を引っ張り、動きを止めたからである。
「何でしょうか?」
『注文決まったよ。私はオムライス。……マキ兄は?』
その光景を見ていたマキは急いで献立に一通り目を通し、
「じゃあ、サンドイッチでお願いします」
注文を済ませると、店員はまた会釈をしてカウンターへと向かって行った。
暫くの間、手持ち無沙汰を感じつつも特にすることもなく、マキはぼんやりを天井を見上げた。そこでは数機のシーリングファンが静かに回っている。軸は天井に固定されており、球体式のモーターには五枚の羽が付いた物だ。乱れないその動きを眺めていると、突然、眼前に文字が生まれた。
『ねぇ、マキ兄。この後どうするの?』
「ん、取り合えず宿探さないと。他に――」
ティナに焦点を合わせてからマキはそう言いかけ、先ほどの店員がトレイを持ってこちらに来たのでマキは話すのを止めた。
青年は注文の品をテーブルに置いてトレイを湧きに抱えると、こちらに視線に送ってくる。注文の品を全て運び終えたことを確認し、彼は別の用件で問うてきた。
「失礼ですが、これからご旅行ですか?」
「いや、ついさっきこの町に着いたばかりですよ」
否定すると、青年は少しばかり驚いた表情を見せた。
「珍しいですね。他所から人が来るなんて滅多にないんですよ」
『そうなの?』
オムライスを食しながら話を聞いていたティナは、マキの代わりにそう尋ね、首を傾げた。
「ええ、この町には特に目新しい物もないので。それに加え、近くの町から来るのでさえ交通手段がないため、半日ほどかかるんです」
『でも、この町でも今まで見たことも無い物が沢山売ってるよ?』
「それは――」
不思議そうに見つめてくるティナに何かを言おうとしていた店員だったが、カウンターから彼を呼ぶ声が聞こえてきたので、何か言おうとした口を閉じた。そして、慌てて会釈をし、駆け足で声のした方へと向かって行く。
青年がカウンターに立っている初老の男性に頭を下げ、新しいトレイを受け取ったのを見ていると、ティナがこちらの手に一瞬だけ触れてきた。
『ねぇねぇ、マキ兄。さっきの店員さんは何て言おうとしてたのかな?』
「……多分、大半は外から仕入れた物だと言いたかったんじゃないか」
そうなの? と更に問われるのでマキは小さく頷く。
「流し見程度だが、屋台で売られている野菜や果物は店舗に並べられた物とは値が二倍近く差があった。後は湿地や高原地帯でしか採れない果物も売られてたからさ。まぁ、実際のところはどうだか……」
冗談交じりにそう答えると、マキはサンドイッチを口にした。
食事を終えると、軽い談笑を経てから二人は店を後にする。
外に出ると辺りはすっかり暗くなり、街灯と店から漏れ出す明りが商店街を照らしていた。
しかし、その明りを灯す店舗は多くなく、比例し人も夕暮れ時とは違って疎らである。
マキは左手首に巻いた腕時計に視線を落す。長短の二本の針が示す時刻は七時五十分。
『お店閉まるの早いね』
と、通りを見渡していたティナが悲しそうな表情でそう言った。
「仕方ないさ。それよりも宿が見つかるかどうか」
『うん、いきなり野宿は嫌だよね』
不吉なことを、と呟いて二人は当てもなく歩き出した。
取り合えず、来た道とは逆を辿りながらマキは営業している店を一瞥し、中を確認する。営業している店のほとんどは食料品店や雑貨店などの日用品や身回品を扱っており、飲食店や土産物店などは二、三店舗しか見当たらない。
『宿、ないね』
商店街の端まで来ると、事実に不安を隠せない表情でティナが見つめてくる。
だが、否定も出来ず、まさか、とマキは苦笑するしかなかった。
「もう一度逆側まで行ってみるしかないか」
『そうだね』
二人は来た道を戻ることにし、方向を変えて再び歩き出す。
暫くすると、前から見覚えのある顔が近づいてきた。スーツ姿のその人物は、先ほど喫茶店で話した青年である。
声をかけようとしたが、こちらの存在に気づいた彼が先に話しかけてきた。
「あれ? どうしたんですか?」
『迷子』
親指を立ててティナが即答するので、マキは彼女の後頭部を小突いた。
「胸を張って言うことじゃないだろ。……似たようなもんだけど」
マキの言葉を気にすることもなく、ティナは本題に入る。
『それでね、泊まる場所探してるんだ』
「宿ですか……。確か南門の近くにあるはずです。まだ営業してるかわかりませんが」
そう言った青年は苦笑しながら自分が歩いてきた方向を指差した。
「良かったら着いて行きましょうか?」
『ううん、大丈夫だよ。ありがとう』
心配そうに尋ねてきた青年にティナは小さく首を横に振って微笑んだ。
青年と別れの挨拶を交わして、二人は南の門へと向かう。
目的地に辿りつくと、マキは辺りの家屋を確認し始めた。だが、店を構えている場所は少なく、看板を掲げている宿は見当たらない。
ティナに声をかけようとして振り向いたとき、マキはようやく彼女が近くに居ないことに気がついた。マキは額に手を当て、今度はティナを探すことに。
商店街から少し離れた家屋の前、そこで彼女の姿を見つけた。
こちらの存在に気が付いたティナが手招きするので行ってみると、そこは代わり映えのしない二階建ての住居である。すると、彼女は無言で扉の横に張られた紙を指差した。
少し古ぼけた紙には、‘来月一杯で営業を終了させていただきます。宿主’との文字が書かれてあった。
もう一度、マキは家の細部にまで注意を払ったが、どこにも宿ということを主張するような物が存在しない。
『えーと、どうする?』
「まぁ……、入ってみるしかないか」
ドアを開けて二人が中へ入ると、薄暗い小さな空間が開けた。
天上から降り注ぐ光は消えかけており、右手に設置されたカウンターの明りがこの広間を照らしていた。
今時分、そこに立っていたのは撫子色のエプロンを掛けた女性が一人。胸ポケットには‘セシル’と刺繍が施されていた。銀色のショートヘアに人形のように整った顔立ちはどこか冷たい印象を受ける。
受付を済ませようと近づくと、セシルは会釈と挨拶を済ませてカウンターの上に置かれた用紙一枚とペンを渡してきた。
一通り必要事項を書き、マキはペンを置いて顔を上げる。セシルは紙とこちらを確認し、
「お部屋は別々の方がよろしいでしょうか?」
「いや、一つでいいよ」
「わかりました。では、どうぞこちらへ」
マキが断りを入れると、セシルは起伏のない声でそう告げて歩き出した。
二人が案内されたのは宿の最奥にある部屋。部屋は縦に長く、シングルベッドが左右に一台ずつ置かれてある。左手には個室の脱衣所があり、手前の右隅には黒い箱に乗った古めかしいテレビが備えられていた。
「特に何もありませんが、備え付けの品はご自由に使っていただいて構いません」
それでは失礼します、と付け加え、メリサはゆっくりと扉を閉じた。
静まり返る部屋の中、トローリーケースを壁際に立て掛けてマキはベッドに腰を下ろす。と、同時にベッド同士の間にある円卓に麦藁帽子を置いたティナが、文字を現した。
『ねぇ、マキ兄。先にシャワー浴びてきてもいい?』
「ん、別に構わんけど」
断る理由も無く、マキはあっさり了承。体を休めるのに邪魔になったのでジャケットのボタンを外そうとした時、ふと、疑問が浮かんだ。
「――そういえば、一人で入れるか?」
『うん、立つことは出来るから大丈夫だよ』
「ならいいけど……」
素っ気無く返事をすると、ティナは嬉しそうに微笑んだ。
『心配してくれてありがとう』
いや、とマキはこめかみを掻いて視線を左、窓へと逸らす。だが、硝子は外の風景を微かにしか映さず、部屋の様子をはっきりと反射する。その端に映ったティナはにんまりとした表情をしていたが、直ぐに脱衣所へと消えていった。
視界を部屋の中へと戻そうとすると、ティナが後退しながら姿を現した。彼女は若干頬を赤らめ、
『あのね、覗いちゃ駄目だよ』
「そういう趣味ないから平気だって」
興味もないので適当にあしらうと、悲しそうにティナは口を尖らせた。
『そんな真顔で否定されたらつまらないよ――』
小さく感情を表現した後、ティナは再び個室へと入っていった。
静寂が部屋を満たしていく。
マキは軽く肩の筋肉を解し、重くなった身をベッドに委ねた。直ぐにはっきりしていた意識が落ちていく。逆らう理由も無いマキはゆっくりと目を瞑り、睡魔を受け入れることにした。 と、同時。 停止し始めた意識に割り込むものがあった。
水。放出された水が硬い何かに当たって弾ける音だ。それは単発ではなく、刹那の間を開けずに連続する。更に弱々しかった放出される水は次第に勢いを増し、音を大きくさせた。
どこから、と考える余地も無い。
闇に落ちていた思考には既にその答えは生まれている。しかし、想像するわけにはいかない、とマキは目を開けて上半身を起こした。
頭を掻き、マキは個室へと繋がる扉に視線を送る。
数秒を開けてぼやけた頭を横に振り、テーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばす。赤いボタンと九つの白いボタンのみの茶を基調とした簡素な物だ。
同色で統一されたテレビに向かって電源ボタンを押してみる。が、何の反応も示さない。
仕方なく、マキは立ち上がって直接テレビの電源を入れた。
若干の間を要してテレビに映ったのは、三人の男が討論を繰り広げる光景。三角の布陣で座る男達の机の上にはそれぞれ‘魔法派’、‘科学派’、そして‘中立派’と記された立て札が立てられていた。
念のために他の番組を巡ってみたが、特に気を引く目ぼしいものは見当たらない。結局は元に戻って討論を聞き入ることにした。
今、中央に座る青年が自身の答弁を終わらせようとしている。
『――私たち中立派はこれからも互いの派閥が手を取り合うことを願い、そして、実現できることを確信しております』
青年の主張に、左手に位置する強面の男が怪訝な表情で拒否した。
『それは無理だ。科学が進歩した今、我々が魔法に頼る予知などどこにもない。突き詰めれば、科学は魔法を凌駕する力をつけたと表現しても過言ではないのだから。例えば情報伝達技術。テレビ、電話、そして、インターネット。それ等が我々の誇る情報伝達技術である。テレパシーといった使用者によって伝達範囲、鮮明の差など生まれない。更に言えば、伝達手段も映像や様々な手段でして世界へと広めことが可能であり、情報量など比較することすら滑稽である』
『いえ、今まで何度も言うとおり、互いの欠点を補い、支え合うことが大事で――』
話を修正しようとしたが、今度は反対に座る男が言葉を遮った。
『しかし、相手の欠点を補うということを受け入れてしまうと、こちらの負担は莫大な量になってしまいます。確かに情報伝達技術や自動車などの運送技術は素晴らしいもの。ですが、エネルギー資源の消費量、それに伴う環境への悪影響は悲惨な状況とお見受けしています。それらの問題をこちらが補うにはあまりにも膨大過ぎる。解決策も見出せない状態で請け負うには損失は計り知れないわけで――』
長所を上げれば、相手が非難する。話をまとめようと中立派が間に入ったとしても影響力は皆無。討論は自賛と非難の繰り返しだった。
マキは画面から目を離し、何気なく視界を右へと移す。と、そこには頭からタオルを垂らした黒のジャージを着たティナがいた。彼女は何の反応を示さずにこちらを見つめ続けてくる。
「……いつからそこに?」
『酷いなー。ちょっと前からだよ』
頬を膨らませると、ティナは唐突に話題を変えた。
『マキ兄ってこういうの興味あったの?』
「まぁ、一応。面白くはないけど特に見たい番組がなかったしさ」
そう言ってマキはリモコンをティナに渡し、トローリーケースへと手を伸ばす。
中から着替えを取り出すと、気だるさを感じる体を動かしてマキは個室へと向かった。
部屋に戻ると、そこには誰もいなかった。
後ろ手に扉を閉め、濡れた黒髪をタオルで拭きつつマキは小さな部屋を見渡す。テレビから聞こえる女性の声が意識を持っていくだけで、特に変わり映えのしない空間である。円卓の上に麦藁帽子が置かれてはあるが、持ち主の姿は見当たらなかった。
廊下へと繋がる扉の上に掛けられた時計が午後九時を過ぎたことを示している。
ベッドの縁に座り、マキはタオルをケースにしまい入れる。
同時。小さく音を立てながら扉が開いた。隙間から顔を覗かせたティナは、部屋の様子を伺う。こちらが気づいていない素振りを見せると、彼女は部屋へと入ってきた。
何も言わずに前を横切るので、名を呼ぶとティナは動きを止めた。
「どこ行ってた?」
『セシルさんのところ。いろいろお話したんだよ』
どこか嬉しそうに語るティナは車椅子をベッド横に付ける。そして、体を横に捻って転がるようにベッドへと上がった。
時計を一瞥したマキは眉を顰め、
「こんな時間に迷惑だったんじゃないか?」
『んー、カウンターで暇そうにしてたんだもん』
ティナは体を壁際まで移動させると、膝を立てて枕を抱いた。
『それでね、セシルさんがいつまで泊まるのですかって言ってたよ』
「今のところは天気も良いから明日の朝には出ようかなと」
『明日かー。でも、よかったよね』
脈絡の無い言葉にマキは首を傾げる。
「何が?」
『だってさ、出発する前の日まで三日間くらい大雨だったでしょ? 当日も雨だったら嫌だな、と思ってたから晴れてよかったよね』
小刻みに体を左右に揺らしていたティナは嬉しそうに微笑んだ。
それから二人は他愛の無い会話を弾ませた。
幾許かの時が経つと、テレビの中の男女が番組の終わりを告げる声が聞こえてくる。それを耳にしたマキは、ふと、扉の上へと目をやった。
「――もうそんな時間か」
時計が示す刻に、マキの口からは自然と言葉が零れていた。
会話は途切れ、見ていた番組も入れ替わる。意識を向ける場所がなくなり、現在の時刻を把握すると、次第に体が重くなってきた。
マキは欠伸を噛み殺すと、
「ティナ。そろそろ眠くなってきたから寝るよ」
ぼんやりとテレビを見つめていたティナは、もう? と首を傾げるので頷いてみせる。
「今日はずっと歩いてたから疲れたんだ。……明日も早いからティナも早く寝なよ?」
『うん。そうするね』
細々とした文字でそう表すと、物悲しい表情でティナは枕を強く抱きしめた。
おやすみ、とつぶやき、マキは毛布を掛けて横になる。そして、ティナに背を向けて瞳を閉じた。
背後から聞こえる物音すら無に等しい。
それほど深い眠りへとマキは落ちていった。