プロローグ
針葉樹の深緑に満たされた森に甲高い汽笛が鳴り響く。
音は静寂とした空間に余韻を残し、音源である機関車は煙を吐いて森を駆けている。二度目の汽笛を発すると、木々の密接した視界が次第に広くなり始めた。
森を抜けた先に開かれた空間は広大な平野。快晴の下に広がる緑の地には木々さえ見当らなく、一本のレールと駅があるだけだ。
機関車は駅に合わせて徐々に速度を落とし、プラットホームに車体を合わせる。数秒の間を開けて連結された四つの車両に設置された前後の扉が開かれると、中から疎らに人が降りてきた。
一定間隔の吐き出される人の流れが途切れると、ゆっくりとした動作で車椅子に乗った少女が車両の中から姿を現した。彼女は背中まで流れる艶やかな髪を微風に靡かせ、深く被った麦藁帽子に右手を当てる。そして、白のワンピースに包まれた小柄な体を、左手を天に突き出しながら大きく伸ばした。
天上を見渡している少女が扉の前で止まっていると、背後から足音が聞こえてくる。
「ティナ、そんな場所にいると出れないのだが……」
突然の透き通った少年の声に、はっとした表情を見せる少女、ティナの顔立ちどこかあどけなさが残っていた。彼女は急いで手を使うこともなくその場から車椅子を移動させ、扉に視線を送った。
車両から降りてきたのは中性的な顔立ちをした、茶色いジャケットを着込んだ人物。右手には底に車輪が取り付けられた黒く大きなトローリーケースから伸びた棒が握られていた。
その人物はこちらを見ていたティナの頭に手を置き、
「まだ太陽は見えないだろ」
目を合わせてきたティナが小さく頷くと、突然、眼前に白く太い点が浮かびあがってくる。次の瞬間、点は軌跡を残しながら虚空を動き回り始めた。不規則な行動を取る点は線へと変わり、文字の集合体を作り出す。
『外に出たら太陽が見えると思ったんだけどなー。マキ兄の言うとおりだね』
文字の集まりはそう読み取れる。連動するようにティナが微笑むと書かれた文字は空気に溶けるように消えていった。
マキは軽く帽子を叩き、コンクリートの階段を下りて舗装された地面へと降り立つ。その後を追うティナは階段へと差し掛かると、車椅子は傾くこともなく地面と平行を保ちつつ難なく階段を下り終えた。
踏みしめる固められた土は左右へと伸びており、端には土産や書籍、アクセサリーなどの出店が十数件ほど見受けられる。また、販売形式も屋台やテントを用いたり、シートを敷いて商品を並べるなど多様であった。
周りの出店を見向きをすることもなくマキが歩いていると、後ろで辺りを楽しげに見渡していたティナが袖に触れてくる。足を止めると、ティナは文字を浮かべて懇願するような瞳で見上げてきた。
『ちょっと見ていこ?』
「別に構わないけど、本当にちょっとだけだけだぞ」
嬉しそうに頷いたティナが近くの出店へと向かうので、後ろに着いて行きながらマキは思わず微笑んだ。
向かった先は緑のシートの上に指輪や腕輪、首飾りなどの数十品が綺麗に並べられた装飾店。多種多様な装飾品がある中でティナは端に置かれていたネックレスを取り、笑顔でこちらに見せてきた。
『これカッコイイね』
そう言われるが、マキは理解出来ずに首を傾げた。ティナの持つチェーンの先に吊るされていた銀板に黒一色で描かれていたのは、体の右半身が狼へと変化した男が焼け野原で吼えている光景である。
『カッコイイのになー』
頬を膨らませてティナはネックレスを元に戻し、車椅子の方向を変えてどこかへ行ってしまった。商品に視線を移していたマキはティナはそのことに気づかないまま、店主の野太い声を耳にした。
「お兄さん、これから彼女と旅行かい?」
「ええ、ちょっと妹と親戚の家まで」
少し驚いた表情をした中年の店主は見事に蓄えた顎鬚に手を添えて笑い、
「妹さんか、悪いね。でも、……喋れないなんて大変だね」
体を傾けて店主はマキの後ろに視線を送る。釣られて振り向くと、そこには数種類の紙が張られた木製の掲示板を見つめるティナがいた。
「本人は気にしてないらしいですよ。俺も慣れましたし、あまり苦にならないです」
微笑み、それでは、と付け加えてマキは店を後にしてティナの元へ。だが、背後に立っても彼女はこちらの気配に気づく様子もない。
「どうした?」
と、肩に手を置いてマキが不思議そうに問うと、ようやく彼女は反応を示した。
『花火』
一単語だけを浮かばせ、ティナは目を輝かせながら一枚の紙を指差す。そこには‘花火大会のお知らせ’と題された紙に花火の絵が描かれており、日にちと時間、開催地が記されてあった。
『行きたいな』
否定されることなど考えてもいないであろう真っ直ぐな眼差しをティナは向けてきた。僅かな間を置き、マキは再度内容を確認した。
「花火大会か……。ロッズまで少し遠回りする形になるけど、大丈夫、かな」
『ありがとう』
無邪気な笑顔を見せて嬉しそうにティナが抱きつこうとするが、マキは一歩下がってそれを回避した。
虚空を掻くと、酷い、とティナは頬を膨らませる。だから、彼女の頬を突付いてマキは笑う。
「ごめん、ごめん、つい」
謝りながらマキは車椅子のグリップを握って向きを右へと変える。そして、軽く力を込めて押し進めると、ティナの頭上に文字が浮かび上がった。
『つい、じゃないよー。恋人なんだからいいじゃん』
「……いつ恋人になったんだ?」
『おじさんが恋人って言ってたよー』
あー、と少し前の会話を思い出してマキは苦笑した。
「妹だって訂正しといたからさ。後、自分で動く」
グリップから手を離し、マキは動きの止まったティナを置いて先へと進む。
そして、背後から近づいてくる音を耳にして草原へと足を踏み出した