プロローグ
口の中が鉄の味で満ちている。不思議なものだ。味を感じる程に鉄を舐めたり齧ったりしたことはないはずなのに、それが鉄の味だと感じるのだ。その見た目が、普段人が鉄として認識するものとは全く異なっていて、赤黒く液体状のものだとしても、これは鉄以外の何にでもない。これは血液の中に鉄分が含まれているという知識が与える一種の錯覚なのだろうか。それとも、人間が生来有している超感覚的なものなのか。はたまた覚えていないだけで、実際には味を記憶するに至るまで鉄を味わったことがあるのか。しかし、かのような疑問は東堂光とうどうひかるにとっては甚だどうでもいいことだった。
「痛ぇな……」
誰にでもなくただ呟く。その言葉の無為さと同様に、光の心は空虚に満ちていた。
「負けちまったなぁ……」
息と共に言葉を吐きだした後、唇を噛んだ。
――生まれて初めて喧嘩に負けた。
おそらく、他人が聞いたら嘲笑か侮蔑を受けるだろうその空虚の理由に、光はまさに絶望にも似た感情を抱いていた。自分の存在意義。自分の秀でた才能。自分の誇り。そのどれでもあり、そのどれでも足りえないものを光は『常勝不敗』に託していた。
そしてそれさえも失った現在いま、光は何に縋すがればいいのか分からず、打ちひしがれていた。全身を鈍痛が締め付け、倦怠感が覆っている。昔、四十度近くの熱を出したことがあるが、そのときよりも辛いかもしれない。
ポツリ、と光の頭に雫が垂れる。重々しく顔をあげると、いつの間にか太陽が雲で覆われていた。薄暗くなった空を見て、光は思う。
――おいおい、どこの三流のロマンスドラマだこりゃあ。
空が泣いている。空が自分の気持ちを表している。希望の光が見えやしない。そんなフレーズが一瞬にして、光の脳裏を駆け抜けた。思わず、自嘲じみた笑いが零れる。口許を歪めると、痛みが増して、変な笑い方となってしまう。それでも、光は笑みを止めなかった。
――希望の光が見えやしない、か。こりゃあ、いいや。俺の名付け親にでも教えてやりたいぜ。あんたの考えた名前とは全くもって正反対の人間に成長しちまった、ってな。
雨の勢いが増して行き、ついには光の身体に叩きつくほどのものとなった。
だが、光はそれに感謝した。雨が降っていて心底よかった、と思った。今の顔は誰にも見せられない。光はそっと目を瞑つむる。
――ほら、本当に真っ暗だ。
突然、雨が止んだ。いや、雨音は聞こえるのだから、まだ降ってはいるのだろう。光と空の間に何か遮断物が入ったらしい。その遮断物に雨が打ちつく鈍い音がしている。
光はゆっくりと目を開く。黒色の世界から灰色の世界へと戻って行く――はずだった。
「あ、気がつきましたか? よかった」
雨音のせいか酷く小さい声が、さりとて心からの安堵を感じさせる声が、光の耳へと届いた。
それを発したのは光の目の前に突如現れた少女だった。光の視界に最初に入ったのは、少女の白く細長い手だった。その先にはピンク色の傘の柄が伸びていた。どうやら、光から雨を遮ってくれたのはこの傘らしい。
光は虚ろな目で視線をその白い手よりもさらに奥へと移す。少女はおそらく高校の制服であろうものを身に纏っている。座り込んでいる光と身長を合わるために屈んでいるので背丈は分からないが、スカートから伸びる足はすらっとしている。栗色の長い髪は本来も相当長いのであろうが、今は少女の膝に当たっている。髪と同色の眉。目鼻立ちの整った顔つき。柔和な笑みが口許に刻まれている。
だが。
光の目を見開かせたのは、少女の容姿は一分とて関係なかった。
少女が、傘の全てを投げ出すように光の上に差していたことにあった。少女の全身は雨に濡れている。そのせいで、栗色の髪は肩にぺしゃりと貼りつき、白地のブラウスからは下着が透けていた。
突然、少女の顔から笑みが消え、不安げな眼差しを光に向ける。
「あの、救急車呼びますか? 酷い怪我してますし……」
その問いに光は小さく首を振り拒否する。
「じゃあ、立てますか? ここにいたら風邪を引いてしまいますし、どこか雨宿りできるところに移動しましょう」
少女は傘を持っていない左の手を差しだしてくる。
光は少女の言動を訝る。
――このままじゃ風邪を引くのはあんただろ。
――なんだあんたは。なんで俺に親切をするんだ。
――おい、下着が透けてるぞ。新手の逆ナンか?
少女への問いや返事が、次々と思い浮かぶ。少女と目が合うと、小首を傾げてきた。「どうしたんですか? やっぱり痛むんですか?」そんな声が目から伝わる。
光は小さく息をついた。
「あんた――」
――俺にかまわない方がいいぞ。
そう言うつもりだった。そう言うべきだった。光は彼女にかけた最初の言葉を後悔することとなる。この言葉を使うくらいだったら、考えていた「俺にかまうな」や「逆ナンか?」の方が幾分マシだった気がする。
「――名前は?」
少女の目が丸くなった。
光の目も同様となった。自分の発言が信じられなかった。俺は今、彼女の名前を聞いたのか? これじゃあ、なんか勘違いしてるみたいじゃねぇか。ていうか、俺がナンパしてることにならねぇか?
光が唸りながら言い訳の言葉を探していると、少女がふっと笑みを崩した。
「ひかりです。中禅寺ちゅうぜんじひかりと申します」
光は目を瞬しばたたかせる。一瞬、時が止まったかと思った。光を時の流れに戻したのは、やはり少女――中禅寺ひかりの言葉だった。
「貴方は?」
「え?」
「貴方のお名前を聞かせて頂いてもいいですか?」
「あ、ああ。……東堂光、だ」
ひかりの目尻が下がる。
「私たち、名前すごく似ていますね」
光は目を逸らしながら、「そうだな」と返した。
「じゃあ改めて東堂さん。ここにいたら風邪を引いてしまいますよ。どこかに移動しましょう」
光は頷く。痛みを堪えながら立とうとすると、顔の前に白い手が伸びてきた。目線を上に移すと、ニコリとした笑みをつくるひかりが居た。
「私、こう見えても結構力があるんですよ」
光は嘆息を零し、観念したようにひかりの手を掴んだ。雨で冷えているはずなのに、温もりを感じた。これはきっと錯覚なのだろう。鉄を食べたことがないにも関わらず血が鉄の味と感じるのと似たように、人肌は温かいものだという常念が引き起こす錯覚。
だから。
きっとひかりが名前を言ったときに彼女の後ろに見えた光ひかりも、彼女の名前からくる連想が見せた錯覚というやつなのだろう。光ひかるが感じている予感など、なんら根拠のない欺瞞ぎまんでしかない。
しかし、それがただの予感ではなかったと光が知るのは、ここから数カ月の時間が経った後のこととなる。