二月二十日・交通事故死ゼロ目指す日
最近の小説でよくあるもの。
交通事故で必要な人物だったことに気づくこと。
大切なものは無くなってから気づく、不可逆的な状況によって価値を見いだせる。
恐ろしいことだ。
そして今、目の前の彼女はまさにそれの体現者であり、この世で一番不幸な人間だ。
交通事故。0.07%の確率で起こるその事象は、猟奇的な算出方法ー現代の算出方法ーで一万人いてそのうちの七人に降りかかる。
それがまるで必然であるかのようにその次の日もやってくる。それは世界のどこにいても起こりうる絶対的法則だ。
今日、彼女だった。明日は自分かも。いや、今日かもしれない。
そして今日、彼女は御多分にも漏れず「世界で一番不幸な人間」になった。
なぜ不幸か?交通事故にあったから?死んだから?
それらは関係ない。人間を不幸にするのはその人間を固定させることだ。
弔いに来た奴らは決まって言う。
「どうして死んじゃったの?あんまりだ」
「友達だったのに」
どうして死んだか?轢かれたからだ。友達だった?だから何だ。
相手が反論しないのをいいことにやつらは決まって過去を美化する。
死んだ人間に死んだ理由を問うか、友人だったのなら「不幸」になった彼女を救えるのか。
否。お前らはただの自己満足の塊だ。偽善者だ。
世界の忌むべき腫瘍だ。取り除かれるべき物体だ。
お前らに彼女が救えるか?不可能だ。
こいつらは明日になれば彼女のことなんか覚えてはいない。
今日この日の行動で満足したお前らなんかには。
腫瘍はなんとしても取り除かれねばなるまい。
まずは犯人を殺す。簡単なことだ。裁判で過失運転致死の判決が下されればいい。しかし、これでは死につながらない。
それならば、この偽善者どもを殺せばいい。
シナリオはこうだ。
こいつらの独善的な偽善の矛先は犯人へと向けられる。犯人が激高してこいつらを殺す。偽善者はいなくなる。犯人は過失運転致死に加え殺人罪が加わる。本能的に動いた犯人は世論と裁判所により死刑になるだろう。過去になった例として大量殺人は須らく死罪だ。
行動に移そうか。偽善者の感情を煽る。簡単だ。自分も輪に加わり犯人に対して異を唱えればよい。
すぐに犯人の居場所はわかった。交通事故がここまで発展したケースも今まではなく、少なくとも行政の反応が遅れたのが好都合だった。行政の反応が遅れれば事態の収拾など簡単には起こり得ない。
次に、犯人に接触する。こちらは多少難しかった。偽善者どもとは関係ない口ぶちで近づき、犯人の後ろ盾となる。頃合いを見計らって徹底抗戦が最上の手だと断言してやる。こちらは過失であって反省している。お前らの行動は住んでいるところ、即ちプライバシーが保護されるという人権を侵害するものだ、と。これにて偽善者と犯人の溝をてくる。
まだ犯人側についている私は、彼女の「友達」と犯人とを突き合わせる。これが一番大変であったが、大義があればどうとでもなる。事前に犯人には偽りの「完全犯罪」と方法を教えておく。長く続いている抗争により犯人の心は疲弊している。それから逃れられるという道があればそれを取るのは当然だ。監視カメラがない、といった嘘を流して公共の監視カメラで撮影する。
重要度の高い犯罪として裁判でも早期に扱われ、無実の人間を轢き、あまつさえその「友達」にまで手を出した犯人の判決はご想像の通りだ。
「なぁ、仇は討ったぜ、お前を貶めたやつらはみんな死んだ」
そして、この事件の源は、そして真に彼女を想い、彼女の「怒り」を固定させ「人間」を死に導いた奴は、
「処刑されてしかるべきだよな」
本日は二月二十日。交通事故死ゼロを目指す日。
ここまで極端なことは起こらないにしても、交通事故は良くないですよね、闇を描きました。
2008年から日本政府の「生活安心プロジェクト」の一環としてこの日が定められました。